2人目:倉重千賀子
次の面談はクラスメートからは「チコ」と呼ばれている生徒だ。
そのあだ名はもちろん本名の
150センチ弱の背丈もさることながら顔も幼げで、正直なところ小学生と言われても驚かない。
1人目の
まず授業中にいきなり独り言を始める。
さらに、それが始まるとほぼ間違いなく早退する。言い訳は日によって様々だが、回を重ねるごとにいい加減になってきた(最後の言い訳は「部屋の窓を閉め忘れた気がするので」だった)。
これに関しては他の先生方から私に苦情が来ている。ぜひとも今日、ご両親を交えて話しておきたかった。
もう1つ、私物の持込みだ。
スマホなどであれば、まだ分からないでもない。実のところ、授業中にゲームを遊ぶような目立つ使い方をしていなければほぼ黙認状態だ。さすがにテスト中にカンニングに使おうとした生徒は没収の憂き目を見たが、さすがにあれは擁護のしようがない。
そんな中、倉重の持ち込んでいる私物はぬいぐるみだ。なぜ学校にぬいぐるみ。しかも2つ。色は白と水色で、クマかハムスターか良く分からない生物。
たまに人が見ていないところで腹話術の練習をしているところを何度か見た記憶がある。この問題に関しては、特に誰に迷惑をかけているわけでもないし、あまり強く言う必要性を感じていなかった。
ただつらいことがあったときに相談できる先がぬいぐるみだけなのだとしたら、それは家族の問題だ。
今日の面談の中で、何か家庭内で問題が起きていないかどうかをそれとなく聞き出せたら、と思いながら、私は倉重たちを待った。
そして、相模の親子が立ち去り、約束の時間から少し遅れて倉重がやってきた。
妙に後ろを気にしながら、1人で部屋に入ってきた。
後ろ手に戸を閉める。
「親御さんはどうした」
この言葉を口に出したとき、私は何かを忘れているような思いにかられた。しかし思い出そうとする前に、倉重の言葉が割って入った。
「あ、はい。大丈夫です。まだちょっと、あの、ああ、でも、はい、すぐ来ると思います」
やけに慌てた様子で席に着く。
腰を下ろしてからも何度も落ちつかない様子で入り口を振り返る。普段の授業態度を話されることに怯えているのだろうか。前に運動会で見かけた際には優しそうなご両親に見えたが、人は見かけによらないということは今日いやというほど思い知ったばかりだ。
やはり家庭の問題か。
「そういえば、ご両親のどちらがいらっしゃるんだ」
少しでも会話で不安をほぐせたらと声をかける。しかしその自分の言葉に、また何か引っ掛かりを感じた。なんだろう。
思い出しそうになったところで倉重が答えた。
「……両方来ます」
顔を伏せながら、消え入りそうな声でそう言った。
私は戸惑いつつも立ち上がり、部屋の隅に寄せた机のほうから、もう1つ椅子を引っ張ってきた。
倉重を挟むように3つ目の椅子を置き、あきれたように彼女を見下ろす。
「お前、三者面談だと伝えなかったのか? 三者ってのは、なんだ、3人ってことだぞ? もちろん、私を含めて」
「知ってます。でも、2人ともどうしても来たいって言うんです」
私の言葉を遮るように、少し強い語調で返す。
「あたしは1人でいいから、って言ったんですけど、2人ともたまには人間の格好で学校に……あ、いや、なんでもないです」
そのままあきれたようにぶつぶつと呟いていた倉重は、戸惑いがちに自分を見る私の表情に気づいた途端、焦ったように言葉を切り、あははは、と乾いた笑いを浮かべた。
そして、なんでもないです、ともう1度繰り返しつつ、私に向かって何かを払うように手を振った。
それからさらに5分が経過した。
部屋の中には相変わらず私と倉重の2人しかいない。
「一緒に来たんじゃないのか?」
彼女が事前に提出していた進路希望のプリントを見返すのにも飽きてきた私は、倉重に尋ねる。
「そうですよ、学校着いてから変身する予定でしたし……」
原色系の派手なブレスレットをいじくっていた倉重がぼんやりと答える。高校生にしては妙にカラフルな原色系で彩られており、まるで子供向けの玩具に見えた。
倉重の言葉の意図するところがいまいち分からなかったので問い返してみる。
「誰が何にだ」
この言葉に倉重は、怪訝そうに顔を上げた。そして自分が何を言ったかを思い出したらしく、ぶんぶんと首を振りつつ、違うんです、と叫んだ。
