首のない鶏と骨。

枕くま。

第1話 首のない鶏と骨と。

 

   春は草穂に呆ぼうけ

  うつくしさは消えるぞ 

    【春光呪詛/宮沢賢治】


■ 

 一羽の鶏がおりました。おりました、というのも、彼はすでに家の縁側に吊るされているのです。後頭部に針を刺され、首を落とされ、羽をむしられ、内臓を掻き出されました。


 ずいぶんと、身軽になったものだ。

 

 鶏は思います。


 しかし、風が吹くたび、心地よい気持ちになりました。足に紐を括りつけ、吊るされているので、風が吹くとぷらぷらとゆれるのです。空を自由に飛び回るとは、このように清々しいものなのかもしれない。

 いつも地べたに撒かれた餌をついばんでばかりいました。そんな折、ひゅるりら風が吹き過ぎて、思わず見上げたその空に、一羽のトンビがぐるぐると。

 弱視の目でも、はっきりと見えたのです。そして、聞いたのです。その力強い羽ばたきと、ピーヒョロロと鋭い声を。

 その時のたまらない気持ちときたら、なかった。


 おれはいま、夏の夜空を飛んでいる。


 足にくくられた紐の感触もありませんし、もう一滴も残っていないので、頭に血が上るようなこともないのです。

 

 さまざまなものを失って、よかった。

 

 なくした頭をトンビに変えて、なくした羽をあの勇ましい鳶色に。

 濃紺の夜空。夏の大三角形を広々とした背におぶり、闇に沈んだ地表の田園を見下ろします。月明かりを反射して、植わったばかりの稲苗が、ぴかぴかと星のように瞬きます。

 草葉のわずかなゆらぎに目をこらし、えいやっと急降下。狙うは野ねずみ。鋭いかぎ爪を構えます。シャッと捕らえた獲物を掴み、みるみる空へと舞い戻る。

 先ほど突っ切った空気のふるえ、その冷たさに胸躍る。事切れた獲物を携えて、家族の待つ巣へ帰る。その誇らしさを思うと、お腹の底がむずむずします。

 

 そうして空想の中を自在に飛ぶ鶏に、呆れたように風が言いました。


「のんきなものだ。死んでしまったこともわからないのですか?」

 鶏はむっとしました。意地の悪い風め!

「首も羽もなくして、血もはらわたもなくなって。子どもがトンボに糸を結んだみたいになっちまってまぁ」

「おれの自慢は、骨なので」


 首のない鶏はしかたなく口を開きました。風は驚いて、「おやまぁ、頭がないのにしゃべったよ!」と言いましたが、風にも頭はないのです。

 鶏は口をきいてしまったのを後悔しました。失礼な奴と関わり合いになど、なるべきではなかったと思いました。しかし、起きてしまったことはもう取り返すことは出来ません。そのことは、文字通り身をもって知っている鶏です。


「へぇ、骨ですか」と、風は舌の上で転がすようにつぶやきました。

 舌なんかないくせに、と首のない鶏は内心毒づきます。それは今の自分にも言えたことでしたが、「しかし、おれもかつては舌を持っていた」と思うことで、風よりも一歩うえに立った気持ちでした。鶏はだんだんと気分がよくなってきます。

「羽と首と血と内臓など、たいしたことではないのです」

「へぇ」

「羽と首と血と内臓など、あればなくなるものなのです」

「なるほどねぇ」

 何かを含んだ風の返事には、鶏またしてもむっとします。

 骨は偉大だ。

 たとえ、あのトンビといえども、おれはそこだけは負けてやらないつもりだ。おれの自慢は骨なのだ。


「何か、言いたいことでもありますか?」

 たまらずぐいっと詰め寄ると、風はくくくと笑います。なんと人(鶏)を馬鹿にしきった笑いでしょうか! 鶏は冷たくなった身体がカッカしてくる気がします。

「首よりも、まず羽ですか」

 と、嘲るように風が吹きます。


「飛べもしない鶏の分際で」


 そう捨て台詞を吐くや否や、風が鋭い突風と化し、吊るされた鶏をぐるんぐるんと弄びます。鶏は悲鳴すら上げられず、されるがままに回ります。鶏は、身を固くして(既に冷えて固いのですが)、早く風が過ぎ去ってくれないかと祈りました。

