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 地図を広げた妹が嬉々として話すには、私たちがいるのは周囲十キロほどの有人の大島であって他に無人の小島が存在していて、外部から持ち込まれたアライグマが数年前から繁殖して問題になっていて、両方とも火山島なのだが人が住んでいるほうには温泉が湧いていて、スーパー銭湯を期待すると裏切られるが都営の施設もいくつかあって、ジャグジーや薔薇風呂やなんと露天もあるとのことだったが、温泉めぐりに訪れたわけではない私には無関係な話だった。いったいなぜこんな話をされているのだろう。振動に揺られ埃っぽいエアコンの風を受け相槌を打っていると妹は「お父さんにも入らせてあげたかったね」とつぶやいた。「うん」と私は言い、義弟がいることを思い出し「お父さん、温泉好きだったからね」と補足した。亡父にまつわる懐古の一環だったらしい。「そうだよね、こんな早くに亡くなるなら外出させてあげればよかった、もっと」「いやあ無理だろ歩行器じゃ」会話に割り込んだ義弟はハンドルを切り、信号を抜けると高規格の道路へ入った。短いトンネルを抜け、落石避けのシェルターを抜けると車道の先に鉛色の光の粒が果てもなく尽きもなくばらまかれている光景にまみえた。鱗のような輝きが窓外を占拠した。土煙じみた暗褐色の叢雲が水平線の上に塊となって取り置かれ、その向こうに椀を引っ繰り返した形状の浅葱色がかすかにのぞけた。叢雲はその陸地の頂上から噴き出るように浮かんでいた。私たちの軽乗用車は風物の裂け目を縫うように、山裾がそのまま海に落ち込んでいる断崖の曲線を蛇行しながら露悪的な車速で駆けた。「やっぱり車椅子のほうがよかったんじゃないの?」義弟はアクセルを絶えず踏み込んでいた。メーターを見ると八〇キロを超えていた。「あれだったらさあ、補助席とかあるじゃない。映画館でもさ、最近はそうでしょ? たぶん」つけ放しにされているラジオから、今日も大島は晴れですという中年男性のものとおぼしき音声が聞こえ、割れた音でチャイムが鳴り木材会社のコマーシャルが流れ始めた。これで晴れているのか。伊豆諸島からも小笠原諸島からも外れた孤島というから、そしてインターネット上の画像に写る水平線には陸地の影もかたちも見えなかったからまさしく抜けるような青空を想定していた。天候もそうだが土の影響か風向きの仕業か空気そのものが煤けていた。叢雲よりも薄い赤褐色の、砂とも礫ともつかない微粒子が絶えず空中を漂っていて、なぜ車中でそれがわかるかといえば窓ガラスに当たる音がかすかに、しかし絶えず聞こえてくるからであって、妹も義弟も水色のマスクで口元を覆っていて防備せずにいるのは私だけだ。とはいえ海は整然と輝いていて、陽が出ていなければそういうふうにもならないだろうから、これはこれで晴れているといっていいのかもしれなかった。島の価値観は本土のそれと異なってしかるべきだ。「そうでもない?」と義弟が言い「さあどうかな」と妹は言った。さきほどから会話の間が不自然に空いていて、二人とも話題を変えようとしてタイミングを見誤るというのを繰り返している感じがした。〈今日は大島は晴れ。今日も晴れか?〉と中年男性が私たちへ尋ねたが返事のしようがなかった。〈で絶好の船出日和となりそうですね、はい、まァ今週末には台風が来ますんでね、はい毎年恒例、気象庁からのお達しですんで島民のみなさんにおかれましては吹けば飛ぶ葺き屋根ボロ屋根オカラ屋根をめいっぱい補修していただき備えていただき、ちゅー次第でございますネッ〉「本土のほうも私の住んでたところはあれだったから」「市川塩浜? 映画館は?」「あったけどさ、なんていうかそういう、配慮はなかったんだよね」「あーそう、しょうもねえな」「ね、ディズニーも近いのに、恥ずかしくて……」「ディズニーって東京でしょ」「千葉だよ」「東京が千葉なの?」「まあそれはいいんだけど」妹が振り返った。私は苦笑した。「話を戻すとお父さんも車椅子、嫌がっちゃってさ……」〈それで島ラジオ恒例、島特集本日のお題目は、なんと、島酒! はいー明日葉島焼酎でございます、ねえ、真昼間からお酒の話! どうよこれ?〉