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 だが、今ならわかる。わかったことにしたい気がする。というのも、そのように考えること自体が一種の甘えなのだ。確かに手取りは低いかもしれないがしかし、いくら成功しても一度の失敗ですべての信用を失うのが当然な業界で、低い手取りがゼロにならないことこそ僥倖であってこれ以上は望むべくもない、仕事が入らなくなれば文字通り飢え死にもやむを得ないのだ。それはよくない。私は、頑張らねばならない。お前は死ねと、私はまだ世間とか社会とか、それがそれ自身をそう呼ぶ大いなる包摂のようなものから、まだ宣告されてはいないはずだ。私はまだ、このような手筈で生きていて構わない立場なのだ。おそらくそのようなことを考えていた、あるいは考えることを夢見ていた、夢の内容として把捉していたとでもいうべきか、とにかく蒲団の中で惰眠を貪っていると、揺り起こされ手を引かれ乗用車に乗せられた。平衡感覚が覚醒しきっていないのか陽が落ちたからか身体と車との移動速度が齟齬を来たす感覚に襲われ続けたのでごまかすために、用意が万端だったおかげでよく眠れたとか移住してどうかとか山が大きいとかどこまで行っても海が傍らにあるとか、くどくどしく明るく同じ話を繰り返すと二人も何度か相槌を打ってくれて助かった。地図の限りでは島は巨大な、擂り鉢状の火山から噴き出た泥流がそのまま固着したような象りだった。私たちは泥流を遡行し麓へ向かっていた。海の気配が遠ざかっていった。夜の入り端の暮れ残りの空に星は見えなかった。アプリを起動して天気を調べると太陽のマークの記載があり、降水確率の欄には棒線が引かれていた。砂のせいかと尋ねれば妹は「うーん」と唸りながらライトを操作しウィンカーを鳴らした。未舗装の山道へ入るのが臀部に伝わる振動の変調で感得された。免許を取ったとは知らなかった、教習所があるようにも思えないし少なくとも地図には記載がないが、移住に先立ち取得したのだろうか。ヘッドライトは灌木を照らしながら左右に振れた。平坦だった行路は次第に勾配がきつくなり、樹幹の瘤や垂れ下がる青葉の影が窓の間近に迫り始めると完全に登りの道へ入った。「ここ砂がすごくない?」私は髪を指で梳きながら言った。屋外にいたのはわずかな時間だが、まるで海水浴でもしたかのように指の腹にざらりとした感触が残った。シートに砂粒が落ちる音をかすかに聞き取ったのでそれ以上の動作を取りやめ、腰を持ち上げ背筋を伸ばして座り直した。「砂?」私に地図を貸してくれた義弟は助手席で身をよじった。彼からの反応を想定しておらず返答に詰まり「砂です」と呟くと「火山灰のことじゃない?」と妹がハンドルを回転させブレーキを踏みながら補足した。シートベルトが腰を強く圧迫した。動物でもいたのかクラクションを長いあいだ鳴らしてから出発するときにワイパーが起動し、モーターの低い音の中へ断続的に礫のぶつかるような硬音が割り込んだ。「あの山?」と私は尋ねた。「どの山?」「いちばん高いやつあるじゃない、島富士だっけ?」「あー、あそこから降ってくるのかって話? まあ、まあ、そうみたいだけど」「平気なの?」「えー? なんか身体にいいとかで採集してる業者もいるくらいだから……センターに行けば売ってると思うけど。大丈夫じゃないの?」「それって今から行くところ? じゃないよね?」「ちがうよ観光センターだよ」マスクをつけた妹は「昨日だと予報で降らないって言ってたんだけどねー」と呟いて首をひねった。「でもずっと降ってるよ」「だねー。夜にこんなんなるなんて珍しいんだけどね。まあここじゃ雪みたいなもんだから」妹はワイパーのスイッチを指先で切り替えた。カラスの尾羽のように真っ黒な曲線が速度を上げて這いまわり、フロントガラスを分断して絶えず異なる形状に変化させていった。「雪は降らないの?」と私が尋ねると義弟が「降りませんねー」と再び割り込んだ。「だから二人で今度の冬に旅行に出ようと」「え?」「本土に。いや雪とか見たことないからさあ、どんなものかなあと思いまして。