 やがて、「あははははは!!」という嘲笑と共に風がどこかへ消えてしまうと、残された鶏は慣性に導かれるまま、くるくるとおもちゃのように回っています。そうしながら、行き場のない怒りにふるえました。


 しかし、と鶏は思います。

 

 奴は所詮、空気の流れのひとつに過ぎない。

 羽も首も血も内蔵も、ない風ごとき。


 それは今の鶏にもすべて当てはまっているのですが、やはり「しかし、かつては俺も」の気持ちが、今の事実を隠してしまいます。

 ぷんすか怒る鶏の元に、がらりと音が届きます。鶏にはわからないことですが、縁側の戸が開いたのです。そこには中年の男がひとり、立っていました。

 節くれ立った手を伸ばし、吊るした鶏をなで回します。鶏はくすぐったくて笑いましたが、その声は男に届きません。「やめてくれ」と言いましたが、鶏の言葉は人に通じません。

 やがて、何かを納得した男は、鶏を吊るした紐を切りました。

 代わりに、男の手に足を掴まれ、鶏は家の中へと運ばれます。暖かな陽のひかりが途切れ、薄暗く湿気た影が鶏の身体にまとわります。どことなく不穏な空気が漂っていました。

 鶏はしかし、何が自分を待ち受けているのか知っていました。

 これまで、鶏舎にいた多くのものが消えました。

 鶏冠の立派な、姿も大きな、鶏たちを統べるものたち。そんな偉大なものから順に、鶏舎から姿を消していったのです。


 食われたのだね。


 鶏は知っていました。


 そして、おれもこれから食われるのだ。


 そのことに、鶏は少しも恐怖しませんでした。自分だって、さんざん地べたの虫を食ってきました。頭が高いものが、低いものを食うのです。自分より頭が高い人間が、自分を食うのも仕方ない。鶏は、むしろ選ばれたことを光栄にすら感じていました。


 おれも、いつの間にかあの偉大なものたちの一羽になっていたのだ。


 いつも見上げて、へこへこ頭を垂れ、餌をゆずり、道をゆずり。そんな偉大な鶏たちと同じ土俵に上がれたことは、何とも素晴らしいことのように思えました。

 などと感慨に耽っている間に、鶏の身体はまな板にドン!


