♯372 夢刃
「……記憶の欠損。クレスは、フィオナさんと出会ってからのすべてを忘れてしまった、ということですか」
シノが要約し、フィオナがうなずく。クレスはただじっとしていた。
「はい。ですから、聖都でシノさんとお会いしたことも、一緒にダンジョンへ行ったことも、それにその……シノさんが女性だったという事実も、今のクレスさんは忘れてしまっていて……」
「……そうですか」
納得したように、深く息を吐いてしばらく黙り込むシノ。
しかし、彼女の表情は決して暗いものではなかった。
「事情はわかりました。つまり、私と接触し稽古をすることでその“反復経験”を積みたいわけですね」
「は、はい。そうなんですっ。よろしければ、お付き合いしてもらえませんか……?」
少し申し訳なさそうに尋ねるフィオナに、シノは明るい微笑みで応える。
「もちろんです。私でよければ付き合いましょう」
「シノさん……ありがとうございますっ!」
嬉しい返事に、フィオナの表情も稽古場の雰囲気も明るくなる。
シノは正座したまま話を続けた。
「事情が事情ですし、聖都では大変お世話になりましたから。
「よかったぁ……シノさんはクレスさんにとって大切な方ですから、何か思い出せるかもって、頼りにしてしまって。やっぱり来てよかったです。ありがとうございますシノさんっ」
「あなたはいつもクレスのために頑張ってくださいますね。こちらこそ礼を述べます。この子のために尽くしてくださってありがとう。感謝致します」
「わわわっ、そ、そんな! こちらこそです!」
お互いに頭を下げ合う二人。揃って顔を上げたところで、思わず笑い合った。
そこでシノが切り出す。
「さて、フィオナさん。申し訳ないのですが、少々クレスと二人にしてもらえるでしょうか。屋敷の方で部屋が準備されているはずです」
「あ、はいわかりましたっ。そうですよね。反復経験であのときみたいな稽古をするなら、わたしは邪魔ですよねっ」
「すみません。それから、後ほど町を案内させてください。何もないところですが、多少は気に入っていただける土産が見つかるかもしれません。温泉もありますよ」
「わぁ、ありがとうございます! 楽しみにしていますねっ♪ またお背中を流させてください」
シノがフィオナに見せる表情は、今のクレスが見たこともない柔和なものであった。
「それではクレスさん、また後ほどです」
「え――あ、ああ。わかった」
「どうか怪我には気をつけて、稽古はほどほどにしてくださいね」
フィオナは立ち上がるといそいそと戸口へ向かい、待ってくれていた先ほどの奉公人に頭を下げる。それから二人の方に振り返るとニコニコ顔で手を振り、静かに戸を閉めた。
稽古場はクレスとシノ、二人きりになる。また、どこか緊張した空気が流れ始めた。
向かい合い、座った状態で、シノは目をつむったまま何も言わない。
クレスも、何も言葉が出てこなかった。
しかしそれは、クレスにとって懐かしい穏やかな空気でもあった。
稽古を始める前は、必ずこうして精神を静める。
心を落ち着かせ、己と向き合う時間を作る。
彼女に師事していたあの頃も、二人きりのときはこうして過ごすことが多かった。余計なことは口にせず、ただ剣のみで己を示す。そんなシノの高貴な強さにクレスは憧れ、彼女のようになりたいと思っていた。
気付いたとき、クレスは口を開いていた。
「師匠」
「何ですか」
「フィオナさん、から聞いたのですが。その、師匠が女性というのは……」
少々こわばった顔で、クレスは尋ねた。
「……本当、なのでしょうか」
シノは平然と返す。
「本当です」
「……!」
クレスの驚いた様子を察してか、シノは目を閉じたまま小さく息を吐いた。
「私のことはいい。それよりもクレス。フィオナさんを忘れたというのは、本当ですか」
「は、はい」
「何も、覚えていないのですね」
「……はい」
すぐに答えるクレス。
シノはぴくりとも動かずに言った。
「私との稽古がお前の記憶を取り戻すことに繋がるのならば、協力することはやぶさかではありません。しかしクレス。お前の本心はどうなのですか」
「……どう、とは……?」
「お前は、フィオナさんとの記憶を取り戻したいと思っているのですか」
「……!」
その問いは、クレスの核心に迫っていた。
もちろん、記憶を取り戻せるのならそうしたい。
クレスにその思いはある。
しかしそれは――不安感からくるものが大きい。
自分が何をしてきたのか。どんな生き方をしてきたのか。失われた空白の時間が心の奥でざわつき、恐怖を生み出す。それは当然のことであり、だからクレスはまず自分のことが知りたかった。
「……俺は、俺のことが知りたいです」
少しずつ、自分の気持ちを吐露していくクレス。
「俺が、彼女のような人を妻としていたことは、正直まだ信じられません。俺は女性とそういった関係を築いたことがなかったから。師匠が女性だと知って、今も動揺しているくらいです。フィオナさんはとても良くしてくれますが……俺のような男のために、なぜ、そこまでと……思います」
シノはただ、静かにクレスの語りを聞いていた。
「自分の身に起こった異変が普通のことではないと、それだけはわかっています。俺の記憶は、二度と戻らないのかもしれない。取り戻せない記憶をいつまでも追い続けることは、彼女にとって辛いことのはずです。だから……もしも俺の記憶が戻らないのならば、いっそ彼女の元を離れたほうが良いのでは、と」
ぴく、とわずかにだけシノが眉を動かす。
「フィオナさんは、俺のような男には勿体のない素晴らしい女性だと思います。彼女の純粋な愛情を受けるにふさわしい者は、他にいるように思うのです。きっと彼女ならば、俺と離れても幸せな――」
刹那。
クレスは、全身を斬り裂かれた。
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