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 後部座席のドアを閉めると、ペンションの玄関で靴を脱ぎかかった義弟が電子キーを操作して車をロックした。妹が電気をつけて靴箱の脇に置かれた冷蔵庫の扉を開けるのが見えた。ペットボトルを取り出しながら「カウンターに置いとくねー」と言うので「うんわかった」と声を張った。「あ、でも麦茶出してるんだった。ねえ午後ティーと麦茶だとどっちがいい?」「麦茶」石を切り出したように不均整なコンクリートの階段を三つ上り、登山靴を脱いでスリッパに履き替えていると奥から女児の声が聞こえてきた。宿泊客だと思い無視していると、白熱灯の点いた台所を抜け出してカウンターの向こうに女児が現れた。五才ほどと見えた。固まっていると午後の紅茶を仕舞い直していた妹が駆けていき「この子」と言った。まさか自分の娘でもなかろうに、なぜなら彼らが結婚したのは半年前だが女児はどう見ても二足歩行していて、それより前から娘がいる話などついぞ聞いた覚えはないし、宿泊客らしいその子がどうかしたのかと問おうとする私をよそに、義弟は階段を上っていった。その背中を私は見上げた。「この子、麦茶出してお客さんに」妹が言うと女児は「うんー」と頷き、カウンターの内側でサッポロビールのロゴの入った小さなグラスに手を伸ばそうとした。しばらく様子を見ていたが届く気配は無かった。私は歩み寄り、反対側からそれを彼女に手渡した。浄水場のタンクを小さくしたような麦茶のサーバーが隅に置かれていて彼女は台かなにかに乗って身長差を補填して白い給水口にグラスの側面を押し当てる。籾殻を入れ過ぎたのか、烏龍茶のように濃い色合いの液体が並々と注がれ縁からこぼれたので慌てて口をつけ飲み干した。麦茶だと私は感じた。「うまい?」と女児が訊くので無言で頷くと、妹が「うまいじゃなくておいしいでしょー?」と訂正した。強い陽光が出入り口から差し込むペンションのロビーは、にも関わらず寒々しかった。椅子がいくつも並んだ長テーブルの上に敷かれたクロスは灰色で、ソースのような黒い染みの点描が遠目にも観察され、臭気さえ放っていた。洗濯ぐらいしてもよいのではないか。頭上から重たい音が響くと同時に隣で妹は「えーと、はい」などと咳払いをし、それは咳払いを目的とした咳払いといった感じだったが、それから「これ、この子。うちの愛娘です。どうぞよろしく」と頭を下げた。この子、と呼んだ女児の頭部で結われたお下げが揺れたかと思うと彼女は「どーん」と叫びながら台所へ走って消えた。「ああだめだね恥ずかしがり屋だからね」という妹の解説を聞いているあいだに、私はあっくんのことを思い出した。兄であるはずの彼が同居しているならばどこかにいるはずだが、まだ姿を見ていない。あるいは二階にいるのか。私は妹へ「うん」と返事をしてから手すりのない階段を昇った。父ならば昇れなかっただろう。昇るたびに階段は軋んだ。足の甲は煤けたような茶色が点描のように浮き上がりクロスの染みに似ていて、その下に血管の赤っぽい紫色が透けていた。廊下に出たところで靴下を脱ぐと、かさぶたが剥がれたのか新たな出血があった。度合いを確かめようと指で擦っていると、備えつけられたトイレから音が聞こえ、ややして義弟が出てきた。いつの間に着替えたのか、初めて会ったときのワイシャツがスウェットともトレーナーともつかない男物の上着に転じていた。海外のカートゥーン調のアライグマらしきキャラクターが描かれ、その下には細々とした英文が白地にピンクのゴシック体でプリントされていた。To enjoy is your duty.という一文が目を引いた。こういう文章が現実に存在するのか会話で通じるのか、そもそもキャラクターやシャツ全体のコンセプトといかなる連関があるのか皆目わからないが、いちいち気にかけても詮無いことは理解できたのでそういった事柄というか文脈には触れずに、愛想のよい、愛想だけはよい、車の速度を出し過ぎるし初対面で職場の話を持ち出してくる新たな身内の後を追って無言で、今晩宿泊する部屋へ入った。すでに蒲団が敷かれていた。アースノーマットのプラグがコンセントに繋げられているし漫画雑誌が置いてあるしスマートフォンの充電器まで用意されていた。