♯374 たとえ記憶が消えていても


「クレスさん、お怪我はどうですか?」

「ん、問題はないよ」


 シノの暮らす、アズミのお屋敷。暮れ始めた橙色の光が差す美しい庭が望めるその客間の縁側で、フィオナがクレスを膝枕しながら介抱をしていた。


 上半身裸のクレスに触れながら、フィオナは驚くばかりである。


「す、すごいです。あれほど激しい稽古をしていたのに、クレスさんの身体、もう軽い打撲や擦り傷が残っているくらいです。最初はあんなに腫れていて、出血もあって、すごく心配だったのですが……」

「ああ、師匠が手加減をしてくれたんだ」

「て、手加減っ? あの稽古がですかっ?」

「うん。本気で俺を殺すつもりだったなら、とうにそうなっていたと思う。それと、師匠のから流れた師匠の闘気が俺の中に入って肉体の活性化を促してくれている。稽古の後は、いつもそうしてくれていた」

「そ、そうだったんですかぁ。あ、そういえば以前も――」


 聖都で見学した、クレスとヴァーンによるシノとの稽古。あのときも、クレスは最後にこつんと頭を叩かれて吹き飛ばされていたが大きな怪我などなかった。


「――ふふっ。シノさんはやっぱりすごい方ですね」

「本当に。あの人には、まだまだ教えてもらうことばかりだ」


 和やかな空気が流れる。庭先で駆け回る修練生たちが、先ほどシノが破壊した稽古場をせっせと修繕していた。張本人であるシノも反省からか率先して事を進めている。


 二人はしばらく、静かにそこで夕暮れの風に当たっていた。

 やがてフィオナの膝上に頭を乗せたまま、クレスがつぶやく。


「フィオナさん」

「はい。あ、少し冷えてきましたね。そろそろ上着を――」

「すまなかった」

「えっ」


 突然の謝罪に、クレスの上着を手に取ったフィオナは目を丸くした。

 クレスは目を閉じて語る。


「俺は、自分のことばかり考えていた。俺は俺のことが知りたくて、そのためにそばにいてくれた君を都合良く利用していたのかもしれない。妻であるはずの君のことを、想えていなかった。師匠が激昂したのは当然だ」

「クレスさん……そ、そんなことはっ」

「師匠に稽古をつけてもらっている時……俺は不思議と想像していた。かつての俺は、君とどんな毎日を過ごして、君のどんな笑顔をどれほど見たんだろうと。たとえ思い出すことが出来なくても……想像すると、心が安らいだ。きっと、こんな風に膝を借りることもあったんだろう。甘えているようで、男らしくはないかもしれないが」


 そっと目を開くクレス。

 フィオナは、思わずくすっと笑ってしまった。


「フィオナさん……?」

「ふふ、ごめんなさい。男らしくないなんてことはないですよ。それに、甘えてくれるクレスさんもとっても可愛らしくて大好きですから」

「……そ、そんなに君に甘えていたのかな。俺は……」

「ふふふっ。よくこうしていました♪」


 少しからかうように笑いながらクレスの頭を撫でるフィオナ。クレスは少々気恥ずかしそうにしたが、抵抗することもなく、柔らかく微笑した。


「……フィオナさん」

「はい」

「俺は、君との記憶を取り戻したい。俺の記憶ではなく、君と過ごした記憶を」

「はい」

「だから、もう少し反復経験に付き合ってもらえるだろうか」

「はい。もちろんです」

「ありがとう。それじゃあまず、帰ったらお菓子の作り方を教えてほしい」

「え?」

「俺たちは店をやっていた……のだよね? 身体を動かしている方が記憶にも良い影響がある気がするんだ。それに、以前の自分オレに負けたくはない」


 その発言に、フィオナはまた目を丸くして驚く。


「しかし、先ほどの師匠の奥義は凄かったな。あれを本気で、真剣で使ったら、たとえ魔王でも立っていられないのではないだろうか。あんな秘技を間近で直接見られたのだから、記憶を失っても悪いことばかりではないのかもしれない」


 子供のように楽しそうな顔でそんなことを語るものだから、フィオナはさらに驚いた後、思わず笑い出してしまった。クレスが不思議そうにフィオナの顔を見上げてくる。


 ――そんな二人の様子を見に来たのか、少しだけ戸を開けて覗いていたシノが二人分の茶と菓子を床に置き、安心したような顔でそっと戸を閉めた――。



 それから二人は翌日もシノの故郷に滞在。朝にはすっかり体力を取り戻していたクレスは、他の修練生たちと一緒になってアズミの師範であるシノの朝稽古を受けた。柔軟などの準備運動から走り込み、精神統一、手合わせまで、一通りの稽古を終える頃にはクレスの体力や力強さ、なによりその実直な訓練姿勢に修練生たちは驚いたものであった。昼にはフィオナも手伝ったというお手製の昼食を皆でいただき、その味に修練生たちはまた驚いたものである。


