→苦いデザート
ある日の下校中、道端にハニートーストが落ちていた。
いや、嘘じゃない、信じてくれ。
俺だって自分の目を疑いたいよ。
でもさあ。
分厚くカットされた食パン、黄金色の蜂蜜の輝き、頂で堂々と白くそびえるアイスクリーム。どこからどう見てもハニートーストそのものだろ?
それが皿に載せられて、むき出しの状態で路面にぽつんと置かれている。どういうことだ。
……罠かな?
ハニートラップってやつかな?
別に、ハニートーストが大好物というわけでもない。
ただ、今この機会を逃したら、俺は一生ハニートーストと縁はないだろうなと思った。
値段もお高いだろうし、何より男が注文するには勇気が要る代物だ。
そして一番重要なのが、今の自分のステータス異常。
俺は今、猛烈に腹が空いている。
偶然昼の弁当を学校に持っていくのを忘れて。
たまたま手持ちもなくて購買でも何も買えずに。
運の悪いことに午後の体育の授業でカロリーを大量に消費し。
期せずして今、帰り道にハニートーストが落っこちている。
なんということでしょう。
最後の偶然だけ異様に浮いている。
ああ、でも、しかし。
悔しいけど、美味そうだな。
思わず腹の虫が鳴く。
それが合図となった。
目の前が暗転し、俺とハニートーストが暗闇に浮かぶ。
(ようこそ、《思考の谷》へ。
光が差し込む。
俺の右隣に、純白の服と真っ白なバイザーを身に着けた女、天使が降り立った。
(道に落ちていることなど些細な問題です。食べ物は粗末にしてはいけません。いただいてしまいましょう)
その結果、俺の体を粗末にしそうなんだけど。
さすがに拾い食いは良心的ではねえよ。
(ヌンガロベイド様もこう申しております。『据え膳食わぬは男の恥』と)
それ意味が違ってくるから。
ことわざを譜面通り受け取るなよ。
お前は我慢するときにわざわざ石の上に三年座るのか。
(五年までなら余裕です)
オーケイ、話を戻そう。
俺が悪かった。
(相変わらず正体不明の神に仕えてんのなあ、天使よぉ)
天使の反対側、俺の左隣に男が現れる。
蝙蝠のような仮面をかぶった男、すなわち悪魔が。
(拾い食いなど以ての外ぁ! ましてやハニートーストなんぞ外道インザ外道! そんな甘いもんに現を抜かしてられるかよ! ここはクールにスルーしようぜ!)
主張している当のお前はクールに徹しきれてないけどな。
何? お菓子に親でも殺されたの?
(おやつは塩辛いスナック系がいい)
あ、そゆことね。
(なんの、甘味こそ正義。正義は必ず勝つのです)
天使が食い下がる。
お前らなんの議論してんの?
さっきから全然天使にも悪魔にもなりきれてないんだけど。
ただの甘党と辛党の会話になってんぞ。
「では、今のうちにこれは僕がいただきましょう」
突如目の前に湧いて出たスーツ姿のおっさんは、そう言ってひょいとハニートーストの皿を持ち上げた。
お前は、神林!
俺の中にいるなんかよくわからない謎のおっさんが漁夫の利を狙っていた。
「いいですよね、甘いものって」
お前天使派かよ。
「一度食べてみたかったんですよ。では、遠慮なく」
大口を開けた中年リーマンは、そこではたと動きを止めた。
どうした?
「ハニートーストって、どうやって食べるんでしょうね」
俺も知りたいわ。でも知るか。
というか、なんでお前が食うんだ。
なにがなんでも食いたいわけじゃないけど、俺が食えないのにお前だけ味わえるのはなんかやだ。
神林はハニートーストを手に真剣な面持ちになった。
「こんなものがあるから争いが起こるんですよ」
お前のようなやつがいるから俺はもやもやするんだよ!
「『ハニートースト 正しい 食べ方』」
はい、人の心の中で勝手にスマホいじらない。
もうお前スマホ禁止な?