あるいはまったくの善意なのかもしれない。ともあれこのたびのことが終了してもつつがなく付き合いは続くのだ。ここでこの人に慣れておかなくてはならない。「どんなもんですか?」という問いかけに「あ、ぜんぜん大丈夫です」と答えてから、やや考えて「ありがとうございます」と頭を下げた。大丈夫、はないだろう、ここまで用意してくれているのに。こういうときに、すごくいいです、とでも述べられたらよかろうに。私は相手の出方を窺ったが、気分を害する様子もなく「わははそうですか、じゃあまあごゆっくり」と陽に焼けた顔を光らせ笑い声を立て、鈍重な動作で部屋を出る間際に後ろ手で襖を閉めた。私は冷房のスイッチを入れ、蒲団に仰向けになり天井の木目を見つめた。円い電灯の横に錐で開けたような穴がのぞいていた。害獣でもいるのかと一瞬思ったがそういう感じではなく、人為的に空けられたとおぼしき、採寸を測った結果の真円に見えた。錐のように細く長い棒をそこに入れる場景を私は想像した。棒の先端が穴の先のスイッチに当たり、どこかの接ぎ木が外れて屋根裏が露わになり掃除や点検が簡単にこなせる、そのような利便性を想像してみた。眠気が眼の奥を霞ませた。瞼が下がると鈍痛を予示する濁った重量感が油のように眉間に垂れ込み、なにをするでもなく意識が途切れてしまいそうで、会社での仮眠ではよくあることだが自分でもそこまで疲れているとは感じていなかったので意外だった。空気が悪いせいかもしれなかった。穴についての思索にも倦んで思考が溶解していき、私はあっくんのことをまた考えているのだった。とはいえ平日の真昼とあらば学校や職場に通っているのが当然ではないか。彼がここにいないことは決して異常ではなく、返す刀でむしろ私がということになりかねず、この件には触れないほうがいいかもしれないが、ところでなぜ蒲団まで敷いてもらっているのだろう、大いに役立っていてありがたいがそこまで疲れているように見えただろうか。ところであの二人に私がどう思われているのかというのはこういった事柄が暗に示唆しているのではないか。いまだに名前がわからないが、この子、と呼びかけられていた女児を連れた妹は台所で麦茶の補充をしながらいかなる会話をしているのだろうか、私のことは紹介しているのか、父のことは。そういえば福祉センターの受付で面会用紙に年齢と氏名を記入するときも私は逡巡した。〈入院者さまとのご関係〉のような、たしかそのような欄があって当然〈親族〉に丸をつけてしかるべきだがそれでいいのか、もっと妥当なカテゴリーに自分を容れたい気も一方ではして、余白が半ば以上を占めるA4の用紙の前でエアコンの風がシャツ越しに強く吹きつけ、噴き出た汗が全身を冷やしていくのを感じながらたじろいでいるのだった。〈面会理由〉は空白で提出した。渡されたカードを首にぶら下げ直近のエレベーターで三階へ昇った。病院ではなく福祉センターだが病院と同じく薬剤の臭いがして、清潔を保つためというより人間がいる気配を清潔感で相殺しようとする意図を嗅ぎ取るかのようだった。途中の廊下で車いすに乗った女性とすれ違った。職員に告げられた番号を頼りに個室の扉をノックすると「はい」という妹の声が聞こえたので「みーちゃんだよー」と告げた。「あっ、みーちゃん?」妹は扉越しに返事をすると速やかに扉をスライドさせ、こちらの姿を確認するや「やーんみーちゃんひさしぶりー」と叫んだ。個室には二つのベッドが置かれていた。群青色のカーテンでそれぞれが仕切られていた。父は手前のベッドに寝ていた。カーテンを引くと、血色の悪い父の顔が上半身を起こしてこちらを睨んでいた。「お父さん、みーちゃんお見舞いに来てくれたよ」妹が補足事項のように言い足すとようやく表情が和らげ「アアッ、みさき来てくれたのけ? おら、おら」と嗚咽した。「おらこんな様になって、ああ情けねえ、情けねくで、涙が出てくるヨォ、ほら、こんな様に、こんな、もう一人ざ歩げねぐなるなんでな、人の一生、なにが起こるがわからんもの、こんな、情けないなりに、もういやだ、おら頑張るからな、まゆみに散々言われだからな、おらがこんななっだのは、なっだのは、おらが歩かなぐなったからだ、セカイイチが潰れて、ずっと歩いて買い物行ってたのにな、行かなくなって、んで歩けねぐなったんだ、ああ、もう情げね。