埼玉ってどうなんですか?」「埼玉はそんなに降らないよ」私の住んでいる場所は埼玉の指扇ではなく台東区の曳船だ。「えーちょっと、パパさんみーちゃんの家に押しかけるつもりでしょ」妹はアクセルを踏み込んだ。段差を乗り越える感覚が腰に伝わった。すでに林道と化した砂利道を走り抜けるあいだ、黄色っぽく光る除雪車のような大型の車両とすれ違った。路肩といっていいのか、林と道の境目の、若いままで散ったらしい落葉が薄く堆積している辺りに停車していた。「そんな、大の大人が三人も寝られるスペース無いから」私の蟄居を訪れたことのない妹が配偶者に宣告した。いまどき大学生が借りるようなアパートですらその程度の人数を収容できないことはないが、とにかくそう言われてしまった。「じゃあやっぱもっと北のほう?」義弟は助手席のシートに背を凭せかけ、軋む音もかすかに聞こえた。沸き立つ埃の粒さえ見えそうだった。新車かどうかは迎えに来てもらい同乗した昼間から疑っていた。中古を購入したのか、あるいはそういう店ではなく個人から買い取ったか、ひょっとすると譲り受けたのかもしれない。乗用車の譲渡ぐらいはごく一般的に起こりそうではないか、ここは本土ではなく島なのだから人々の気質とて相応に大らかなはずだ。「雪が降るところ?」妹は意外なほど大声で言った。その場にいる自分以外の人間に考えさせようとしていることは明白で、しかし義弟がその話柄につきなにも知らないのはさらに明白で、標的は私なのだった。咄嗟に「北海道、かな?」と口にした。「えーっ、やだなあ、なんか早死にしそうじゃないスか」義弟は急に口調を変えた。私にはそう聞こえた。とはいえさきほども丁寧語とそれ以外が混ざっていたから、些末な事柄を気にしない大らかでさっぱりした男、そのような言明を他人との邂逅で被ってきた人格の持ち主なのかもしれなかった。「ラジオで言ってた話?」妹は車速を落とした。緩やかなカーブが続いた。車の腹に木の枝が擦れて折れる、乾いた惰弱な音が何度か続いた。削られた山腹の凹凸が右側に迫るのを、車窓を占領する闇の表面に濃淡が立ち現われる気配で察知した。「だってああいうの馬鹿にできないって!」はしゃぐように義弟は返答した。「でも熱中症とかコーマとかあるからさ、暑けりゃいいってもんじゃないよ」「コーマ?」「だから本当に、感染症とか原虫とかで熱が出ちゃったりとか」「あーそういや俺んとこのさ、ユカタっているじゃない、会わしたことあるっけ、あいつがなんかインド? だかどっかを巡ってきたらしいんだわ、んで現地の、なんつうの、原住民? がさこう、なんつったっけ、なんとかってデカい河に集まってて」「ガンジス河」と私が注釈し義弟は「あーそうだっけ?」と言った。「その水がすっげ穢くてうんことか死体とか浮いてんだけど、あっちの人らはその水、手で飲んでんだって。んで真似して飲んだら下痢んなってさ。医者に診てもらったら腹に虫みたいのがいたらしい」「だからそれが原虫だって」「はー」砂のような火山灰が窓に当たる音が響いていた。ワイパーは激しく駆動していた。「あれじゃない、ほどほど寒いとこにしておけばいいんじゃない」「どこよ?」「えー、新潟、とか?」「新潟ってどっち? 向こう側?」「なにが?」「だからこっちとか向こうとかあんじゃん、あっちは」「いや向こうだよ向こう、日本海のほう」「というか新潟ってコメだろ」「違うって、そのコメが出来る秘訣が寒さにあって、だから寒い」「なに寒いとコメが美味くなんの?」「ほどよく寒いんでしょだから。北海道だと稲が死んじゃうんでしょ」「なるほどなー、まあ人が死ぬくらいだしな、なるほど」二人はマスクを着用したまま話し込んでいた。私は着用していなかった。しばらくして車が停車しハンドブレーキが扱われ、降りるように促された。実際には土埃で煤けてひび割れているであろう福祉センターは、夜の帳を背景に白く発光しながら浮かび上がっていた。

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