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 受付で面会用紙に年齢と氏名を記入し、〈入院者さまとのご関係〉では〈親族〉に丸をつけた。エアコンの風がシャツ越しに強く吹きつけ噴き出た汗が全身を冷やしていくのを感じた。〈面会理由〉は空白で提出した。渡されたカードを首にぶら下げ直近のエレベーターで三階へ昇った。病院ではなく福祉センターだが病院と同じく薬剤の臭いがして、清潔を保つためというより、人間がいる気配を清潔感で相殺しようとする意図を嗅ぎ取るようだった。途中の廊下で車いすに乗った女性とすれ違った。市民会館のような雰囲気で、逝去した人間を専門に取り扱う施設というわけではなさそうだったし葬儀の関係者ともすれ違わなかった。アプリを起動し地図を確認すると島富士の中腹に位置しており山頂を挟んだ対面上には牧場と見晴らし台が存在していた。降りる間際に耐えきれず「あっくんは?」と訊くと「あ、うん、こっちに先来てる」と妹は言った。車でも使ったのだろうか、年恰好を考えれば免許を持っていても不自然ではない。彼とは指扇の福祉センターでの初対面以来だからこちらの顔を覚えていないのかもしれない。ひさしぶりの再会などということになるが懐かしいはずもなく気まずく、むしろいないほうがよかったとは言えなかったがそう思ったので私は質問したことを後悔した。手続きを済ませてくるという二人と別れて、私は指定された場所へ向かって廊下を歩いた。あのときもトイレへ向かうために病室を出て廊下を歩いたわけだが、あっくんは壁によりかかりながら立っていて、「あのー」と私に、誰かに促されたように話しかけてきたのだった。手にスマートフォンを持っていて、このときすでにスマートフォンは発売していたのだと私は気づいた。自分が機種を切り替えたのはいつだったろう。「ここって、福祉センターじゃないですか」「え、うん」「一応病院じゃなくないですか」「そうですね」と私は応答した。じゃなくないですかってなんだ。「あのー、でも看護師さんとか医者の人とか普通にいるじゃないですか、病院じゃないけど」「うん」「だからケータイとか、使っていいのかっていう」「ううーん、まあ、どうなんだろうね」私は逡巡した。連絡を取りたい要件があるのか。たしかに病院ではなくリハビリテーションに主眼を置いた施設であると聞いているが素人には病院にしか見えず、スマートフォンを使って許されるような雰囲気ではなかった。外に出て電話すればどうかと言おうとした私を、しかし彼は完全に無視して画面を高速で操作し躊躇うことなく耳へ押し当てた。「アィっす! お疲れさまっす、え? あー、いや、申し訳ない、なんか知らない電話からだと出ないことにしてるんだよね、え? んーあーはい、あー、あー、あの件? あ、はい、あのー、あれか、なんだ、マル秘色情めす市場?」大きな声が廊下中によく響いた。しばらく会話しているといきなり「んはははは」と更に巨大な音量で笑った。「あああそうなんだ、マジか、やっばいなそれ」歩行器を使って手すりを掴み看護師と一緒に眼の前を歩いていた老人が私を睨んだ。看護師も睨んだ。私は目的地へ逃亡した。後ろからはあっくんの「うんま、なんとかするから、いや大丈夫大丈夫、はい、わっかりましたー、あい、お疲れさます、じゃ」という声が聞こえてきてそれを最後にふたたび静かになった。用を足し、戻って来ると廊下に人影はなく、病室へ入ると妹も消えていた。代わりにということかあっくんが同じパイプ椅子に腰を下ろしており尋ねるより先に「あ、母なんすけど」と臀部を動かして言った。「今ちょっとトイレ行ってるみたいなんで」「え、嘘」だってすれ違わなかったよと言ってみたが彼は無視した。知んないよ逆方向のトイレ行ったんだろそんぐらい分かれよ。私はあっくんの後ろ姿を見た。父は先程と違い寝息にノイズが混入したような鼾を掻きつづけていた。見様によっては危篤だが、あらかじめ話を聞いて来たのかあっくんは頓着せず文庫本を読んでいた。シャツの襟首は垢で汚れていた。身長は高く一見して恰幅がよさそうに見えるが、丸めた背は肉が薄く、腕や頸も細くて短い。痩せていず肥ってもいないが健康的な体型には見えない。