私は、そうか、とだけ返し、会話を打ち切った。
緊張しているのだろうか。どうにもさっきから話が通じない。
さらに5分が無言のうちに過ぎる。このままだと後の予定に影響が出るな、と不安げに予定表をチェックしていると、倉重が、ぐいっと顔を上げた。
何気なさを装おうとしてひきつった笑みを浮かべているが、目は真剣そのものだ。
「そういえば先生、あの、あのー、ちょっと2人が来る前に聞いておきたいんですけど……最近、ほら話題のマジカルチカ、あれってどう思います?」
「なんだ、いきなり。えーと、ああ、あれか」
今、倉重が言ったマジカルチカというのは、最近、世間を賑わしている……なんというか……そう、なんと表現してよいのか困る存在だ。
例えば、街中で少女が風船から手を離してしまい、街路樹にそれが引っかかってしまったとする。
風船を指して泣き叫ぶ子供と不注意を叱る親、そして通行人はスマホでそれを撮ったり横目で通り過ぎたりする。
そんな状況の中にさっそうと彼女が現れるらしい。
そこかしこに色とりどりのリボンとフリルがなびく真っ白いドレスをひるがえし、手に持った短い極彩色のステッキをパ行とラ行が多めの呪文とともに振り回す。
すると、不思議なことに引っかかっていた風船がふわりと彼女の手元へと舞い降りる。
優雅に風船の紐を少女に手渡し、にっこりと微笑むと、周囲の視線とスマホを避けるようにミニスカートを押さえながらダッシュで路地裏へと姿を消す。
この一部始終を見ていたという友人は、事の次第を語り終えると、最後に笑いをこらえつつ、こうつけ足した。
「んで、何が笑えるかって、このマジカルチカさん……どう見ても20歳超えてんのよ」
ちなみに毎回登場時にポーズつきで名乗るらしい。
名前も知れ渡るわけだ。
妙なところに納得している私に、友人が畳みかけるように感想を述べる。
「つうか、多分、20代後半いってるね、ありゃ」「もうすんごいナイスバディなんだけど、それが逆に痛々しいっつうか」「例えるならあんたが今セーラー服着るようなもんだね。それも超ミニスカで」
なぜそこで私が登場するのか。
個人的にはそんな年齢や衣装のことより、どうやって枝に引っかかっていた風船を手持ちに引き寄せたのかが気になる。
何かの撮影だった可能性はないのか、とか、手品の類と考えればタネがあるのではないか、とか色々と考えてしまうのだが、友人を含めてその場に居合わせてしまった人たちはそのインパクトのある衣装とボディラインに釘付けらしい。
助けてもらった子供も感謝の眼差しというより珍獣を見るような目つきだったというし、母親は一応感謝の言葉を述べつつも、曖昧な笑みを浮かべながら子供の手を引き、急いでその場を立ち去ったらしい。
そんなことをつらつらと思い出している私を倉重が射抜くように見つめてくる。
正直に伝えた。
「別にいいんじゃないのか? 一応、人助けをしているわけだし」
「人助け……うん、人助けって大事ですもんね」
大した感慨もなく返した私の言葉に、その顔が明るくなる。
そして倉重は自分を納得させるようにコクコクと何度も頷く。
「そうですよね。いいことしてるんですよね」
「らしいな。実際に見たわけじゃないんだが、特に悪いことをしたという話は聞かないし、別に警察沙汰に首を突っ込んでいることでもないし」
そう。彼女が現れては消える現場というのは日常的な困りごとや揉め事ばかり。
聞いた話では、中学生の喧嘩を仲裁したり、蕎麦屋の出前が自転車をひっくり返しそうなところで支えてあげたりといった瑣末な問題で、いまいちマスコミに取り上げられづらかったり、警察が問題にしないのも、そういった事情があるからのようだ。
「まあ、警察の仕事は警察の方々に任せておけ、ってことらしいです。適材適所って言うんですか? でも先日の轢き逃げみたいに迷宮入りしそうなのは調べてみてもいいかも、ってあたしは思ったんですけど、警察に任せるべきだって言われ……」
「轢き逃げがどうしたって?」
「え? あの、小学生の女の子が死んじゃった事件……犯人が分かっていないって」
「だから、それがどうしたんだ!」
「いえ、な、なんでもないです。ただ、マジカルチカはああいうことにはお手伝いしないって話です……らしいです」
