♯343 束の間の永遠
◇◆◇◆◇◆◇
「…………」
ヴァーンが一人立っていたのは、罠だらけのレースなど開催されることのない故郷の地。土地は豊かで緑に溢れ、眩しい朝陽と澄んだ空気が気持ちいい。
すぐ近くに、見慣れた平屋の家が建っている。決して大きくはなく、家族の人数を思えば小さい方だろう。
そんな家から出てきたエプロン姿の女性は、両手に洗濯籠を二つほど抱えていた。
ヴァーンの足は、自然とそちらへと向かう。
「――お袋。オレがやるよ」
「あらヴァーン、ありがとう」
母は、こんなにも小さかっただろうか。
経験したことのない高みから母を見下ろすヴァーンに、母は小さく笑って言う。
「でも、これくらい大丈夫よ。それに、あなたにはその子たちの面倒を見ていてほしいの」
くい、と手を引っ張られて気付くヴァーン。
振り返る。
そこに、四人の小さな弟妹がいた。
「――お前ら」
ヴァーンの目が、少し大きく開かれる。
「にいちゃんおそいってぇ! ほらはやくぅ!」
「お兄ちゃん、ま、まってたよ。いこう?」
「あんたたちさぁ。にーみたいにすこしは手伝いしなよ」
「……みんなでお手伝いすれば、すぐ行けるかも」
長女の提案に、他の三人が「お~!」と納得の声を上げた。
「だってよ。行こうぜ」
親指をくいっと差し向けるヴァーンに、彼の母は穏やかな笑みを浮かべる。
ヴァーンの身体は、在りし日の姿になっていた。
そのまま家族六人で川の洗い場へ向かい、洗濯を済ませる。途中で飽きた次男が末っ子三男を巻き込み川遊びを始めてびしょ濡れに。次女が呆れながら怒ってケンカのようになり、止めに入ったヴァーンもまとめて濡れてしまい、結局着ている服まで洗うはめになってしまった。それでも母は怒るようなことはなく、むしろ元気に成長する我が子らの姿を喜んでいるようだった。
洗濯を済ませて母と別れると、ヴァーンは弟妹たちを連れて川沿いを歩き、湖へ向かう。代わり代わりにおんぶをすると弟妹たちはよく喜んだが、長女は少し照れるような年齢になってきたようだった。
到着した湖は水竜が棲むという伝説のある近隣の村の憩いの場で、ヴァーンたちにとっても小さな頃から遊びの場だ。そして今日は釣りをする予定の日だったのだが――
「オイコラ。テメェがやりたいっつったくせにもう飽きてんじゃねぇ!」
「だってぜんぜんつれないしつまんねーもん! それよりにーちゃん修行しよーぜ修行! おれも強くなりてぇ!」
手製の竿で、釣りではなく剣術の真似事を始めた次男。そこに次女がまた呆れた声を掛けるものだからケンカが起きそうになり、長女と三男が仲裁に入る。
夕食のための魚を何匹か釣って家に戻ると、家族揃って昼食を済ませ、その後は森へ向かう。そこにはヴァーンたちが作った子供だけの秘密基地が存在し、ヴァーンの弟妹たちは日中そこで過ごすことも多かった。
ヴァーンは近くの町で剣と槍の稽古を、父親からは格闘術を学んでいたこともあり、身につけた知識と経験を弟妹に教えることもよくあった。人に教えることもまた稽古であり、それは良い反復練習になった。
ヴァーンの見立てにおいて最も剣の筋が良かったのはやんちゃな次男だが、ヴァーンの最も得意とする槍は三男に合っていた。そして気の強い次女はヴァーンよりも格闘術の才能に長け、大人しい長女はこの家系には珍しく魔術が得意だった。いずれヴァーンが家を出ることになっても、こいつらがいれば母親も安心だろう。ヴァーンはそう考えていた。
夕暮れ時に家に戻れば、ちょうど父親も帰ってくる頃合いだった。
「今日はなにかあったか」
「いつもどーり」
ヴァーンは父と共に少しだけ薪割りを行う。
寡黙だが心根の優しい父との会話は主にここで行われ、男同士でよくいろんな話をした。今日聞いたのは、各地で魔物たちの姿が増えているらしいということ。そして聖都から新たな勇者たちが旅だったらしいとのこと。ヴァーンもいずれ旅に出てみたいと思っていたが、そのためにはもっと力をつけなくてはいけないと思っていた。
「このくらいでいいだろう。戻るぞ、ヴァーン」
「ん、ああ。先いっててくれ親父」
ヴァーンの言葉にうなずき、父が家に入る。
いつかの日に父親が伐った切り株の上に座り、景色を眺める。山の向こうに夕日が沈んでいく光景は美しかった。
「……あー……」
ヴァーンはそのまま原っぱの上にごろりと仰向けに寝っ転がり、頭の後ろに手を当てて目を閉じる。少し冷たくなってきた夜風が、ヴァーンの下りた前髪を揺らした。
――するとそこで、ざっ、ざっ、と草を踏みしめて歩く音が近づいてくる。ヴァーンは目を閉じたまま、起きなかった。
足音は、彼のそばで止まる。
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