天使と悪魔と神林
二石臼杵
→欲望の紙切れ
ある日の下校中、道端に百万円が落ちていた。
いやいや待て待て落ち着け。
状況を整理しよう。
百万円が、落ちていたんだ。
百万というのは目測で、実際は九十九万かもしれないしひょっとしたら二百万あるのかもしれないが、諭吉さんが束になって道端に転がっているのは事実だ。
住宅街から少し離れた道路の脇、「売地」の看板が立っている空き地に散らばって生えた草むらの一つに、それは落ちていた。
なんでこんなところに。
いったい誰が。
いや、それよりも――
拾ってしまっても、構わないのだろうか。
あわよくば、俺の懐に入れて、そのまま何も見なかったことにして立ち去っても、いいのだろうか。
……いいんじゃないのかなあ。
いいんじゃないのかなあ!
もちろん全部いただくわけじゃないさ。
二、三枚ちらっと俺のポケットにお引っ越しさせるだけだ。
学校も家も退屈だ。部活にも入っていないし彼女もいない。
そんな俺に、カミサマがくれたささやかなご褒美ってやつなんだ、きっと。
カミサマ、ありがとう。
(いいえ、神はそのようなことをお許しになりません)
俺が札束に手をかけようとしたそのとき、頭の中で声がした。透明な、女性の声だった。
誰だ?
気がつけば、景色も変わっている。日が暮れたというより、電気を消された感じで急にあたりが真っ暗になっていた。にもかかわらず、札束だけは見える。底知れぬ闇の中に、俺と百万円だけが取り残されていた。
(お金は、大人しく警察のもとへ届けるのです)
再び透き通った声がして、闇の中に一筋の光が差す。
光の柱の中心に、見たことのない女の人が立っていた。
スポットライトを一身に浴びて輝く真っ白な服を着ている。白い羽を模したバイザーのようなものを着けているせいで目元は見えないが、充分に美人だと窺えた。
(私は天使。
天使? そんなもんが、俺の中に?
(人はみな心の中に天使と悪魔を住まわせています。天使は良心の化身、神の御使いです。私の言うことに耳を傾けてください)
ええと、とりあえず、ここはどこよ?
(ここは《思考の谷》。良心と欲望の狭間。時間と切り離された場所です。大きな選択を迫られたとき、人はここで決断を下すのです)
逆に言うと、俺は今まで十六年間、大きな選択を迫られたことがなかったってことか。なんかショックだ。
クラスのやつらはもうここへ来たことがあるんだろうか。それとも同年代では俺が一番乗りなのかな。
(こら、私のことを無視しない。天使ですよ、私まじ天使)
その一言でがっと信憑性が墜落したわ。天使の纏っていた神秘性がぼろぼろと崩れ落ちていく。
(いいから早くお金を拾って、素直に交番に届けなさい。さすれば落とし主が見つかった際、報酬の一割がいただけますよ)
俺の中の天使がやけに合理的な善を提供してくる。
(そしてその十万円をヌンガロベイド神に捧げるのです)
なんだそのやばいネーミングの神は。
(ヌンガロベイド様を信ずれば学校生活は薔薇色、成績も上がり恋人もできて人生豊かになること間違いなしです)
通信教材みたいなことを言い出した。あるいは雑誌の裏の怪しげな広告か。
俺の内なる天使はなんか怪しい宗教にはまっていた。これ、俺の天使だけかな。変な病気とかじゃないよな。
(さあ、あなたもヌンガロベイド教にレッツ入信!)
天使は両手で小さくガッツポーズを決めた。
仕草はかわいいけどとうとう本性を現したな。
さて、どうやってこのエセ天使を俺の中から追い出してやろうかと考えていると、もう一つの声がした。
「こらこら、宗教の自由ってものがあるだろう。無理やり変な神に仕えさせるんじゃない」
声の方を見ると、天使の反対側に一人の男が立っていた。
くたびれたスーツ姿の四十代ぐらいの男だ。ぱっとしない見た目で、サラリーマンのイメージを体現しているかのようだった。
そう言えばさっき天使は、人の中には天使と悪魔がいると言っていた。そうか、こいつが悪魔、なのか?
こんな冴えないやつが? とてもそうは見えないが。
いや、見た目に騙されるな。無害を装って油断させているに違いない。いったいどんな邪悪な提案を持ちかけてくるんだ。
男はポケットからスマートフォンを取り出した。
「とりあえずこのお金をSNSにアップしましょう」
ふっつ!
俺の中の悪魔の発想が普通!
カシャッ。カメラのライトが闇を切り裂く。
撮んなよ。
「『大金落ちてたのう』、っと」
なうだよ。いろんな意味でおじいちゃんかお前は。
「いやあ、それにしても生の諭吉さんにお会いするのは久しぶりですね」
お前さては貧乏だな?
いい大人なら万札ぐらい常備しとけよ。まあ、悪魔に人間の通貨が通じるとは思えないけど。
(なんですかあなたは。引っ込みなさい。このお金の一割はヌンガロベイド様への尊いお布施となるのですから)
なってたまるか。
(いえ、やはり一割では信仰心が足りませんね。全額いただいてしまいますか)
いよいよとんでもないこと言い出したぞこの天使。手のひらをお好み焼きみたいにひっくり返すな。
「そうはいかないよ。なぜならすでにこのお金の画像は五百人に拡散された。ここで盗もうものなら全国に知られることになる」
悪魔は悪魔でお前何してくれてんの?