顔はどちらかといえば幼い印象だが後ろ姿はむしろ老成していた。まるで別々の身体と頭を事後的に接着したかのようだった。どういう育ち方をするとこういった体格の人間になるのだろうか。どこがということもなくどこかしらが微妙にいびつで不安な気持ちを与える、そういう身体つきをしていた。本当に妹の息子なのかと疑心を抱いていたが、あらためて見ると本当に人間なのかとさえ思えてくる。それにしてもなぜここまで自分の祖父を気にかけないのか、義務で座っているということか。鼻の詰まったような苦しげな声にも反応しない。「もうちょっと心配しなよ」とつい言ってしまうと頸だけでこちらを向いた。だいたいさっきの態度もそうだ。いかにも暗く、言葉遣いも汚く、自分の殻に閉じこもり他人とろくに会話もできないくせに顔見知りに対してだけは居丈高で軽佻浮薄で、それは自尊心が強いからだろうがまったく鼻もちならない。こういう学生でも社会に出れば一端の大人のような顔をするのだろう。そもそも、こちらを向いたこの眼が、気に入らない。眼に表情がない。嫌々来たのだと一目で分かる。私は父に同情した。「さっきもそうだけど、病院でケータイいじっちゃいけないってぐらい大学生なんだからわかるでしょ?」あっくんはしばらくその姿勢のままで固まっていたが、私が言い継いだのに呼応するかのように立ち上がると、カーテンを引いて音もなく病室を出ていった。更年期だろうか。妹と気まずくなると困る。とはいえそもそも、仮にもし、あれが、自分の子供だったら。あのような生物が、過酷な労働の対価を二十数年にわたって注ぎ込んだ挙句の生産品なのだ。私は妹に同情した。それが不逞な感傷であることに気づかぬまま。そして考えた。たとえ高給でも投資先を見誤れば元も子もないわけで、自分はひたすら安月給で企画を出して腹の突き出た上司をいなして現場をろくに知らない二流ライターを焚きつけ原稿を書かせて、納得のいく作品づくりに邁進していれば、とりあえず構わない。そういう確信を人知れず抱いたものだがそれとは裏腹に、ということもなくむしろ無関係に、まったく別の出来事として、父と同じくあっくんも星になった。というよりすでになっていたし、正確には餅になった、なっていたというべきか、いや餅にしたというべきかもしれなかった。あっくんは福祉センターの視聴覚室に全裸で安置されていた。ビニールシートの敷かれた巨大な机の上の血色を欠いた尻を見つけ、うつ伏せにされていたので他人のご遺体だと勘違いし声を上げてしまい、警備員のような恰好の職員とおぼしき中年男性に口頭で注意を受けてしまった。「もう夜中だからあんま騒がないで」といつかのバスの運転手のような口調で職員は言うが、入り口に〈工芸体験コーナー〉と掲げられていながら甥の遺体があるとは予想だにしない。私は謝罪し、尿意を催したという口実でトイレに立ち寄りスマートフォンを起動した。ブックマークを開いてホームページに設置されたグーグルの検索窓に〈葬儀 遺体〉と打ち込み、表示された記事のうちから直近の日付のものを新しいウィンドウで開き拡大して閲覧した。〈8月11日(水)放送の情報バラエティ番組「ヒルナンデス!」にて、当施設が紹介されました〉という題が付されていた。〈「有終の美に備えて~専門家に聞く! イマドキはこんな終活、アリナンデス!?~」のコーナーで、愛媛県松山市の道後温泉、北海道旭川市の旭山動物園とともに当センターが紹介されました。リポーターのつるの剛士さんは併設の作業場、レクリエーション室などを見学し、工芸部部長へのインタビューも敢行。私たちが提案する「伝統を見直した、新しい終末のカタチ」をおよそ20分にわたって取り上げていただきました!〉という文面とともに当該のタレントと妹の並び立つ写真が掲載されていた。私は工芸体験コーナーに戻り、部屋の隅の机に置かれたアルコールの消毒スプレーを掌に塗してから、あっくんをどうするのか、どうしたところでなにがどうなるのか判然としないままに凝結した彼へ近づき備えつけの薄手のビニールの手袋をつけた。壁に貼られた、パンフレットの図示をそのまま拡大したような不鮮明な図解にしたがって煤けた左右の足首を把持した。