→運命の一押し
ある日の帰り道、例の通学路の途中、また何か落ちていた。
小さな銀色の四角い台座の上に、真っ赤な丸い突起が生えている。
ボタンだ。
これはアニメとかでよく見る、押すとロボットが変形したり自爆したりするタイプの、あのボタンだ。
というか、なんなんだこの道は。なんでも落ちてんな。俺も何か落としたりしてやいないだろうか。今度から気をつけよう。
でも、とりあえず今気にすべきはこのボタンだ。
押すと、どうなるんだろう。
そう思った次の瞬間には、俺は真っ暗な闇の中に放り込まれていた。暗闇の中でボタンが怪しく光っている。
そして、一条の光が上から降り注ぐ。
来たか。
(みんなおいでよ《思考の谷》へ、あなたの不安も天に召しませ、ヌンガロベ~イド~♪)
光の中心では、バイザーを着けた女性が気持ちよさそうに歌を口ずさんでいた。
何すかそれ。
(ヌンガロベイド様のテーマソングです)
あんのかよ。
俺の中の天使は聞いたことも知りたくもないよくわからん宗教にはまっている。正直勘弁してほしい。
(CDもありますよ。一枚千二百円、PVを収録したDVD付きの限定版なら三千円ですが)
無駄にバリエーション充実させんなよ。びた一文払う気になれんわ。
それよりもこのボタンについてなんとか言ってくれないか。
(爆弾のスイッチかもしれませんね)
俺の中の天使様は想像力豊かである。
(なので、押してみましょうか)
なんでそうなるかな!? さっき爆弾かもって言ってたのに!
(爆弾は人類にとって最大の罪な発明です。しかし、すべてを浄化する炎の救済でもあります。ヌンガロベイド神を信仰していない愚かな異教徒どもを殲滅するチャンスですよ)
俺もその神信じてないんだけど。その理屈でいくと、真っ先に餌食になるのはボタンに一番近い俺だろ。
天使の信心がいよいよ危ない域に達している。ブレーキはどこにあるんだ。
(そんなふざけた神のために押すこたあねえよ)
天使の向かい側に仮面をかぶった悪魔が立っていた。おお、そこにあったのか。早くこの狂信者を止めてくれ。
(ボタンってのは男のロマンで押すもんだ。さあ、いっちょポチろうぜ)
あ、だめだ、このブレーキ故障してるわ。
てか、なんで天使も悪魔もボタンを押させようとするんだ。意見割れろよ。天使が良心で悪魔が欲望なんだろ? 役目を忘れてないか。
悪魔はにやりと笑う。
(『ポチっとな』と言いながらボタンを押すのは悪の醍醐味だろ)
お前の悪のイメージ、だいぶセピア色だな。
しかし困った。すっかり押さなきゃいけない流れになってきている。
頼りにするのは癪だが、あいつの意見がまっとうなことを期待するしかない。
「落ち着きましょうよ、皆さん」
噂をすれば影が来た。その影はくたびれたスーツに包まれたおっさんの形をしている。これで全員揃ったな。
もうあとはお前だけだ、頼むぞ。
スーツ姿のおっさん、神林は真剣な表情で口を開いた。
「このボタンは絶対に押してはいけません。いいですか、絶対ですよ」
えー、そんなこと言われたら押したくなるじゃん。
断然押したくなるじゃーん。
今までで一番強い誘惑になったわ。
好奇心は麻薬だ。禁忌とは破ってこそ蜜の味になる。だからアダムとイブは林檎を食べたし、上島竜兵は突き落とされる。
「振りじゃありませんからね」
その言葉自体がもう振りにしか聞こえない。本当に押してほしくないのなら、もっと真面目な素振りを見せようぜ。
(あなたはこのボタンがなんなのか知っているのですか? 神林さん)
天使が首をかしげた。
「いえ、わかりません。ですが、押してはならないということだけはわかります」
神林の言葉はどこか矛盾している。
(でもよお、ここで押さないと、どんなボタンだったのかわからずじまいになるだろ? 心の中にしこりができちまうぜ? この先何度も、ああ、あのときあのボタンを押してたらどうなってたのかな、って思い返すはめになるんだぜ?)
悪魔が不敵に笑う。はじめてお前のことが悪魔らしく見えてきたよ。
(というわけで、押してしまいましょう!)
(だから押そうぜ!)
俺の中の天使と悪魔が手を組みやがった。
種族的にいいのか、それは。
(ヌンガロベイド様もこうおっしゃっております。『据えボタン押さぬは男の恥』と)
今作ったろその言葉。謎の神による謎のアドリブ力だった。
神林は慌てて手を振る。
「ですから、このボタンに関わっちゃだめですって。触らぬ神に祟りなしですよ」
(その神が触れとお告げになっているのです)
神林の必死の反論も、天使にたやすく論破される。
いや、たぶんお前らの言ってる神は一致してない。
(つーか、そんなにむきになってるってことはよお)
悪魔が顎に手を添える。
(お前、何か知ってるな?)