「やっぱり見た感じがさ、それはね、そう見えてしまうんじゃないの? そういう人を悪く言うつもりはないけど」「カテーテルも相当恥ずかしがってたからね。あの年代で地方の人だから余計にね……」〈これ飲んでる人はみんな長生きっていうけどね実際の調査でうちんとこ、平均寿命が千代田区の人より三歳も高いなんてデータが出てるらしいって、へー、ですね?〉「田舎だとそういうのあるのかなあ」「噂されるとか? それはねえ、うん」「ああ、だろうな……親父さん出身地どこだっけ、一回聞いても忘れちゃうんだよね俺」「いや二回聞いてもまた忘れると思うよ」〈ちなみに全国でいっちばん短命なのは北海道の人たちらしいですね、やっぱ寒いのはカラダによくないっ。よかったですねー常春の地で。まあまわりからすりゃいつまで生きてんだって人も中にはいるかもねってアハハハ〉「でも関東でしょ?」「東北」「えっそうなんだ、あの、あっちのほうってもう関東ではない領域なんだ?」「もうだからさあ。まあ地理感覚がぜんぜん違うからしょうがないんだけどー」「つうか埼玉とか想像できねえよ、海ないんでしょあそこ」義弟はバックミラー越しに後部座席の私を見た。シートに背中を押しつけられる感触に変化はなく、アクセルを踏みっぱなしのようだった。前方にはアスファルトを敷かれた直線が伸びていて、清潔で高規格だった。「ねえお姉さん、どうなんですか?」「いやみーちゃんは東京だよ」と妹が訂正するがその通りで、住まいは墨田区にあるし会社は東京スカイツリーの近くにある。原画が二人、彩色が二人、ディレクターが一人、企画を私が担当というかなり絞った人数で回していて、昔は市場価格で一万円も躊躇わない本格的なゲームを年に何本も作ったが、業界の縮小に合わせ体力を削りに削って、というのは続々と社員が馘首されたということだが結局今はソーシャルゲームという、いつ泡が弾けるかわからない分野に注力し糊口を凌いでいる、そのような塩梅だった。音楽とテキストは外注でプログラミングは一部、たった一人の派遣の子にやらせているが、経営が厳しいことはここ数年ボーナスをもらっていないことから推断しうるし、勤めてから十数年にもなるがいまだに電話一本で休日に呼び出されることも珍しくなかった。作業工程上、私のぶちあげる企画が通らなければ何も取りかかれないので致し方ないのだが、それにしても遣る瀬ない。その日も土曜日だった。ディレクターの深津さんと二人しかいないと思ったが実際には派遣の子が出社していた。顔を合わせるなり「お疲れ様です」と言われた。三〇代くらいかと思うが、いつも化粧が濃いのでよくわからないし尋ねることもない。漏れそうだったので荷物を置いて洗面所に駆け込むと、なぜか一緒に飛び込んで来た。とりあえず「最近どう?」と尋ねる。「別に愚痴じゃないんですけど、考えたらネイルいじるのも無理なんですよねここ。愚痴じゃないけど、それがちょっとなー、っていうのはありますけど」彼女はいきなり愚痴を言い始めた。「そうなんだ?」「甘貝さんは?」「え?」「いや、そういうお店行かれないのかなーと思って」彼女は屈み込むような体勢で、私の両手にぐっと顔面を近づけた。見てくれの問題でささくれの処理はしているし、癖でいつも深爪気味に切り揃えているものの美麗とは言い難い私の爪に、彼女は他人の家の冷蔵庫を開けるような、格式ばっていてかえって慇懃な動作で指を這わせた。「あっ、なんだなんにもやってないんですね、なんだ」いきなり手を離すと「ごめんなさい」と言い添えてそそくさとトイレを出ていった。なにが「ごめんなさい」なのだろう。私は備えつけの液体石鹸で両手を手首まで洗った。そのままフロアに戻ると「お疲れ様です、お先に失礼します」とパソコンの電源を落としていた彼女に挨拶された。さらに上司に呼び出されていると附言されたので、知ってはいたし呼び出されて土曜日に会社に来たわけだが、なにも言わず専務室へ向かった。扉を開けると強烈な冷気に包まれ、温度設定を確認すると一八度になっていた。