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 福祉センター行きのフェリーは空いていた。山手線で新橋に出てからゆりかもめに乗り、途中駅で下車して徒歩で船舶乗り場へ、登山靴とリュックサックで向かった。いずれもホームセンターで購入したものだが、ホームページの〈ご遺族の方へ〉に種類についての記載はなかったし、日頃から登山を嗜むわけでもないから安物で充分だと踏んだ。歩を進めるごとに茶色い靴ひもが革越しに足の指を圧迫した。汗が染みるのか熱を持ったような痛痒が絶えず伝わった。週明けには靴ずれになるだろう、あまりに痛いと通勤に支障が出る。間の悪いことに外部の顧客との打ち合わせが月曜日に予定されていて、であればスーツの着用の業務命令は確実であって、革靴の中のソックスにひそかに血が滲んでいく光景は想像するだに憂鬱だった。闇の中で生理用品のように中年の女の赤茶けた血液を吸っていく白色は不穏な妙味に充ちていた。ペットボトルの生茶を飲みながら埠頭を歩いている最中、どういう客層なのか茶色や赤色に長髪を染めた、土っぽい色合いのシャツやジャケットに裾の膨らんだズボンを着込んだブルーカラー風の若い男たちの集団が目についた。積み上げられた色とりどりのコンテナに隠れるようにして寄り集まり、秋口だというのに花火をしているグループもあった。夏が終わりかかり、日ごとに色味を増していく夕暮れの緋色がやがて濃紫に浸されていく最中に、絵筆の先端から水滴を垂らすような白っぽい人工の光は騒がしい円陣の内部で不断にきらめき煩げだった。光は激しく横転しながらもんどり打ち、そのたびに奇声じみた笑い声が沸き起こった。暗くてよく見えなかったがワンカップの瓶らしきものを片手に持った者もいた。酔っているのではないかと思えた。そういう光景を尻目に歩いていると出航の一時間ほど前に桟橋へ着いてしまったので、待合室に入り売店で青年向けの漫画雑誌をめくった。御社が直近にリリースした作品が特集されていた。背表紙で雑誌名を確認してからもう一度そのページを見た。カメラアプリで写真を撮影して深津さんに送信してから同じ画像を公式アカウントでアップロードした。〈広報担当のAです! 私たちが制作を担当したゲームを漫画ゴラクさんが取り上げてくださっています!〉という文面を添え、漫画ゴラクについて思いを馳せた。去年もこういうことがあった。島ではなく埼玉のほうの、父が入院していた福祉センターへ向かう際、東口からバスへ乗り込んですぐに、後ろ乗りの乗降口のステップを上がって目の前に設置された一人掛けの座席に腰掛けて首筋と顎の汗をハンカチで拭いた、そんな覚えがあった。盛夏だった。私を最後に扉が閉まり発進した。モーターの駆動に同期し車体のあらゆる箇所が生き物のようにふるえた。正午を過ぎたばかりで陽が高く、窓越しに靄のような白い光が差し込み中空の埃の粒を明らめていた。なぜか煙草の臭いがした。間違いなく煙草だ。運転手が吸ったのだろうか。運転席の真後ろに紺と白のストライプシャツを着た老人が、その後ろに濃紫のレースを被った中年の女性がそれぞれ座っていた。老人の褐色の首筋には桃色の肉が盛り上がっていて明らかに誰でも気づく大きさで、あんな剥き出しでいいのか、ガーゼなど貼らないのかと訝った。通気性を保つよう医者に忠言されたのかもしれなかった。乗車も降車もなく単調な走行が続き、鞄を膝に乗せてうつらうつらしていると「ハイプ前」という停留所で女子高生が十人ほど乗車してきた。こんな中途半端な時刻に多くの学生が乗車してきたことに驚愕する。時間割の編成の問題だろうか。狭隘な車内が人間で満杯になり、向かって左のスペースを占拠した女子高生たちの誰かが「暑……」と言うのに呼応し、別の誰かが「あっついわ」と小声で叫んだ。私の座席の脇息の上でスティッチとウサビッチのキーホルダーが膨張した水色のスポーツバッグに頸部を圧迫されていた。ラケットも肩に掛けていた。制汗スプレーの香料が強く匂った。「ていうか雅也ぜんぜん落とせないわ」そんな言葉が聞こえてきてその表情を盗み見た。屋外で活動しているのか浅黒く日に焼けていて、薄い唇を歪め微細な唾の飛沫を周囲へ散布している。好きな男子高生のことだろうかと推察した。違った。「キャラ設定からしてツンデレ枠じゃん? 全然いうこと聞かないわけ、誕生日のイベントとかでさ前振りとして好きなものとか聞くんだけど、いざ指定されたヤツあげると、だっせえ、とか言うし、なんか」「はいはいはい」「あー、あれでしょだから、好きな人は好きだよねそういうの」という会話で私が設定したキャラクターの話だと判明した。「現実にいたら超うざいしょ」誰かが言うと爆笑が沸き起こった。こういう子たちにも需要が行き渡っているらしいことは察していたが、ここまでとは思わなかった。部活と勉強で恋愛に回す時間がないのか現実の高校生には飽き足らないのか、とはいえ彼女らが言うように私達は業界一丸となり現実の異性に飽き足らないというか、それはよく言えばということになるが、そういう層への供給としてグラフィック制作や外部ライターの招来やデバッグ作業に勤しんでいるわけで、つまりこちらの職務についてもこの趨勢は無関係とはいえないのではないか、こんな爽やかなグループさえそういう層と見なしたマーケティングを行うべきなのではないのか、マーケティングなど受け持っていないが。とはいえそう考えていたのはそのときの話であって、光陰矢のごとし、あれよあれよと私はマーティングを兼任させられ父は星になった。妙な因果だ、などと感慨を抱こうとしてみたが落ち着くべきところに落ち着いたようでもあって、そうして私は今や生みの親を弔う目的で島へ向かっているのだと、出航の翌朝に晴れた甲板に出て手すりに上体を預けながら考えてみても、船内は空いていたので一人芝居をしている気にしかならなかった。目的地の影がおぼろに見えたと思えば無関係な島で、フェリーは原則することも舵を切ることもなく粛々と通り過ぎていった。埠頭で見かけた若者たちと遭遇することはなかった、というより他の乗客をひとりも見かけなかった。個室でなくともよかった、初めて知ったが鉄道や旅客機と比較しても船舶は席の等級で値段が大きく変動するのだ。金券ショップでも取り扱いが無いので新規のチケットを購わざるをえず、一万円の上乗せは痛手だった。こんなことなら飛行機を利用すべきだった、いかに長い日数を休むかということを苦慮した結果が現況の無駄銭遣いだった。解放席のカーペットで全裸になって着替えるなどを繰り返して時間を潰し、出航してから十二時間を経てようやく港に着いた。海水浴場が併設されていたが泳いでいる人間は見当たらなかった。赤い旗が浜辺へ降りるためのスロープにくくられ、潮風を受けて大きく膨らんでいるのが目立った。遊泳禁止の合図だろうと推測しながらハンカチで首元の汗を拭くと、なぜか黒っぽい汚れが付着した。垢だろうか。船内でシャワーを浴びたはずだが、洗い残しということか。ステップを降り、埠頭に立ってクレーンを操っての貨物の搬出をひとしきり見学してから、規模と階数とベンチの数だけ異なる同じ外形の待合室で待機していると、外から乗用車のエンジンの音が聞こえてきた。

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