神林の肩が跳ねた。
まさか、ビンゴなのか?
知っているのか神林!?
(吐きなさい! 懺悔しなさい! ヌンガロベイド様を崇めなさい!)
天使が神林を背後から羽交い絞めにする。
あとさらっと入信者増やそうとしてる。
(さあ、審判のときだぜ!)
悪魔が高らかに言い放つ。
(このおっさんの爪を剥ぐか!)
天使も叫ぶ。
(真実のために歯を抜くか!)
二人の声が重なった。
(さあ、どっち!?)
なんだその団結力。
そしてなんちゅう選択を迫ってくるんだ。
何が悲しくておっさんの拷問を手伝わなきゃならんのだ。
「僕から言えるのはただ一つです」
汗をかきながら神林は訴える。
「このボタンは、人類の手に余る!」
(なら、悪魔なら問題ねえよな)
悪魔がひょいと地面のボタンを手に取った。お前!
(それをよこしなさい、悪魔! 神の御使いである天使が押した方がいいに決まっています!)
天使も神林の拘束を解いて、悪魔の手からボタンを奪おうとする。
さっきまであんなに息ぴったりだったのに、天使と悪魔がボタンを巡ってどたばた暴れている。争いって、醜いね。
俺の心の中をあんまり荒らさないでくれるかな。
(審判の時です! このボタンを押すのは私か!)
天使がわめく。
(いいや、俺か!)
悪魔も吠える。
「だから押しちゃだめって言ってるでしょうが!」
神林が抵抗する。
もみくちゃになって暴れる三人を見ていると、なんだか無性にむしゃくしゃしてきた。
俺は奪い合いに巻き込まれて宙に放り投げられたボタンを、ジャンプしてキャッチする。
(私が!)
(俺が!)
「押しちゃだめですってば!」
三者三様に慌てふためくこいつらに、俺は宣言した。
「お前らに押されるぐらいなら、俺が押してやる!」
瞬間、まばゆい光が弾け、天使と悪魔と神林をかき消した。
俺の心が決まったんだ。
光が止み、いつもの通学路に帰ってきた。俺の手の中には赤いボタンがある。
やるんだ。押せ。押しちまえ。そしたら楽になる。
けれども、いつになく切羽詰まった形相の神林が、頭の中にちらつく。
本当に、押していいんだろうか。
俺が迷った、その一瞬の隙に、
「失礼、少年」
どすの効いた声が割り込んできた。
びっくりして危うくボタンをポチるところだったじゃないか。
気がつけば、俺の前にはサングラスをかけた黒服の男が立っていた。神林の着ているやつとは比べ物にならない、一目で高級そうだとわかるスーツだ。
サングラスは分厚く真っ黒で、男の目線が読めない。それがかえって得も言われぬ威圧感を演出していた。
「そのボタン、押したのか?」
俺は全力で首を振る。それを見た男はぎこちなく笑った。普段からあまり笑い慣れていないのだろう、どこか歪な笑い方だった。
「すまないがそれは私の落とし物でね。返してもらおうか」
俺は今度は縦に全力で首を振り、差し出された黒服の武骨な手のひらの上にボタンを預けた。
「よかった。億の命運が変わるところだった」
その単位は金か、それとも、人か。
想像したくはなかった。
「拾ってくれて感謝する」
黒服はこちらに背を向け、歩き出す。俺はほっと胸を撫で下ろした。
「ああ、そうだ」
安心したのも束の間、黒服は振り返ってきた。
「このボタンのことは、誰にも言わないでもらえるかな」
俺はまたもや何度も頷き、「はい」のたった二文字を命からがら吐き出した。
今度こそ黒服が去っていき、視界から消えたのを確認してから、俺は膝に手をついた。
全身から汗がどっと滲み出る。
神林の言う通りだった。
あのボタンは、何かとてつもなく恐ろしいもののスイッチになっているんだ。
ドッキリでもないことは、あの黒服の男の迫力が物語っている。
もし押していたらどうなっていたか、わかったもんじゃない。
俺は心の中に問いかける。
お前ら、何も見なかったよな?
(いいえ、何も)
天使がしれっと答える。
(なんのことだか)
悪魔もいけしゃあしゃあと言う。
でも、それでいいんだ。
「SNSに写真をアップしたい気持ちを抑えた僕を誰か褒めてくれませんかね」
お前そんな葛藤を抱えていたのかよ。でも、よく我慢した。
この世界には、知らない方がいいことも転がっている。
俺が今日知ったのは、それだけだ。
そう、天使でも悪魔でもなく、知らぬが仏なのだ。
そして、天使と悪魔と俺と神林の意見が一つになったのは、このときだけだった。
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