体毛が剃り落とされていて、人間ではなく巨大な石鹸を掴んでいるような手触りだった。そのまま下半身を扇のように開かせていくと、股の付け根から抵抗が生じた。私は職員を見たが彼は私を見ていなかった。視聴覚室は小学校の教室をふたつ繋げたほどの面積で、出入り口は襖のような引き戸だった。嵌め込まれた窓ガラスは濁っていた。床はリノリウムだが塩素系の洗剤で掃除したのか、色の剥げ落ちている箇所がいくつかあり、そのせいかわからないが登山靴は頻繁に滑り、たとえば山中で沢の流れを辿ろうとすれば飛沫で濡れた岩床を手綱もなく空手で歩行しなければならないだろうが、そういう滑り具合だった。私は難儀し、なお敢行しようとすると足下と一緒に手も滑り、対象物を床へ落としてしまった。職員が机に乗せ直すのを手伝ってくれた。「本当はちゃんと消毒してるんだよっ、床なんかばっちんだから」「すみません……」小柄で私と同じくらいの背丈だったが、対象物の腰と肩甲に腕を回して軽く持ち上げてしまった。そして窓側に設えられた戸棚へ赴いて霧吹きを持ち出し、内容物を吹きかけると私に「続けて」と命じた。手順書によれば体験用の工芸品はあらかじめ柔らかくされているので女性でも簡単に畳めるということだったがその通りで、太腿を動かすために膝の裏に掌を宛がい、前方へ向けて上体の重みを押しつけると、皮膚の下に収められた骨たちが車に擦れる小枝のように乾いた音を立て、あっさり折れてしまい、驚いた。あっくんの下肢は部屋の中央を占領する机の上で180度に開かれた。腰骨の中心に追い立てられた臀部の肉が震えた。さらに押していくと骨盤の噛みあわせの外れる感触を経て肩の中心で足首たちが接着された。〈脚部をまとめたら、本体ごと自分のほうに引き寄せておきましょう〉とアライグマらしき風貌のマスコットキャラクターが忠言していたのでその通り実行していると「おっ、やってるやってる」という男性の声が聞こえて振り向くと妹と、同じキャラクターの描かれた上着を着用した義弟が並び立っていた。妹は鉢植えを胸に抱えていた。卒塔婆が氷柱のように何本も突き立てられていた。そのうちの一本に父の名前がシールで貼られていた。「重いー」と言いながら彼女はそれを床に置いた。「そんな重い? 発酵したら空気含んで軽くなんだろ」「いや、元の重さは変わらないんじゃないの」「空気って重さで言ったらマイナスじゃん」「ていうか持ってくれればいいのに」「そらまあ、そうだけど……でもなんか、こういうのって……」「何?」「いや……やっぱさ、身内が持ったほうがいいと思うんだよ、俺は。べつにおまえにどうこう言うんじゃないけどさ、なんか、急に押しかけたっつう感じはあるだろ。おまえはともかく俺は」「そうかな、そうでもないでしょ? 再々婚とか珍しくないよ今時。生涯独身もだけど……あ、うそうそごめんなさーい」妹は笑いながら私に手を合わせ、それからあっくんを見て「あっ」と短く叫んだ。「早く捏ねないと固まっちゃうよ!」そして薄いビニールの手袋をつけると、そのまま駆け寄った勢いであっくんの頭頂部を首の根元へ押し込んだ。頸部が膨らみ頭蓋が上体に埋め込まれていった。腋窩に掌を挿し込み肩口を持ち上げ、両腕と左右の肩を背面の上部で接着させた。手首を自分の指先で円く包みこみ、絞りながら揉むようにしてゆっくり滑らせると筒状に変形し、爪先から雫が垂れた。灰褐色の体表に黄色い濁りと粘りを帯びた液体が浮き出し、ビニールシートの皺には通り雨を浴びたような水脈が浮かび上がった。「拭くもの持ってきて」「え?」「そっちの段ボールにぼろきれ詰めてるから」妹はあっくんを掌で叩きはじめた。液体が飛散するのにも構わず、自分の掌底とその表面に触れるものを馴染ませるような動作で全体へ均等に打擲を加えていった。「ぼろきれって、消毒は?」「え?」「消毒……」「あ、この状態ならもう大丈夫」あっくんは裸身に湿り気を帯びていて、左右にめくれ上がった肛門からは糞便の残滓が漏出し異臭を仄めかせた。私たちの操作にもはや抗うことなく血も涙も流さず、ただ骨と肉の断裂する音を思い出したように鳴らしながら、なされるがままに流されていった。

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