 その日のシノの稽古はそこで終わり、それからは約束通りシノから町を案内してもらうことになった。いつの間にか町の人気猫になっていたショコラ(黒猫モード)も加え、三人と一匹で町を巡る。趣のある町の風景はクレスやフィオナ、もちろんショコラにとっても目新しいものであり、いろんなお店や通りを見て回るだけで十分に楽しい時間だった。


 空気の澄んだ季節。近くの低山から見える景色は格別素晴らしいものであり、帰りには近くの温泉にゆったりと浸かって心身を癒やした。山々と川を望む絶景の湯もまた良きものであり、ショコラなども大いに満足した。さすがにクレスはフィオナと一緒に入ることは出来なかったが、温泉による傷の治りの早さには驚いたものである。一方のフィオナはお風呂でまたもやシノの世話を焼き、シノが軽くテンパったところはやはり可愛らしく思ったものだ。


 ――その日の暮れ。シノの屋敷前。

 竹を使った名産品や衣服、モチやマンジュウなどの土産ものをどっさりと頂き、クレスとフィオナはシノに別れを告げて聖都へと戻ることになった。既に黒い扉を準備済みのショコラ(人間モード)は、貰った饅頭を口に膨らませて幸せそうな顔をしている。


「シノさん、お世話になってしまってありがとうございました! よろしければ、聖都の『光祭』を観に来てほしかったですけれど……」

「すみません。こちらでも行事がありまして、今年は家の手伝いをすることになり」

「ふふ、こちらの国ではどんなイベントがあるのか見てみたかったです。あのう、また、会いにきてもいいでしょうか?」

「是非。ただ、その頃まで私がここにいるかはわかりませんが…………はぁ……」


 そう返すシノの背後――正門に隠れながら覗く安曇流アズミの総師範、シノの父親がなんだか不安そうな顔でソワソワしながらこちらを見ていた。また娘が出ていってしまうかもしれないと心配らしく、帰ってきて以来町のあちこちにシノの監視役が張り付いていることがシノにとっては大変な不満であるらしい。そのうえまたお見合い相手を押しつけられそうなのだとか。


 呆れのため息をつくシノに、クレスが頭を下げた。


「師匠。今回の稽古、ありがとうございました。大変勉強になりました」


 一方のシノは、先ほどからずっと顔をそらしている。それどころか今朝からずっとまともにクレスと顔を合わせていない。昨日の稽古でつい弟子クレスに“素”を――それ以上に我を忘れた姿を見せてしまったことが気恥ずかしいようであった。


 シノはクレスの顔を見ることもなく、腕を組みながら言う。


「……やめなさい。いい加減に解ったでしょう。私は、お前が師と呼ぶほどに立派な人間ではありません。あれが本当の私です」

「……師匠」

「申し訳なかったと、やりすぎたことを反省しています。師として失格です。身も心も未熟な私には、やはり他人様にモノを教えることなど――」

「いえ!」


 そんなシノの言葉を遮るように、クレスが大きな声を挟む。

 シノが、ゆっくりクレスの顔を見た。


「俺にとって、師と呼べる人は貴女しかいません。どのような貴女も本当の貴女でしょう。やはり師匠は師匠です。とても、大切なことを学びました。だから、ありがとうございました」


 クレスはまた、深々と頭を垂れた。

 呆然としていたシノは、なんだかむずがゆそうに口元をもぞもぞさせると、その手を伸ばし――軽くクレスの頭を叩いた。それを見てフィオナが嬉しそうに笑う。


 クレスとフィオナは屋敷を離れる。


「シノさん。それではお元気で!」

「ありがとう。フィオナさんも。それから、クレス」

「はい!」


 最後の呼び方に背筋を伸ばすクレス。


「お前が言った通り、未熟な私もまた私。それを受け入れることでしか“前”には進めないのでしょう。そしてクレス、それはお前もです」

「師匠……」

「たとえ記憶が消えていても、お前はお前のはずです。大切なモノこそ心の眼で感じ取る。初心を忘れず、共に精進しましょう」


 ほんのりと頬を赤くしながら贈られた彼女の言葉に、クレスはまたハッキリと大きな声で返事をした。フィオナはそばでとても嬉しそうに二人を見つめる。


「あむあむあむ……このオマンジュウっていうのオイシー! また食べにこよーねー!」


 そんなショコラの先導を受け、クレスとフィオナは黒い扉をくぐり抜ける。最後にフィオナが手を振ると、シノと背後の修練生たちがみんなで手を振り返してくれたのだった――。

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