とんだ恥曝しで、こんなとこに送られでな、しゅずゅつすてよくなるなんてな、そんな甘くないがらな、おら頑張って、がんべって歩げるようにな、なるがらな、なるがらな、アアッ」やがて父が眠ると私たちは廊下へ出た。出てから妹は「肛門が弛緩してるんだよね」とつぶやいた。「自由に排泄ができないからDパンツ穿かせてるんだけど」Dパンツ?「それって、その、手術の後遺症ってこと?」「ていうか、なんだろうな、あの、神経って手を施したら即座に恢復するって性質のものじゃないのね、だから後遺症じゃなくて恢復していくのはこれからリハビリしていって、それで徐々にだから」妹は溜息をつき膝に乗せたヴィトンの鞄を撫でた。金色のチャックと南京錠が二つずつ附いていた。私と異なりブランド物をいくつも持っていて顔を合わせるたび何かしら身に着けて現れた。訊いたことはないし訊けはしないが、私よりよほど稼ぎのよいことは明白だった。あるいは千葉県の病院というのは特別に給料払いが良好なのかもしれない。「歩けないわけじゃないんだね」「そうだよ、だからまあ、心配いりません」「うん、泣いてたからびっくりしたけど」妹はさつまいもの色をしたリップを濃く塗りグレーのアイシャドウを入れていた。睫毛も整えてきたようできれいにカールしていて、これから仕事かと尋ねると「そうだよー」と笑った。笑い返していいか迷ったが、詳細を聞けば勤務体系が異なるだけで週休二日はきちんと確保されているとのことだった。看護師にも役職があるらしく、妹は何か、「理事」という名称がどこかに入る肩書きだったと思うが失念してしまった。「そっか、大変だねお仕事」「まあね。だからみーちゃんにもお父さんのリハビリ手伝ってもらわないと」私は妹を見た。妹は千葉の市川塩浜で父と同居していた。一〇年ほど前に離婚して五年前に一度同じ病院の精神科医と再婚し、また別れたので独り身のはずだった。父は私と暮らしたことは一度もなく、近頃は数年に一度顔を合わせる程度だった。「手伝うってどういうこと? 一緒に住むってことじゃないよね?」「違うよー」と妹は言った。「私も忙しいから、たまにはこっちに来てほしいってこと」「そう」私は頷いた。正当な言い分だった。下手をすれば彼女のほうが多忙なのだから、こちらも交通費と時間を幾許かでも負担すべきだ。しばらく分担を相談していると医者がやってきた。背が高く黒縁の丸眼鏡をかけていて、若いが頭部が砂丘のように禿げ上がり頭皮に浮き出た脂が天井の蛍光を跳ね返していた。傍らに看護師の女性を伴っていたが妹より私に似ていた。顔の面積が広く、眼や鼻や唇が矮小で凹凸の概念が希薄だった。「はいッじゃあ、おちんちんに管入れますからねッ甘貝さん」父は身をよじりながらベッドから下半身を投げ出し寝間着のズボンをずり下げた。妹は父の股間に顔を突っ込んだ体勢で襁褓のテープを剥がした。ドウニョウ、をするとのことだった。「神経が麻痺してて排泄全般が上手くいかなくなってるのね、放っておくと膀胱にオシッコが溜まって炎症起こしちゃうから、外科的に処置しないといけないわけ」「それは周りの人がやるの?」「いや、やり方覚えさして本人にやらせるつもり。自己ドウニョウだね要するに、四六時中は一緒に居れないしね」父の手許はおぼつかず管の先端は中々性器の先端へ没入していかず看護師が作業を代わり、手元を隠したが指の隙間から様子が垣間見え、父は痛みゆえか激しく身をよじりつつも抵抗しなかった。私がときおり父を宥めているあいだに妹は医者と話をしていた。「すみません、伺うのが遅れてしまいまして、それでどうでしょうか、父は」「いえ、お元気そうですよ、隣の方とも仲良くなられたみたいですし」「はあ、あの、そうではなくてですね、その、父は」「あ、導尿ですか、そう、ですね、うーん、まだちょっと、ですかね、お独りでやっていただくのはまだ、厳しいかなと」「そうですか」「まだちょっと、練習が、お歳を召してらっしゃいますから」「え?」「ちょっと、理解力があまり」「あああそうですか? そんなことないと思いますけどねえ」語尾が尻上がりになっていて、私に向かって言ったようだった。父は薄い、肉の落ちた四角い肩を揺すり呻いた。麻酔などは使わないのだろうか。「大丈夫だから」と私は言ったが父は看護師の手許を凝視していた。鼻梁に浮き出た汗が唇まで滴ると代赭色の舌で嘗めとった。