やはりというか企画についての打ち合わせだった。「正直なところリアリティがないんだよね」「はい」「やっぱり妹がいきなり二四人できる、てのはちょっと厳しくない? 狙いは理解できるんだけど」どういうわけか梅雨明けから、ワイシャツの上にサスペンダーを装着して出社してきていた。ベルトが機能しているようには見えない肥り方で、むしろ遅すぎるくらいだった。「そうですね、人数がやっぱり」「それもなんだけど一応『多人数プレイモード』が売りじゃない、あまり他の部分でアヴァンギャルドになると、ッふ」多人数プレイというのはプレイヤーが複数という意味ではなく、最終的に恋愛関係に発展する相手方が複数であるという意味だ。プレイヤーと攻略対象のキャラクターとは言うまでもなく、遊び方次第ではキャラクター同士の交流も深まるため、上手く転がすと終盤の年齢制限シーンでレズセックスや3Pが勃発する。勃発、という言葉を企画書に盛り込んだのが奏効したのか、冗談で提出したのに本格的なプロジェクトへと祭り上げられつつあった。「そうですね」「そうなんだよ、このアイディア生かしたいから余計にね」「ありがとうございます」そうだろうか。これは、どういう意図で言っているのか。思いついたときのことなどなにも覚えていなかった。「うちとしてもここらでヒット飛ばしたいし」深津さんは上目遣いで私を見た。見つめ返すとすぐに眼を逸らした。「甘ちゃんとも長い付き合いだから」と呟いてから回転イスの背面に凭れ、イスが大きな音を立てて軋んだ。「じゃあもう少し人数絞る方向で、あと設定も変更して」「んんんそうだね、どうなんだろうね、なんかいい舞台ないかな、言っても男一人に女の子が馬鹿みたいに群がってるシチュが欲しいわけじゃないやっぱり、そのへんが」「そうですね、でしたら学園ものとかはありえるかと思いますけど」「え?」「男子が数人しかいなくて、その他のクラスメートが全員女子という状況でしたら、まあ、美術系の高校とかでしたらありえるかなと」机越しに数メートル離れているしエアコンで空気は循環しているはずだが、乾いた汗の発酵した臭気が間断なく届けられた。ワイシャツの襟首に濡れた痕跡が残っていた。「へえそうなんだ。それで?」「男子はプレイヤーと、プレイヤーへのアドバイザーで固めれば問題ないかと思います。女子はいかにもそれっぽい不思議ちゃん系の子とか、勘違いで入ってきた体育会系の子とか、美術系という要素を軸にして個々のポジションを設定していく方針でどうでしょうか」「実際そうなの?」「はい?」奇妙に素朴な口調で訊かれ混乱したが、リアリティ云々の文脈がまだ生きていて、つまりここで引き下がると今まで喋った構想がなし崩し的に却下される、そのような気配を嗅ぎ取った。「いえ、はい、そうですね。私が、私の知人がそういう高校に通っていたんですが、男子はやっぱり、本当に数えるほどしかクラスにいなかったという話は聞いております」「へええ」深津さんはお茶請けの菓子を齧り、耳鼻科で鼻水を吸入するような音を立てて緑茶を啜った。菓子は妹からの土産品で、上海の名産品で包装紙や小分けのパックに中国語の説明が列記されているが土産を購入した当人を含めて判読不能なので、私たちが具体的に何を食べているのかは私たちにもわからなかった。それにしてもなぜ持っているのか、配給したのは五月の連休明けだが保存しておいたのか。「いいね、話聞く限りだといい感じなんだけど、うんでも、こう、もう一押し欲しいんだよね、ベタでもいいから」茶飲みからは湯気が立っていた。この暑いのによく飲めるものだ。「なんか、なんだろうな、せっかくだからキーアイテムとか欲しいな」「キーアイテム」「うんだから、主人公と彼女が遠い昔に交わした約束の、的なモノとか。これもベタだけどね」「なるほど」「とりあえず週明けからライターさんに作業入ってもらいたいんで、それまでにコンセプトまとめてもらって」「はい」「一応僕のほうでもチェックするけど、アレだったら先方に直接渡しちゃっていいから」「はあ」私は苦笑した。直接渡すとなると直接コンタクトを取らねばならない。