♯342 “いつかの世界”


◇◆◇◆◇◆◇



「……ん……」


 フィオナはそっとまぶたを開いた。

 そよ風に揺れる樹木の枝葉。その間から、柔らかな陽の光が降り注ぐ。

 心地良いまどろみ。頬を撫でる空気や、澄んだ緑の匂い。背中に感じる草と土の感触もまた、心を落ち着かせてくれていた。


 少しだけ視線を横に動かす。

 彼の横顔があった。


「――起きたのかい、フィオナ」


 すぐにこちらへ気付いてくれた彼は、座ったまま優しい目を向けてくれた。


「……クレス、さん……」

「ここは本当に気持ちの良いところだね。休日なのに朝からバタバタしていたから、もう少し休んでいてくれて構わないよ」

「朝から……? ……あ、わたし、眠っていてっ」


 フィオナが身を起こすと、クレスが背中を支えてくれた。


「…………あ――」


 目の前に広がるのは、美しい風景。

 高い壁に覆われた聖都の街と、その中央に建つ教会。河の流れる雄大な草原。畜産の行われる牧草地帯。遠くには山々が連なり、良く晴れたその日には湖の方まで見渡すことが出来た。フィオナが眠っていたのは、聖都近郊の自然公園にある丘、そこに立つ巨大な『ファティマ』の樹の下だった。


 そう。今日は休日。

 家族揃って遊びに来た。お弁当を持って。ピクニックに。

 静かで、とても豊かな時間だった。


「フィオナ? どうかしたかい?」

「え……? あ、ご、ごめんなさい。ちょっと寝ぼけてしまっているみたいでっ」


 そう言うと、クレスは小さく笑う。

 そんな彼の穏やかな表情にフィオナは癒やされ、とても優しい気持ちになれる。


「……あれ?」

「ん?」

「クレスさん……なんだか……」


 クレスの頬に手を伸ばすフィオナ。

 そっと触れると、彼は不思議そうにキョトンとする。

 以前よりも、なんだか、少しだけ。

 クレスが、大人っぽく成長しているような気がした。

 そして、彼の瞳に映る自分の姿もまた――。


 こうしてじっと見つめ合ううちに――クレスがフィオナの手を温かく握る。


「俺は幸せだ」

「……え?」

「君と、こうしていられる時間がなによりも。ずっと、こんな時間が続けばいいと思う」

「……クレス、さん……」


 なんて嬉しい言葉なんだろう。

 なんて幸せな時間なんだろう。


 フィオナは思う。

 この時間はきっと、ずっと――


「さぁ。そろそろ昼食にしよう。あの子たちも、お腹を空かせているようだ」

「え――?」


 クレスが視線を動かす。

 フィオナが同様にそちらへ目を向けると――


「母さん、起きたんだね」

「ママ、またパパと仲良しさんしてる~♪」


 二人の子供が、こちらへとやってきた。

 一人は銀髪の少年。幼くして温和な表情と落ち着いた佇まいからは、生来の優しさを感じることが出来る。

 もう一人は金髪の少女。愛らしい笑みで駆け寄りフィオナに抱きつくその姿は、年相応に幼く可愛らしい。


 双子らしくよく似た二人の顔立ちは、すぐにフィオナの母性スイッチを目覚めさせた。


「……うふふっ。おいでおいで♪ 二人とも、もっとくっついてね♪ ママと一緒に、お弁当食べましょうね♥」

「わぁ、か、母さん」

「ママ甘いニオイする~♪」


 両手で子供たちを抱擁し、思う存分可愛がるフィオナ。

 そう。いつもこうしていた。二人が生まれてくれたその日からずっと。その様子を見てクレスが笑うのだ。


 そして、もう一人――


「はぁ、はぁ……もうっ! ちょっと二人とも待ってってば!」


 全身ずぶ濡れの状態で現れたのは、近頃すっかり大人っぽくなった義理の娘。顔立ちは美しく凜々しく、幼い頃に心配していたバストの成長も著しい。


「ね、姉さん。早く、着替えた方がいいよ」

「ネーネ、川に落ちちゃったんだよ~!」

「二人が引っ張るからでしょ! はぁ、もういいから着替える! フィオナママ、鞄とって!」

「え? あ、う、うん!」

「レナ、これで身体を」

「ありがと。クレスたちはあっち向いててね」


 濡れた服を脱ぎ、先にクレスから受け取ったタオルで身体を拭いていくレナ。男二人はちゃんと紳士的に後ろを向いている。


「? フィオナママ、どうかした?」

「え? あ、うぅん、なんでもないよ。それよりお手伝いするね♪ 着替えたら、みんなでお弁当食べようね♪」

「ハイハイ。はー、ホントフィオナママって変わらないよね」


 フィオナも一緒になってレナの成長した身体を拭き、キチンと替えの服まで着せてあげる。「自分で出来るけど」というレナも、やっぱりされるがままになっていた。


 それからは、家族5人で用意していた弁当を囲う。

 みんなの好物をたくさん詰め込んでいた。大切な人たちにたくさん食べてもらえるだけで、フィオナは積み重ねられた幸せで胸の膨らみを感じた。


 おしゃべりをして、笑いあって、食後にみんなで横になれば、贅沢な時間が穏やかに過ぎ去っていく。


 ずっと思い描いていた、夢の光景。理想の未来。


 フィオナだけが身を起こす。

 気持ちよさそうに寝入る四人の姿に、これ以上はない幸福を感じた。


 改めて、フィオナは願う。


 愛する家族が、幸せになれますように。

 愛する家族を、守り続けられますように。

 ずっとずっと、そばにいられますように。


 フィオナは立ち上がり、先ほどレナたちが遊んでいた小川へと向かう。

 まだ少し頭がぼうっとしている。顔を洗ってスッキリしたかった。


 清流の川辺にしゃがみ込み、冷たい水に手をつけた。そして水を掬おうとしたとき――


「……え?」


 気付く。

 自分の手を、川の中で誰かが掴んだ。


 川面に映るのは――幼いレナの姿。


 フィオナの手を掴むレナは、必死で何かを叫び、こちらに呼びかけている。けれどその声は聞こえない。


「……レナ…………ちゃん……」


 水面が揺れるだけで消えてしまいそうなほど儚いレナの表情は、どこか泣きそうなものにも見えた。


 いつの間にか、後ろにみんなが立っている。

 クレスが。大きくなったレナが。双子の子供たちが。

 まだ顔も洗っていないのに、フィオナは頭の中がこの清流のようにすぅっと透き通っていく気がした。


 唐突に理解する。


 行かなければいけない。

 大切な家族を守るために。

 この、“いつかの世界”のために。

 今の家族を、守らなければ――!


 ――フィオナは、少しの間だけ溢れてくる涙をそのままにし、やがて目を拭って、家族を見た。

 そんなフィオナに、四人は笑顔で応える。

 子供たちを抱きながら、少し大人びたいつかのクレスが微笑む。


「頑張れ……フィオナ!」


 四人に背中を押された。

 だからフィオナもまた、笑顔で応えた。


「ママ、頑張ってきますね!」


 川の中に飛び込む。

 小さなレナの手を、決して離さないよう――!

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