3人目 : 高橋一郎
廊下から戻ると、教卓の中に置いてあった座席表を取り出す。クリアケースに入れてあるので
特にこんな蒸し暑い時分には。
パタパタと扇ぎつつ、次の生徒のことを思い出す。
次は確か、高橋……高橋克己だ。これといって特筆すべき点はない。授業態度も記憶に残るようなところはないし、成績は中の上。唯一、思い出せる特徴といえば彼の父親についてだろうか。
そのとき教室のドアが開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、くたびれた背広の肩を雨にぬらした40代の男。手を前の鞄の上に重ね、誰に遠慮しているのか、体を小さくちぢこませるように入って来る。
それでも鍛えられた体の線は隠しきれていなかった。
「いやー、蒸してますなあ、外は」
私に背を向け、音を立てぬよう、丁寧にドアを閉めた。
小さくおじぎを繰り返しながら部屋の中央へと進む。私は席を勧めた。確認用にとっておいたコピーにそっと目を通す。家族構成と名前。高橋、高橋……あった。
高橋の父親、高橋一郎。
「この暑い中、お疲れ様です。息子さんはどうされましたか?」
「いやいや、申し訳ない、あいつは少し遅れてきます。何でもテレビ番組の録画をし損ねたとかなんとか……まったくお恥ずかしい」
ゆっくりと椅子に腰を下ろすと、背広と同じ色の帽子を取り、膝に置く。額から頭頂部まで禿げ上がった頭を懐から出したハンカチでしきりに拭った。
「いやー、そういえば先月も、こんな蒸し暑い日がありましたな。雨は降っとりませんでしたが、涼しい日が続いてたのにいきなりね」
確かにあった。
あれは確か……そう、あの日だ。
「この近所で轢き逃げがあった日ですね」
何でもないことのように私は外を見ながらそう答えた。
その外では、相も変わらず、細い雨が静かに降っている。
「そうでしたかな。ああ、そうですな。しかし大変な日でしたな」
「別にそれほど面識のあった子ではないので……」
私は苦笑しつつ、机の上のプリントを持ち上げ、コンコンと端をそろえた。相手は、そんな私を少し意外そうに見上げた。
「はい? あ、いえいえ、暑さの話ですよ。あのうだるような暑さです、いや、大変でしたね」
なぜかその言葉に軽い苛立ちを覚える。
気のせいか、目が笑っているように見えたせいかもしれない。
プリントを机に戻し、椅子に腰を下ろした。志望校などの話をするべきか迷ったが、わざと話をそらすのにも、なぜか抵抗を感じた。
「そうですか。確かにあの日の暑さはひどかったですね。少し歩くだけで汗だくになってしまいました」
「今日はそれに加えて、この雨でしょう? まったくカビでも生えてしまいそうですよ。まあ、こんな頭じゃ逆に生えたほうが見栄えがするかもしれませんがね」
ぺん、と禿げた頭を叩き、自分が言った冗談に、大声で笑う。
私も笑みを見せておいた。
「やはり頭をお使いになるお仕事なのですね」
失礼にならないよう、言葉を選んで話に乗ってみた。
「いやいや、普段は室内で右から左に書類を投げとるだけの仕事ですよ。それが何の因果か、あの日だけは現場に出る羽目になりましてね」
「ということは午後からですか。さぞかし暑かったでしょう」
「そうも言っとられんですから、何せ」
苦笑しつつ、帽子で自らを扇ぐ。
「人が亡くなられたのですから」
そう。高橋の少ない特徴の1つ。
「犯人を、捕まえなくてはいけません」
それは、父親が刑事だということ。
外では絶え間なく雨が降っている。ほとんど音を立てていないので、目を向けないと気づかない。
「そういえば、あの日、先生は休まれたんでしたかな?」
「なぜ、そのようなことを聞かれるのですか?」
窓を向いている私の視界の端で、高橋の父親が小さくゆっくりと首を振った。
「うちの息子が心配していたんですよ」
彼はここで奇妙な間を置いた。
「あの日を境に、先生の様子が変わったと」
「気のせいでしょう」
間髪いれずに返す。しかしその言葉が聞こえているのかいないのか、話を続ける。
「ひどく気に病んでいたようだと。当然ですよね」
