♯373 二人の稽古
「――――ッ!!」
全身の毛が逆立つ恐怖。
血の気が引き、背筋が凍り付くような悪寒。
息を呑んだクレスはしばらく立ちすくんだまま動けなくなり――やがてハッと己の身体を見下ろした。
四肢は無事だ。どこにも傷は見当たらない。
自らの無事に気付いたとき、全身からドッと汗が噴き出す。心臓がバクバクと激しく鼓動した。
顔を上げた先で、開かれたシノの藤紫色の瞳が妖しく光る。
「…………師匠。いま、のは……」
うろたえるクレス。記憶が強く刺激された。
――安曇流“夢刃”
前にも一度だけ、見たことがある。
彼女に師事していた頃。まだクレスが幼く力も弱かった頃。
強くなりたい一心で、クレスは一人で凶悪な魔物と戦った。一日でも早く強くなりたかった。
しかし力が足りずに死にかけたとき、シノが現れた。
あの瞬間にも、同じような恐怖を感じた。だが今ほどではなかった。なぜならあのときシノの“刃”が向いたのは魔物であり、クレスはその余波を受けただけだからだ。
幻の刃で裂かれた魔物は、体に一切の傷を負っていないにもかかわらず気絶していた。
あのときにたった一言。無口なシノがつぶやいた。
『これは、心を斬るための刃です。覚えてはいけません』
そう言ったシノの顔を、クレスはしっかりと覚えていた。
そして今――彼女はあのとき以上に憤慨している。
クレスの心に刃を向けて。
「くだらないことを思い出す余裕があるのなら」
シノが一歩踏み込むる。
床板が軋み、割れた。
「今すぐあの子を思い出さんか馬鹿者ォッ!!!!」
シノの拳が見えた瞬間。
クレスは突風にでも遭ったかのように真後ろへと勢いよく飛ばされ、稽古場の戸口を突き破って外へと押し出された。
竹林の方からやってきた門下生らしき者たちが、倒れるクレスをギョッとした顔で見つめる。
その物音を聞いてか、屋敷に向かっていたはずのフィオナも奉公人と共に戻ってきた。
「えっ……ク、クレスさん!? シノさんっ!?」
破壊された稽古場の入り口から、シノがゆっくりと出てくる。
クレスは激しい痛みの中、かろうじて顔を上げた。
すると傍らに剣が放られる。木刀ではなく、真剣だ。
「稽古を始めましょう」
シノが結っていた髪をほどき、振り払う。
「使いなさい。私は素手でいい」
「……っ!」
「
シノは構えることすらしない。
ビリビリと空気が震える。
呼吸が止まるほどの激しい威圧にクレスは動けないでいた。
「来ないのならば――こちらから行きます」
次の瞬間、風のように素早い踏み込みでシノがクレスの眼前に迫る。
小さな光の一撃。
「――“牡丹”」
クレスが剣を握ったときにはもう、その体は突き飛ばされていた。
「くはっ――!!」
倉庫の壁に背中から激突すると、クレスの体を通して流れたシノの“闘気”が壁の一部を抉るように破壊した。剣を支えになんとか立ち上がったクレスは、ゾクッとした気配に硬直する。
「アズミの奥義は五撃一殺。たとえ素手でも、すべて受ければお前は死ぬやもしれません」
「し、師匠……」
「死にたくなければ来なさい」
クレスは確信した。
シノは今、本気で
ただ、それに応えなければいけないと感じた。
そうしなければ、
「くっ……はあああああああああっ!!」
クレスは剣を手に駆け出し、全力でそれを振るった。
しかしシノには軽々とかわされる。何度振るっても、払っても、その切っ先が擦ることすらない。
「――“松葉”」
逆に振りの隙を突かれ、勢いの増した連撃を受ける。クレスの視界にチカチカと光が瞬く。
「――“柳”」
その動きは流麗で一切の無駄がない。
水のように滑らかで、光のように柔らかい。
幾撃もの。
幾撃もの。
幾撃もの殴打を喰らい、たまらずに膝を突く。起き上がろうとしても心がついていかない。
「――“散り菊”」
閃光が弾けるような当て身技を受け、クレスは激しく飛ばされた。
血を吐き倒れるクレス。あまりの光景に修練生たちはそれぞれに動くことも出来ず固まっていた。
シノが、さらにクレスの元へ歩み寄る。
「お前には視えんのか」
クレスの耳に、その声だけはハッキリと届いた。
「フィオナさんの微笑みが。その心の内が」
ドクン、とクレスの心臓は大きく動いた。
わずかに頭が痛む。
激しい焦燥が胸を叩く。
己が叫んだ。
――思い出せ
――思い出せ!!
