♯299 楽しいお話
アサシンは恐怖した。
ミレーニアの微笑みに、言動に、一切の躊躇がない。ためらうことなく自分のために命を投げ出している目の前の女性が、アサシンにとっては未知の存在だった。そんな慈愛の神のような者がこの世界にいるはずがなかった。
ミレーニアがちょっぴり申し訳なさそうに言う。
『けれど……出来れば、もう少し待ってもらえないでしょうか』
『…………なぜだ』
『今夜、私は寿命を迎えるからです』
『!?』
『今夜、というよりも……もう、すぐですね。だから、最期が殺された姿とあっては、皆が驚いてしまいます。ですから、私の寿命が尽きた後で、私を殺したとご報告なさってくだされば、あなたも困らないのではないでしょうか』
他意のないその真実と提案に、動揺して瞳を揺らすアサシン。
対して、ミレーニアの星の瞳は真っ直ぐにアサシンを見つめていた。
『……あなたは、私と同じなのですね』
『なっ……何……っ』
『争いによって家族を、住む場所を失い、孤児となった。あなたが生きていくために、あなたの大切な人を守るために、あなたはそうするしかなかったのでしょう。星の声が、あなたの苦しむ心を教えてくれます』
『……!』
アサシンが身を引く。その呼吸が乱れた。
『貴様……なぜそこまで……っ! そ、そうか、聖女はその目で人の心を読み取る。お前は、オレの……!』
『ふふ、そのようにたいそうな力はありませんよ。ただ、あなたを知りたいと願ったのです。相手の痛みを知らなければ、心を通わせることなど出来ません。少しだけ……あなたの痛みを教えてもらいました』
ミレーニアが足を踏み出す。
『やめろ! 近づくな!』
アサシンはナイフを差し向け、また一歩後ろに下がった。
その切っ先が揺れる。
ミレーニアは恐れることなく話しかけた。
『暗殺者とは、誰かのためにその命を賭して戦うことが出来る者。命の火を燃やせる強さを持つ者。ご存じでしょうか。人は、大切な誰かを守るときにこそ一番の力を発揮出来るのです。初めに、あなたが妹さんを守って戦ったように』
『ッ!?』
ミレーニアの両手が、アサシンのナイフの刃を握る。その切っ先はミレーニアの胸部――心臓に向いていた。
聖女の白く細い指を、鮮烈な赤が滴る。それはナイフを通じてアサシンの手にも伝わった。
『あなたを縛るあなたの心を、あなたを許さないあなたの魂を、許してあげてください。戦うことなど出来なくてもいいのです。人は、何も出来なくても生きていていいのです』
『オレを……ゆ、許す……?』
『どのようなことがあっても、どのような世界であっても、人は、生きていくしかありません。ならば、大切なのはどう生きるかということではないでしょうか。あなたは、どのように生きたいですか? このまま、わたしの命を奪うことが本当の望みですか? 耳を澄ませて、聴いてみてください。あなたのまっさらな心の声を。わたしに教えてください。あなたが生きる理由は、なんですか?』
『りゆう…………オレが……オレが、いきて……』
アサシンの瞳が揺れ、その手からナイフが落ち、カランカランと音を立てて屋根を滑り落ちていく。
『…………妹だ。あいつが、オレに、いきて、くれと…………そう、そうだった……だからオレはっ……オレは強くなって、あいつのっ…………ああ、うああああああああああッ!!』
まだ幼き不安定な心が、自己を見失って崩壊を起こす。
ミレーニアは、そんな心を抱擁で満たした。
そしてささやく。
『――――』
それは、失われた暗殺者の名。
懐かしいその響きを聞いたとき、アサシンの心は目覚めた。捨て去り塗りつぶしていた古き記憶が鮮明に蘇った。恐れていた記憶は、不思議と恐ろしいものに感じなかった。
優しく抱きしめながら、ミレーニアはつぶやく。
『名前とは、愛です。あなたの家族があなたを想う、気持ちの表れ。自分を捨てないでください。そうすれば、あなたの心は自由になれる。あなたは幸せになれます』
――なぜ名前を知っていたのか。
――なぜ彼女の言葉は胸の奥に染み入るのか。
こんなことはありえないとアサシンは思った。しかし、目の前のただ一人の女性が特別な存在に思えた。
ミレーニアがつぶやく。
『ありがとうございます』
『……なぜ、礼を』
『あなたは、私と会話をしてくれました。それは、心が生きている証』
『…………心……』
『私の命を狙う方には、以前にも何度か出会いました。けれど、その多くは私の言葉に耳を傾けてはくださらなかった。暗殺者としてはそれが正しく、当たり前かもしれません。でも私は、心を壊して生きることは悲しいことであると思います』
『…………だからお前は、暗殺者にさえ、言葉をかけるのか』
『言葉とは、思いの発露。心のやりとり。誰かと言葉を交わし、思いを伝え合えることは、当たり前のようであって、奇跡のように素晴らしいこと……そうは思いませんか?』
『…………お前が何を言っているのか、オレには、わからない……』
『簡単なことなんです。私は、あなたと話がしたかった。あなたは、それに応えてくれた。私は、そのことがとても嬉しいのです。だって……うふふっ。
子供のように笑う聖女に対して、アサシンは戸惑いの中で知った。
そうか。
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