すっかり大事になってるじゃん。
というか、ここは時間と切り離されているんじゃなかったのかよ。なんでSNSの反応があるんだよ。
「僕のスマートフォンは特別なんですよ。そう、iPhone XXXならね」
お前はいつの時代を生きているんだ。
スマホはまだそこまで進化を遂げてないわ。
というか、さっきから天使も悪魔もろくなこと言わないなあ!
俺の中はもうごちゃごちゃだよ。
誰かこの空気をなんとかしてくれ。
うんざりして下を向くと、足音が聞こえてきた。それはだんだん近づいてきて、やがて止まった。顔を上げると、新しい男が立っていた。
蝙蝠の翼の形をした仮面のせいではっきりとはわからないけど、俺と同年代くらいに思える。そいつは肩で息をしながら言った。
(すまねえ、遅刻しちまった)
またなんか増えた。
まさかの三人目の登場だ。
いや、もう天使も悪魔もいるんだけど。間に合ってます。
誰だ、お前。
(俺? 悪魔に決まってんだろ)
蝙蝠マスクは親指で自分を指した。
こいつが悪魔?
俺の視線は自然と冴えないおっさんに向けられる。
じゃ、あんた誰だよ! てっきり悪魔かと思ってたよ!
「僕ですか? いえいえ、名乗るほどの
ますます誰だよ! 謎が深まるばかりじゃねえか。
知りたいのは名前じゃなくて正体なんだけど。
「あ、僕は天使でも悪魔でもなく、ただの神林です」
だから神林って誰だ。知り合いにそんなやついないぞ。
怖いからすみやかに出ていってくれないかなあ!
(すまん、俺がもう少し早く着いていれば……!)
悪魔が歯噛みする。
ほんとだよ! 天使と悪魔だけならまだよかったのに、変なおっさんが加わったせいで俺の頭の中はしっちゃかめっちゃかだよ。
だいたいなんで遅刻したんだ。
(思考の谷にはじめて行くのが楽しみで昨日眠れなくて……)
俺の中の悪魔がなんか遠足前日の子どもみたいなこと言い出したぞ。
(ふん、時間も守れないとはさすが悪魔ですね。その点私は一睡もしていないので遅刻などしませんでしたよ)
お前も楽しみにしてたんかい、天使。
(それより金が落ちてたんだろ? 盗むしかねえじゃねえか!)
ごめんな、悪魔。もうこの大金の情報は拡散されたから、その提案は死んでるんだ。
お前の仕事は変なおっさんに潰されたんだよ。
(ちっ、ならその辺にいる人間でも殺そうぜ)
悪の振れ幅が大きすぎる!
自分の案がだめだからって、やけになるなよ悪魔!
(さあ、審判の時です)
天使が言う。
(このお金をヌンガロベイド様に捧げるか)
悪魔が続く。
(次に会った人間を手始めに殺すか)
神林がポケットからiPhone XXX(自称)を取り出す。
「あ、さっきのつぶやきにコメントが付きましたよ」
ろくなやつと選択肢が見当たらない。俺の中の良心は迷走中らしい。
「あれ、ちょっと待ってください。このコメント……」
神林が何か言ってる。
「『この一万円札、印刷具合に不自然なところが見受けられます。偽札の可能性があるので、急いで警察に届けた方がいいですよ』だそうです」
え?
(え?)
(へ?)
俺と天使と悪魔は、顔を見合わせる。
とたん、嘘のように闇は晴れ、俺は思考の谷から抜け出すことができた。
どうすればいいか、俺の中で答えが出たからだろう。
その後、俺は素直に札束を交番に持って行った。
神林が拡散したSNSへの反応コメントの通り、あれは偽札のようだった。
犯人は逮捕されたものの行方がわからず捜索されていたものらしく、俺は警察から報奨金をいただいてしまった。正直、落とし物だった場合にもらえた一割より金額は大きい。
純粋にいいことをしたまっとうな対価としてお金が手に入ったので、割とすっきりしている。もし盗んでいたら、ずっと後ろめたさと罪悪感を抱えて生きていくことになっていただろう。あまつさえその偽札を使っていようものなら……ぞっとする。
(ま、ただより高いものはないってこったな)
頭の中で悪魔が笑う。
それ、使いどころ間違ってない?
結局のところ、困ったときに頼りになるのは自分の中の天使でも悪魔でも、ましてや冴えないおっさんでもなく、インターネット越しの見知らぬ他人だった。
天使も悪魔も神林もうさん臭いが、顔も知らない人の言葉は信じられる。
信じられないが、今はそういう時代なのだ。
さて、この臨時収入で何を買おうか。
頭の中で、天使が「シュークリーム」とささやいた気がした。
そういう甘い誘惑なら大歓迎だ。
俺は軽くなった足取りでコンビニに向かう。
天使にも悪魔にも、はたまた謎のおっさんにも、今の俺は止められまい。
甘いものは何よりも正しい答えなのだから。
選択の余地などあるわけがないのだ。
それからコンビニをいくつか回ったが、ことごとくシュークリームは売り切れだった。
そりゃあないんじゃないか、神よ。
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