そうなのだろうか。父の理解力とやらは、そういうことになっているのだろうか。「そんなことないでしょ?」妹は語気を強めて尋ねたが、医者に対してでも私に対してでも看護師に対してでも父に対してでもあり、そのどれでもないような尋ね方だった。「うん、まあ」私は頷いた。彼女のほうが理解できる話ではあろうが、事情をよく知らない私にこそ公正な見解を期待している、そう解釈した。「大丈夫だと思いますよ、さきほども普通に会話しましたから」と私は言ったが医者は私を一瞥だにせず妹へ向けてDパンツの話を始めた。父がもう一度呻いた。いつの間にか処置が終了し、処置者たちが去り静寂の戻った病室で私は携帯電話を開き、送信ボックスに打ち込んでおいた復路のバスの発車時刻を確認した。三時半に折り返しが来るはずで、最終便ではないがそれ以後間隔が空いているので逃がすと七時ごろまで待機していなければならず帰宅するのは一〇時頃になる。それよりは早く帰りたかった。今日中に済ませたいのだ。深津さんは週明けでいいと言っていたが、先方がメールを確認する頻度を考慮するにさっさと提出するに越したことはなかった。身近なエピソードを、と言われたがそれは捏造できる。バスの車内の女子高生ではないがユーザーはあくまで、都合のよい、見かけの都合の悪さをも含めて都合のよい恋人を求めているのだ。あるいはコンドームやピルを出すべきなのかもしれなかった。主人公たちは自宅ではなく地元から離れたラブホテルでセックスする。シャワーを浴びたりルームサービスでビーフストロガノフを頼んだりオートロックの使い方を誤って店員を呼んだりカラオケを歌ったり円形ベッドをリモコンで回転させたりして遊んでいるうちにやる気が減退してしまい、まあとにかく、ということでひとしきりこなし帰り道で別れてから互いに自分たちの恋情が性交に限らずもっと巨視的な観点から述べて、さほどでもなかった、そういった印象を抱き、何度かデートらしき行為をこなす傍らで違和感の帳尻合わせに同じ地域の近接した設備で行為をこなし、繰り返すうちにどちらからともなく関係が途切れてしまう傍らで当該の設備の清掃員が室内のゴミ箱から使用済みの用具を取り出し、中身へ吸いつき性的な興奮を獲得する、そのようなリアリティを出すべきなのかもしれなかった。私がコンドームについて生まれて初めて真摯に思索していると、医者が睡眠剤を点滴してすぐに父は寝息を立てた。私はパイプ椅子に座り妹は立っていた。「椅子もらってこようか?」「うん、いいよ別に。にしてもホント、みーちゃん久しぶり!」「まーちゃんも」「元気だった? お父さんと会うのも久し振りだよね?」「うん、まあ」手術の報せを聞いたのは半年ほど前だったが、順番待ちが重なり先月にようやく済んだので、実際は入院して半月も経っていないということだった。「その間ずっとお見舞い来れなかったから」妹が申し訳なさげなので「まあ、それは私も一緒だから」と私は言ってみた。「でもみーちゃんと違って私はずっと一緒に暮らしてるわけでさ、ずーっと一緒にいたのに、ちょっと、やっぱりね」妹が溜息をついた瞬間に異音が響いて、器材の異常かと思ったが父の鼾だった。入れ歯を外した黒い口腔を膨らませ眠っていた。「くこおお」と音を立てて胸元を膨らませ、しぼませた。「こうしていると」妹は回想を開始した。「思い出すよねえ、キタゴウのほうで、お父さんと、お母さんもいて、皆で特急見ながら」確かに私の実家は線路沿いの団地だった。「姫路の伯父さんもいた気がする」私も追従した。「そうだっけ?」「そうだよ」伯父は私の幼時には姫路にいて連絡もろくによこさなかったらしいが、中学生になったとき唐突に実家に身を寄せた。二年前に亡くなるまでほとんど働かず自室からも出ず、初めは同情されていたがやがて疎んじられ、食卓で彼のことが話題に上ると唐突に雰囲気が暗くなったり明るくなったりして私はそのたびに無言で食べ物をつついていた。それでということなのか、私の回想の中では伯父と姫路城とちゃぶ台はひとつの組み合わせとして存在していて、普段もこのうちどれか一つを見聞きするともう二つの物事も同時に頭の中に姿を現すようなところがあった。「それで、そう、皆で特急見ながらね、こうプアアーって走ってくの見ながら、なーんかいきなりお父さんが言ってたんだよね、母さんと父さんは駆け落ちだったんだとか」「え?」