なるほど。
そこで私は、身をすくめている倉重に気づいた。
どうやら知らぬ間に倉重を睨んでしまっていたことに気づき、視線を外す。
軽くフォローを入れてみる。
「まあ、だからといって悪いことをしてるわけじゃないしな。彼女にしか出来ないことというのがあって、そこで人の力になれているんならいいんじゃないのか?」
「はい」
弱々しく、しかし楽になったように笑みを浮かべる倉重に、私もほっとする。
気が緩んだ拍子に余計な言葉がもれた。
「とはいえ、さすがに年を考えろと言われても仕方ない気もするがな」
続けた私の言葉に、一瞬和らいでいた倉重の表情がひきつる。
「私も直接見たわけじゃないが、なんでもグラビアアイドル並みに出るとこ出て、引っ込むところ引っ込んでる体型らしいじゃないか。もうちょっと似合った格好があると思うんだが……フリルにリボンか」
苦笑交じりにそうこぼした私に、なぜか顔を真っ赤にした倉重は、泣きそうな顔で何やらぶつぶつと呟いている。
「しょうがないじゃないですか……コスチューム変えられない……年齢の1.5倍って計算……よく分からないし……」
声が小さ過ぎてよく聞き取れないが、どうやら私の不用意な発言が彼女を傷つけてしまったらしい。
失敗した。
やはりこの難しい時期だ。
扱いが難しいというか、とにかく気をつけないといけない。仕方ないな、と何か慰めの言葉をかけようとしたとき、教室のドアが勢いよく開かれた。
見やった先には、予想通り倉重のご両親が立っていた。
しかしいくつか予想通りでないところもあった。
「ようやくたどり着いたぜ! 迷路かっつうの! おう、チカ、待たせたな!」
「バカ! チカじゃなくて千賀子でしょ、正体がばれたらどうすんの! ごめんね、ププルがなかなか衣装決まらなくて」
「バカって言う奴がバカなんだよ! プルルンだって指輪だの首輪だの悩みまくってたじゃねぇか!」
何を言っているのか素で理解できない。
妙にハイテンションな2人に反して、いきなり真顔になった倉重は、すっくと立ち上がると両親へと近寄った。
母親は桃色のドレスに身を包んでいた。まるでお姫様のように広がる釣鐘状のスカート、室内にも関わらず開かれた上品なこじんまりとした日傘、そしてそこかしこにぶら下げた非常識なまでに大きい宝石類。
まるで中世の絵画から抜け出てきたようないでたちだった。
それに対して父親は映画に出て来るヤクザの親分のような紋付き袴に一本歯の高下駄を履いている。腰に差しているあれはなんだ。
2人の前に立った倉重が静かに問いかけた。
「お母さん? こっちはお父さんだよ? 変な名前で呼ばないでね。あとお父さん」
「な、なんだよ、怖え顔して」
見事な袴姿の父親が、娘の迫力にあとずさる。腰に下げた2本の大小が妙にリアルなのが気になる。
「その格好は?」
「お、いいだろ、お前の親父さんが前に見てた時代劇で……」
「着替えろ」
「いつか着てみたい……」
「着 替 え ろ」
「はい」
くるっと倉重が私を振り返った。
その顔には何の表情も浮かんでいない。
「先生、すいません。少々お待ちください」
「はい」
普段からは想像もできない迫力にそれしか言えなかった。
母親が倉重の肩に触れながら、弁解めいた言葉を並べる。
「チカ、あまりこいつを責めないでやってね。前から楽しみにしてたみたいで、あ、でも一応あたしは止めたのよ? せめてあたしみたいに洋服にしたほうが」
「あんたも着替えるんだよ」
「えっ?」
勢いよくドアが閉じられ、部屋は私1人になった。
ちょっと待て。考えてみたらどうみても他の服を持っているようには見えなかった。
まさか家に帰ったんじゃないだろうな。
これ以上、時間を浪費されると、ほとんど話す時間が無くなってしまう。
「お待たせしました」
ああ、やはり諦めたか。
「ほら、2人とも入って」
「んだよ、このダセー格好」
「お話するのは初めてなんだし、ちゃんとした格好のほうがいいんじゃないかしら……」
私は入ってきた3人を見て、目を閉じた。
鼻の上のほうを強く右手の人差し指と親指で抑えた。ゆっくり3秒数える。
目を開いて3人を見る。
父親はジャケットにネクタイ、母親は白い上品なワンピースの上から濃い緑色をした薄手の上着を羽織っている。