「オッケーグーグル」
うるせえ。
(抜け駆けはいけませんよ、神林さん)
そうだそうだ、天使も黙っちゃいない。
(三等分にしなさい)
天使も食いたいんかーい。
しれっと頭数に入るな。
(俺だけ仲間外れにすんなよ!)
お前甘党じゃないだろうが、悪魔。
俺たちが仲間外れにしたんじゃない。お前が自分で外れていったんだよ。
(では、審判の時です。このハニートーストは私が食べるのか)
天使が問う。
(ほっといて立ち去るのか)
悪魔が続く。
「それとも僕が食べるのか」
神林がつぶやく。
見事に俺が食べるという選択肢が用意されてない。地味にいやだな。
さて、腹が減ってるのは事実だし、どうしようか。
「しかし妙だとは思いませんか、皆さん」
と、この場で一番妙な神林が、唐突に何か言い出した。
「このハニートースト、地面にむき出しで放置されていたにもかかわらず、アリ一匹付いていませんよ」
あ。
(あ)
(あ?)
俺と天使と悪魔は顔を見合わせる。
言われてみればそうだ。いくらなんでも不自然極まりない。
やばい薬品とか中に仕込んであるのかもしれない。
うん。
やっぱり、落ちているものを食べるのはよくないね。
「甘いひとときでしたね」
最後に神林が口にしたその言葉がやけに耳に残った。
全然うまくねえよ。
暗闇がほどけ、俺はいつもの通学路に帰ってきた。
もちろん天使も悪魔も神林もいなくなっている。
俺は下にぽつんと落ちているハニートーストに一度目をやって、それから普通に避けて通り過ぎることにした。
そりゃそうだ。どう考えても怪しすぎる。
当たり前の結論だ。
けれども。
《思考の谷》での井戸端会議がなければ、俺は勢いであのハニートーストを口にしてしまったかもしれない。空腹は最高のスパイスだが、同時に最大の毒でもあるのだ。
帰って、何か適当に家にあるパンでも食べよう。
ハニートーストなんて代物は、しかるべき店で注文して食べるに限る。
そのときに、また会おう。
「甘いひとときを、ありがとう」
俺は振り返らずに、背中越しにハニートーストに別れを告げた。
つい神林の台詞を引用してしまったが、ハニートーストが食いたいと言っていたあいつへの供養ということにしておこう。
そのとき、背後から足音が近づいてきた。しかも一人じゃない。
たまらず振り返ると、見知らぬ大人がマイクをこちらに向けていた。その後ろにはカメラなどの機材を抱えた人もいる。
マイクを持った男は口を開く。
「すみません、QBSのボルダリングという番組です」
その言葉で、すべてを察した。
背中を冷や汗が伝う。
これはテレビのドッキリだったんだ。
「道端にリアルな食品サンプルが落ちていたらどうするかという企画だったんですが」
最悪だ。はめられた。
(ただより高いものはないってこったな)
悪魔はちょっと黙ってろ。
ボルダリングのスタッフは嬉々としてマイクを向けてくる。
「『甘いひとときをありがとう』。いやー、名言ですね。ぜひオンエアで使わせてくださいよ」
やめてくれ。それは俺の言葉じゃないんだ。
本当なんです。なんならヌンガロベイド神に誓ってもいい。
最悪だ。全部見られていた。ばっちり撮られていた。言い逃れはできない。
その後、許してください勘弁してくださいと頼み込んだが、テレビ局のスタッフのごり押しに負け、俺はしぶしぶ首を縦に振った。
後日、俺の恥ずかしい一連のくだりは、全国津々浦々のお茶の間に配信されてしまった。
当然、オンエアを見たクラスメイトからしばらくいじり倒されるはめになったのは言うまでもない。
それは俺の人生の中でも断トツに苦い思い出となった。この味は当分、忘れられそうもない。
おのれ神林め。
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