またここで、一息、間を置く。私は振り向き、何と答えようか迷う。
しかし相手が先に話し出した。まるで私の反応見るためだけの間であったかのように。
「近所であのような凄惨な事件があったんですから」
「何が言いたいんですか」
「息子が先生の心配をしていたという話ですよ」
「私はあの日、一日家で休んでいました。それが何か?」
私はつとめて平静を装ったが、相手には伝わらなかったようだ。
「いえいえ、ああ、申し訳ありません。何か気に障られたのであれば謝ります」
軽く首を振り、浮かべた笑みに肉付きの良い柔和な頬が丸くなる。
しかしその目はまっすぐにこっちを見ていた。
これ以上、付き合う必要もないか、と私は視線を外し、プリントを取り出した。
「進路について、息子さんから何かうかがってますか?」
私のこの言葉に相手はホウッと息をつき、汗をふきつつ笑顔を向けてくる。
まるで、機嫌を直してもらえて良かった、と……、なぜか気に障るようなことを言ってしまったようだ、と言わんばかりの態度だった。
「特に何も聞きませんな。母親には何か言っているのかもしれませんが、どうも普段は会わないもので」
「では、なぜ奥様がいらっしゃらなかったのですか?」
ふと口をついて出た自分の言葉が意外だった。
「なぜと言われましても。私しか都合がつかなかったものですから」
「あらかじめ、いつの日がよいか、希望を出して頂くよう、連絡があったと思いますが」
足を組み、前かがみになって頬杖をついた私は相手を少し見上げる形となった。
高橋の父親は、困ったようにしきりに顔をぬぐい、もう片方の手で帽子を団扇のように使っていた。
「そうだったんですか? 私は何も聞いておりませんで。妻がこの日に代わりに行ってくれと、ええ、ただそれだけ聞いてきた次第でしてね」
「なるほど」
よく出来た答えですね、という言葉を飲み込む。
「無駄話をしてしまいました」
私はコピーしたプリントを1枚、相手方に向け、もう1枚を自分の前に置いた。
高橋は、父親の職業とは裏腹に文学科志望のようで、受ける大学は全て人文学科、もしくはそれに類するものだった。お父様の後は継がれないようですね、と軽く話題を振ると、いや、そのようで、と相手は少し残念そうに微笑んだ。
このときだけ、彼が本音を見せたように思えた。
そして直後にようやく到着した高橋は父親からゲンコツを頂戴した。
力を入れたほうがよい教科と、勉強するに当たっての注意事項をいくつか伝えたところで面談は終わった。
高橋はあからさまに緊張が解けた様子で大きく息をつくと、これ以上の会話が始まる前にとばかりにすぐ教室の外へと向かった。
「では、次の方の準備もありますので」
私も席を立ち、見送る準備をした。高橋の父親は丁寧に受け取ったプリントを折りたたみ、鞄にしまい込んだ。
教室の出口で待つ。
「今日はわざわざありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ、こんなオジサン相手にご丁寧にどうもありがとうございました」
深々と頭を下げる。
少しだけ申し訳ない気持ちになった。
外に出た高橋一郎がドアを閉めた。笑顔が向こう側に消える。私は、なぜか溜め込んでいた息を、長々と吐き出した。
その瞬間、がらりとドアが開いた。
「ところで、あいすみませんが、1つだけ確認したいことが」
不意をつかれた私が、口だけ開き何も言えずにいるところへ、するりと質問が飛ぶ。
「先月、お休みになられたとき、一日家で休んでられたそうですが……確か先生、先ほどこう言われましたね」
にこりと笑う。
「『あの日の暑さはひどかった。少し歩くだけで汗だくになってしまいました』と」
思わず息を呑んだ私を見て、笑顔のまま軽く手を振った。
「いえ、それだけ少々気になったものですから。では、お仕事頑張ってください」
引き止めようと手を伸ばした鼻先で、ドアが閉まった。
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