何事もなかったかのように席に着く3人。
「始めてください」
「倉重、ちょっと聞きたいことがあるんだが」
「志望校についてからですよね」
「違うぞ」
「あたし、東京の大学に行きたいんです」
相手の言葉に、慌てて手元の進路希望調査票を確認する。
「確かにそうなっているな。第1から第3まで、いやでもな、私が今聞きたいのは」
「おい、チカ、どういうことだ」
ガタッと音を立てて父親が立ち上がり、倉重をにらんだ。
彼女は顔を上げなかった。授業中に答えに詰まったときと同じようにスカートを強く握り締めているのだろうか。
倉重が黙っていると、どういうことなんだよ、ともう1度父親が上からかぶせるように、強く問いかける。
身を硬くする倉重を見かねて母親が割って入った。
「だからチカじゃなくて千賀子でしょ。でも千賀子、なんで東京なの? 何度も言ってると思うけど、東京にはもう担当の子がいるからあなたが無理に行く必要はないのよ?」
優しい声にも、倉重には答えなかった。
「おい、チカ」
「もうウンザリなの」
顔を伏せたままの倉重から、ぽつりと呟きがもれた。
「いい加減にしてよ。はっきり言って、もうウンザリなのよ」
うつむき、垂れた前髪の間から見えるその顔は、興奮のあまりか、血の気が引いて白くなっていた。
「あんたたちが間違えたんでしょ? 本当は小学生がやるんでしょ? 何であたしなの」
この言葉に、両親はばつが悪そうに互いの顔を見合わせた。
「……まあ、確かにね。変身して高校生くらいになるのが普通だし、どうせなら小学生よね」
「しょうがねぇだろ、小学生に見えたんだから」
父親がぽつりと呟き、それをとがめるように母親が視線を向ける。
「ちょっと、それは今言うことじゃないでしょ」
そんな両親の会話が交わされる間にも、倉重は誰に向けてなのか決壊したダムのように言葉を吐き出していた。
「恥ずかしくてたまらないんだから! 27歳で決めポーズ! 決めゼリフ! 友達がアレをなんて呼んでるか知ってる? マジカル痴女よ!」
「そんなこと言うアホがいるのかよ」
ここで倉重がふらつくようにぐらりと立ち上がった。
気おされる2人を前に、ゆっくりと息を吸い込む。
そして叫んだ。
「高校生と小学生の区別もつかないお前らがアホなんじゃあ!!」
その迫力に鼻白んだ2人を前に、倉重は激昂したその勢いに任せて喉を枯らさんばかりにヒステリックな声を発し続けている。
「ふざけんじゃないわよ! あんたらが困ってるって言うから、国に帰れないとか言うから、じゃあ代わりの子が見つかるまでって約束だったはずなのに、どう見たって探してないでしょ、授業中は何もしなくていいって話だったのなのに、それもいつの間にかうやむや、こんなことになるくらいなら魔法少女に……」
床を叩きつける音がその場の全員の鼓膜を殴りつけた。少し遅れて机が木製の床を転がる音が続く。
私が引っくり返した机が止まり、金属音の反響が薄れて消える。
魂を抜かれたようにただ立ち尽くす倉重に、私は席に着くよう命じた。
素直に応じる倉重。
残り2人もつられるように腰を下ろした。
さて、正直なところ、私は興奮した彼らの会話を半分も理解していなかった。
しかしこのままでは埒が明かないことだけは分かっていたので、とりあえず机の上に広げておいたプリントや筆記用具を軽くまとめ、後ろの教壇に移し、そして机の上に何も乗っていないことを再度確認してから全身の力を使って机を引っくり返したわけだ。
机を元あった場所へ置きつつ、私はゆっくりと順に3人を見やった。まだ先ほどの効果が残っているらしく、大人しくこっちを見ている。しかし同じ手は使えないだろう。この隙を逃したら後はない。
「重要と思われる点だけ話させてもらいます。まず志望校のレベルですが、第1希望はかなり厳しいです。ほぼ不可能ですが、不可能とは言いません。第2希望はそれよりは可能性があります。努力次第でしょう。第3に関しては滑り止めとしてよい選択だと思います。全て東京ということについてですが……」
ここで目が覚めたように顔を上げた両親を目で制してから、倉重に向き直りつつ一気に話を続けた。
「東京に行きたい理由はお前から説明するか? それとも話しづらいなら私から言おうか」