私は伯父のことを忘れた。私たちは祖父も祖母も既に亡くしているが、それ以前には法事やら何やらで散々会ったし、言うまでもなく高校生の時分まで実家で一緒に暮らしていた。もちろん妹も。何を言っているのか、何の話と混同しているのか、しかし「お父さんね、お母さんにあじさいのブーケプレゼントしてね、こう、結婚してくださいって、そんな言い方しなかったろうけどそんなこと言ったんだって」と力説されて私は「そうだね?」と言った。そうだね。あじさいのブーケ。初耳だった。当然だ。「それいつの話?」「あたしがたぶん三歳かそこらの頃だから、みーちゃん小学校に入るか入らないかぐらいじゃない? 七五三やった記憶はある」「そうなんだ、すごいね」「でもあじさいだよ? お父さん花言葉知らなかったんだろうなあ、みーちゃん知ってる?」「ううん」「冷淡とか浮気性とかみたいな意味らしいよ、実際、ダメじゃんそんなの、ていう、贈っちゃダメでしょお! ていう」「そうなんだ」と応答していると背後で病室の扉が開いたらしかった。というのもプラスチック製だからかほとんど音がせず、向かい合った妹が身を乗り出す動作で気づいた。「あっくん」と妹は言った。私は振り返った。若い男がカーテンを暖簾のように除けて病床まで来ると、妹と何か囁きあってからこちらを見て「どうも」と聞き取り辛い声を発した。誰だ。私が頭を下げるより早く妹は彼の肩を抱いた。「これうちの息子」「は?」「息子」と妹は宣言した。私は戦慄した。妹の離婚の原因は、子供ができない、だったはずだ。数年前の法事で「ぽっくり逝く前にせめて初孫を抱きたい」なる趣旨の発言をした父に妹が怒鳴る光景を私は目撃しているのだ。それが見知らぬ若い男を、息子だという。一見して二〇代の風体であって少なくとも年齢の懸隔は親子関係に適うものに思えた。顔立ちは似ているともいないとも言いがたい。両人とも二重で鼻の形はそっくりだが顎周りの骨格が異なり妹はほくろが多いが男には皆無だ。すみれ色のポロシャツにジーンズを穿いており黒縁の眼鏡をかけている。少し眉を剃っているが髪は染めていない。「もっしー、どうしたの?」妹が無邪気に尋ねるので急いで笑みをつくり「すごおい、そっくりだね!」と有無を言わせぬ快哉をぶつけた。「そうでしょ? 言われるんだよねー似てるって、ねー?」「はあ」あっくんは妹と全く眼を合わせない。「ほらあんた、伯母さんと握手して、初めて会ったんだから」前の夫との子供かと確認したくてたまらない私が手を差し出すと、あっくんは妹が言い終わるより早く握手を済ませた。「台所になだ万の弁当あったでしょ? MRからもらってきたやつ。食べた?」「まあ」「おいしかった?」「普通」「普通って、あんた何でも普通ねーっ」「あー」男は妹に相槌を打っていたが不意に「ていうか出てるわ」と言い残し本当に廊下へ出ていき、それを見届けてから妹が「ごめんね」と言った。「あれもちょっと何考えてんだかわかんないんだよね、大学も休み入ったら寝てばっかりで、サークルは一応入ったみたいだけど、あんまり友達もいなそうだし」「大学生なんだ?」「そう」妹はさりげなく大学の名前と学部を告げた。私も知っている私大で、以前ジャニーズの子が入学したニュースをヤフーで見た。「すごーい」と言っておくと妹は唇を嘗めながらはにかんだ。息子。本当にいたのかもしれない。できたのかもしれない。知らなかっただけで。私は「いいなあ、私も子供欲しい」と言ってみた。にわかには信じ難いが自分の年齢は五十路に近づいているのだ。今まで何をしていたのだろう。自分と派遣のプログラマーと仕事で二〇年越しの付き合いの中年既婚男性と顔なじみの外注ライターという、いったい世間からいかなる査定を下されているのかにわかには想像しがたい人員たちに囲われ、私の人生は完璧に打ち止めになっている様子だ。月の残業はどう見積もっても過労死のラインを越えていて週に三回は徹夜し土日を設定の案出に費やし、これまでいくつか中規模のヒットタイトルの原案を出してきたが給与は平社員の扱いで、手取りは十年前から変わらず二三万ボーナス無し。私は何をしているのだろう。

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