「おれもあんときゃたいへんだった」

 ぴょこんと飛び出た尾(ぼんちり)をバツンと切られます。


「奴らときたら、身体はデカくともおつむは貧弱なんだから」

 股関節を逆に曲げられ、骨が外れました。その隙間に素早く包丁が差し込まれ、あっという間に両腿が失われます。


「下のものを大事にしない奴に先はないんだよじっさい」

 喉元を縦にピッと裂かれ、そのまま胸元から既に切り開かれたお腹の辺りまで真っ二つ。鶏は二つに分かれました。


「おれは大事にしたよ。多くのものを大事にしたとも」

 先ほどとは反対の首元に包丁が差し込まれ、ビーッとひん剥くようにして首と肋骨だけが取れます。男の手つきは、さすが慣れたものです。


「わあ!?」


 鶏もいつの間にやら自分が三つにばらけていることに驚きました。が、特に痛みもなく、わかれたところで自分は自分なので、すぐに平静を取り戻しました。

 三つにばらけたので、心も三分割されて、めいめい楽しくお喋り出来るのではと思いましたが、そんなことはなく、ちょっとがっかりしました。

 男は鶏に塩胡椒をまぶし、油のひかれたフライパンにさっと乗せました。フライパンは事前に火をかけておいたので、鶏の身体はすぐに焼けてきます。


 じゅーじゅー。


 そして、焼けた鶏は皿に盛られ、簡素な食卓にデン! 男は欠けた茶碗を取り出して、炊きたてのごはんをこんもり盛りました。さぁ、ご機嫌な昼食の始まりです。

 男は一心不乱に肉にかぶりつきます。

 鶏は焼かれ始めてすぐに何も感じなくなっていました。歯を立てられていることが、僅かにわかる程度です。それでもはっきりとわかる、損なわれていくという感覚。


 あぁ、おれは食われている。


 あぁ、おれは食われている。


 ですが、やはり鶏に恐怖はありません。なぜなら、鶏の自慢は肉などではなく、あくまで『骨』だからです。

 骨は強い。鶏はそう信じていました。

 羽も首も血も内臓も、焼けばなくなってしまうのです。しかし、骨だけは残る。肉は食われてしまうでしょう。しかし、骨だけは残る。

鶏は骨太の自信がありました。その自信に答えるように、男は皿のうえに次々と骨を積み上げていきます。鶏は喝采を上げました。やった! おれは骨として生き続ける!


 げぇええっふ!


 小汚い音を立てた後、男は満足そうに溜息をもらすと、皿を持ちました。

 鶏は少しだけ不安を覚えます。この先、まだどこかに運ばれるのだろうか? 

 

 しかし、自我は消えません。なぜなら、まだ骨が残っているから。そう思いながらも、骨は不安げにコトコト音を立てました。

 男は台所を出て、裏庭のほうへと向かいました。陽が射さず、やはり湿っています。薄らと腐敗臭が漂っていました。男も慣れたもので、その悪臭に苦言の一つもこぼしません。

 そして、男は青いポリバケツを開けました。鶏は、驚愕しました。


 ――――ポリバケツには、無数の鶏たちの骨が無造作に詰め込まれていたのです。


 鶏の骨たちはさまざまな言葉を吐き散らかし、すさまじい喧噪を生んでいました。見るものが見れば(鶏)、まさに地獄のような光景です。

 もはや目など見えない鶏ですが、その声は地鳴りのように恐ろしいほど響いていました。骨たちは口々に言いました。


 あぁ、おれは誰なんだ。


 あぁ、おれは誰なんだ。


 あぁ、おれは、あぁ、俺は、あぁ、己は、あぁ、オレは、


 鶏は、「ぎゃ!」と悲鳴を上げて逃げ出そうとしますが、骨を動かす筋肉がありません。「助けてくれ」と言い終わる前に、ポリバケツに投げられます。そもそも、鶏の言葉は人に通じないのですけれど。


 バケツの中には、鶏の骨がたくさんたくさんありました。


 みな、今回の鶏と同じく、『後頭部に針を刺され』『首を落とされ』『羽をむしられ』『内臓を掻き出され』そして、『縁側に吊るされて』いた鶏たちです。

 多くの骨に紛れてしまい、鶏はいったいどれがほんとうの自分の骨だったのか、わからなくなってしまったのです。自分を見失った鶏は、だんだんと考えることが出来なくなっていきました。喧噪に侵され、薄れる意識の中で、鶏は思いました。


 骨だけは、と思ったのです。

 骨だけは特別なのだと、信じたのです。


 この先、骨たちは粉々に砕かれ、より誰が誰だかわからなくなり、やがて肥料として畑に撒かれるでしょう。


 意地悪な風がやって来て、憐れな鶏たちをケタケタ笑って過ぎていきました。ですが、今の風は、果たしてさっきの風と同じ風でしょうか? 風に名前をつけたとして、そこになんの意味があるでしょう?

 腹の膨れた男は、床に敷きっぱなしの布団に転がり、深い眠りにつきました。

この古ぼけた家は、いつまでここに建っているでしょうか。ここに住む男も、いずれは別の人間にとって変わるでしょう。鶏たちも、そして風も。

 太陽が昇っては下り、下りては昇ります。昼と夜をくりかえし、まるい星はいつまでもいつまでも、平気な顔で回るのでした。

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