私を含めた3人の視線が倉重に集まる。
彼女は一瞬、きょとんとし、それから目を見開いた。
まっすぐ私を見る。
沈黙を破ったのは、探るように私に問いかける倉重の言葉だった。
「知ってるんですか?」
興奮すると血の気が引く彼女らしく、顔がまた白味を帯びる。
私は足を組むと膝の上で手の指を組んだ。笑いをこらえつつ、ことさら澄まして言い放つ。
「このクラスでは知らん奴の方が少ないぞ」
「嘘……ですよね?」
「イニシャルはAKだったかな?」
「う、う、うわっきゃーっ!?」
奇声が上がり、振り回された両手は私の口をふさごうと宙を舞う。そんな一連のやりとりを困惑した様子で見つめるご両親。
「どうするんだ。話さなければ伝わらんぞ」
「ううぅ」
さっきまで宙を舞っていた両手は、結局いつものようにスカートを握り締めている。
その固く握られた両こぶしを下に見つめつつ、話し出すためのエンジンを暖めるようにうなり続ける倉重を見て、母親がくすっと笑った。
「分かっちゃた。さすがに相手は分からないけど」
「んだよー、俺にも教えろよ」
「多分だけど、東京の……」
「好きな人がいるの。東京の大学にっ!」
かぶせるように叫ぶ。怒りに震えるような表情に顔色。しかしこれが彼女の照れなのだろう。ひるむどころか、優しく微笑む母親と、あっけにとられた様子に父親がぼんやりと呟く。
「そんだけか」
言った直後に後頭部をはたかれ……いや、殴られた。
「バカ。それほどか、でしょ。それほどの理由なのよ。こんなあたしたちのバカと無茶に、ずっとずっと付き合ってきてくれたこの子が、こんな無茶言い出すほどのことなのよ」
笑い過ぎたとでも言うように目元を拭った。
「さて、と。そういうことならしょうがないわね。言ってらっしゃいな、東京へ」
「ちょっと、待てよ、俺の意見」
また殴られた。
「別に反対するなんて言ってねーだろが!」
「誰もあんたの意見なんて聞いてないのよ!」
「ちょっとやめてよっ、2人とも」
「そうだぞ」
私の一言に争いが止まる。
「そもそもお前が、今の学力のままで」
紙を拾い上げ、第一志望を指で弾く。
「ここに行けると本気で思っているほど頭が悪いとは思っとらんが、今のままで行けるほどの頭の良さではない」
紙を小さく折り曲げ、後ろの2人に差し出した。
「3人で頑張ってください」
今日はありがとうございました、と頭を下げた。
顔を見合わし、照れ笑いを浮かべ、3人は席を立った。
入り口で父親が振り向いた。
「先生」
「何か?」
「いや、そのなんだ。ありがとな」
「仕事ですから」
私は肩をすくめた。しかし私のその言葉に何かを思い出したらしく、言葉を続ける。
「あと、そう、その仕事をさ、なんかよく邪魔しちまってて、本当に悪いと思ってて、いや、こっちもいつなんどきコマッタヒト・レーダーに反応が出……」
その後頭部へすかさず飛んだ倉重と母親の拳が、父親を完全に沈黙させた。
「先生、どうもありがとうございましたー」
ひきつった笑みをこちらに向けつつ、2人は父親を引きずるように外に連れ出した。
ドアを閉じる。
扉の向こうからうっすらともれ聞こえる会話。
「そういえば今回のことってイギリスから帰ってきたらどうするの?」
「そうねー、まさかこんな印象に残るイベントにするつもりなかったんだけど……あとで考え……」
遠ざかる声と足音。
そしてアラーム音のようなものが一瞬だけ聞こえた。
ふう、と一息つく。
そのとき、何か引っかかった。
「イギリス?」
そうだ。倉重の最後の言葉。
イギリス、イギリス……なんだ。何か忘れている。
思い出した。
倉重の共働きの両親は海外出張でイギリスへ行っているはずだ。
あらかじめ連絡があったことをすっかり忘れていた。まさか今日のためだけに帰ってきていたのか。いや、そんなバカな。
立ち上がり教室の出入り口に駆け寄る。
「おい、倉重!」
開いたドアの先に伸びる長い廊下に、しかし人影はなかった。なぜか廊下の窓が1つ、薄く振り続ける雨の中へ開け放たれていた。
廊下の前後を見回しながら、窓に近づく。
やけにデカい鳥のようなものが暗い空に飛んでいくのが見えた気がした。
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