「うちは、お前の心をこそ鍛えたつもりやったよ。フィオナさんが何故笑っているのかもわからん未熟な馬鹿者は、師として許すわけにはいかん」
シノが初めて構える。
腰を下げ、見えない剣を掴む。
藤紫色の瞳に、光るものを宿して。
「安曇流――“無明花”」
そして彼女が
「――シノさんっ!!」
そこへ飛び込んだのは、フィオナだった。
シノに抱きついて、フィオナはささやく。
「シノさん……もう十分です。稽古はこのくらいにしましょう? これ以上は、もうやめてください。シノさんの心まで傷ついてしまいます。お願いします」
「…………フィオナさん……」
シノの身体から力が抜けたタイミングで、フィオナはそっと身を離した。
「いいんです。私のことはいいんです、シノさん。それに……一番辛いのはクレスさんだから。わたしは、クレスさんをそばで守りたいです。どんなことがあっても、ずっと」
そう言って、優しく微笑むフィオナを見て。
シノは、その手を下ろした。
フィオナが、シノの手を包みこむように握る。
「……ありがとうございます。シノさん」
フィオナはもう一度微笑みかけ、二人のそばを離れた。
シノは、さらにクレスの元へ近づく。
だが、もう彼女の身体に闘争心はなかった。
「なぁクレス。あの子はほんに強いね」
倒れるクレスの前で、シノは言う。
「お前の心と体を斬った。記憶は痛みと結びついとる。うちに出来るのは、たったこれくらいよ」
クレスは、己の心に強い痛みを覚えていた。
焦りと恐れが胸を焼く。
その痛みに記憶はなく、ただ哀しみだけが残る。
シノは拳をぎゅっと強く握り、その手を震わせる。
「あのとき、お前は言ったんよ。『彼女のために生きる』と。あの言葉さえ、忘れたんか」
皆が固唾を呑む中で、シノはクレスの前にぺたんと足を折ってへたり込んだ。
「聖都で手合わせしたときのお前は、とても強くなっていた。心身が最上のバランスで整い、一振りが重かった。うちはほんに驚いたんよ。この子はすぐにうちなんか追い抜く。弟子の成長があんなに嬉しいものとは思っておらんかったな」
シノは、とても優しい
「……なのに。なんで、覚えてないんよ。お前は愛した女性を、命を宿した最愛の妻を忘れたいうんか。そんなことがあってええんか。そんなの、おかしいんよッ!」
そこまで感情を露わにするシノを、クレスは見たことがなかった。いや、壮年の奉公人以外の全員がそうだった。
それでも、クレスにはよくわかっていた。
今――自分よりもずっと哀しんでいるのは師なのだと。
「許せん……許せんよ。うちは絶対に許さん。お前の記憶を奪ったお前を許さん」
シノは地面を叩く。
「なんでお前なんじゃ。なんでいつもお前なんよ。お前はもう、十分にやってきたじゃろ。頑張ってきたんよ。あとはずっと、フィオナさんと幸せに暮らしていくだけ。なのに、お前はそれすらさせてもらえんのか。お前はいつまで一人で戦い続けるんよ」
だだっ子のように、シノは何度も地面を叩く。
やがてぴたりと動きを止めると、うつむき加減にぼそりとつぶやく。
「うちのことなんて、どうでもええんよ。うちの記憶なんて、線香花火みたいに消えてもええから…………お願いじゃ。フィオナさんのことを、思い出してよ」
弱々しく、震える声で、シノは言った。
「この、ばかもん……」
クレスの胸元に、雫が落ちる。
「…………ありがとう、ございました…………師匠……」
クレスに、それ以上のことは言えなかった。
そんな二人を見守っていたフィオナは、何も言えず、ただ、その場に立っていた。
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