プロットも明示していないのに勝手に書き始めたあげく締め切りを超過し納期を遅らせるような、他人に毎年コミックマーケットの荷物持ちを押し付けるような人間とは、本当は関わりたくない。「とにかく、大事なのはリアリティだから、何か身近なエピソードとか、なんでもいいんで探してみてください、とまあそんな感じすね」しかし安い、こちらが申し訳なくなるほどの委託料で嬉々としてやってくれるのだから文句も言えない。この業界でフリーランスをやっているほとんどの人には、そういった意味での自己管理能力が欠けていると傍からは感じる。ところでこのためだけに呼び出されたのだろうか。メールで伝えればいいではないか。パワハラで訴えるぞ。「ところで、ついでだから昼飯一緒に食わない?」「いえ、すみません」「えー、いいじゃん、ひとりで食べるのさびしいー」パワハラで訴えるぞ。「いえ、本当にすみません」「あそう、じゃお疲れ」「失礼いたします」私は速やかに退出し、退社した。ぜひともそうすべきであったし、実際にそうした。妹から父の見舞いに来てくれというメールが来ていたからだ。向こうで自分も待っている、医者と看護師の説明を聞きたい、昔話もしたい云々。入院場所をマピオンで検索すると〈上大山福祉センター〉なる施設が出現し、県の認定によるリハビリテーションセンターという説明があった。父のように手術や疾病などで身体機能を喪失した人間を恢復させるのが目的らしかった。もちろん行かざるをえない。実父なのだから、行きたい。日曜日を引き換えにしても。そのような次第で私は翌日の昼間からバスに乗っていたわけだが、長年にわたって不定期に徹夜してきたせいか少し時間が空くと場所を問わず眠ってしまう習慣がついていて、そのとき車内ではよりによって、あんな相手、の夢を見ていた。夢の中でも私はフリーマーケットだかで荷物持ちをしながら相手の後ろを附いて回るのだったが、しばらくしてそいつの両耳から、細く青々とした蔓のような管が伸びているのに気づいた。掴んで引っ張ると掃除機のコードのように際限なく排出され、どれくらい手繰ったか、ようやく根元から抜けて空洞と化した耳孔からは空気が漏れ、相手はか細く甲高い音とともにしぼみ、ついには皮一枚になってしまった。まずい。が、わざとではない。疎んでいるとはいえ、この歳で逐一他人に死んでいただきたいと願うだけの精力は無い。逃げてもよかったが、逮捕されたときに理由を説明できない。待つよりほかない、待って正直に所業を打ち明けるべし、空気を抜いただけ、と。しかし逮捕の権限を持つ人間は現れず、見渡せば装いはフリーマーケットなのに他人の気配が皆無であって、孤独なままに周囲の景色が藤色に染まりかけるころ、目が覚めた。老人が目の前に立っていた。首筋は黒々とした光輝を放ち、汗を掻いている額は青白かった。いきなりの事態に無言で静止した。老人も無言だ。バスは停止していて、終点に着いたのかエンジンも停止していて、車内には私と老人とガラスの仕切り越しにこちらの様子を窺う運転手しかいなかった。運転手は腕章を引っ掛けたほうの腕でハンドルに凭れ、故意ではなかろうが顎でクラクションを鳴らした。ビッという音が一瞬鋭く空気を裂くと引き攣れのような動作で背を逸らしたが、なおも私を見ていた。老人も私を見ていた。瞼は大きく見開かれたまま凝固し、眼球が眼窩から隆起しこぼれ落ちそうだった。私は立ち上がり、開け放しになっている降車口のステップを降りた。けたたましい蝉の声とアスファルトが放つ熱気に触れてから、ひょっとして起こしてくれたのではないかと思い至った。それ以外に目の前へ直立され、凝然と見下ろされる合理的な理由はない。しかし待てども老人は降りて来ず、覗き込むと運転手に怒鳴られていた。「だァらお金ないンだったら降りらンないから、ネ、犯罪だから警察呼ぶから、ね?」口を利いているのは運転手だけで老人は俯いていた。私は老人の喉元を見た。喉仏がなかった。降りてきたステップに再び足をかけようとすると、運転手が手元のボタンを操作して降車口を閉めた。

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