♯295 始まりの聖女

 女神の手がこちらに向くと同時に、フィオナはソフィアの腕を引っ張って女神から離れた。

 二人は教会内を走って逃げる。

 しかし逃げようとした先で“光の泡”が弾け、後方からも泡が追いかけてくる。


「――っ! ごめんなさい……!」


 フィオナは謝ってから歴代の聖女像たちの裏に隠れて走った。

 シャーレはぴくっと反応してわずかに動きを止めたが、すぐにまた手を動かして聖女像すらも次々に光の泡で包み込んだ。すると泡に包まれた聖女像はぷかりと浮かび上がってフィオナたちは隠れ蓑を失う。さらに二人を追い詰めるように一気に大量の泡が出現し、二人はとうとう逃げ道を失って勢いを止めることになった。


 追い詰められたフィオナたちが背をついたのは、初代聖女ミレーニアの像。それは最後に残った聖女の像だった。

 そこで二人を囲んだ“光の泡”がすべて同時に弾けて周囲の空間を闇に変える。この闇に触れてはいけないことをフィオナは直感で理解していた。


 もう、逃げ場所はない。


 ミレーニアの像を背にして、フィオナが叫ぶ。


「やめてくださいシャーレ様! ソフィアちゃんがしたことは謝ります! けれど、あんな風に言われたら……どうしてこんな急に、どうして……っ!」


 なんとかソフィアを守ろうと身を寄せるフィオナ。


 浮かび上がる歴代聖女たちの像。

 ステンドグラスから差し込む柔らかな光。

 星の輝きすら呑み込む暗黒。

  

 神域を支配する女神シャーレは手を掲げたまま、裸足で、一歩ずつ歩み寄る。


『……聖女とは、私のために存在する者』


 シャーレの長い髪から、瞳から、星の輝きが消えていた。


『人をまとめ、その意思を繋ぎ、女神へと捧げるための使者。人の代表としてこの私を崇め、心を共にすべき者。しかし、お前たちはわたしの手を離れた。わたしを必要としなくなった。ならばもう、聖女は要らない』


 女神シャーレはミレーニアのぬいぐるみをきつく抱きしめ、その声を、無感情だった声を震わせる。


『リリィも、シャーロットも、エミリーも、アリアも、ルーナもリゼもローラもアイリスもクレアもミネットも!』


 泡に包まれたままの聖女たちの像が、一人ずつ大きな音を立てて弾ける。


『お前たちは皆、私を必要としなかった! 神の力を求めなかった! お前たちの魂が此処に還ることはない。こんなものは虚像。空虚な器だ。けれどミレーニアは違う。ミレーニアだけ、ミレーニアだけが、私といてくれる……』


 うつむいて見えない彼女の顔から、透明な雫が落ちる。


「…………シャーレ……様……」


 そんな女神の姿を、フィオナもソフィアも、ぼうっと見ているしかなかった。


 やがてシャーレの震えが止まり、彼女の足がふわりと浮く。そして子供のように膝を抱えながら、ミレーニアのぬいぐるみを抱きしめながら、冷たい瞳でつぶやく。



『もう、いい。よく解った。ミレーニアは二度と生まれない。ならば、地上になど何の価値もない。愛も美も平和も此処にだけあればいい。だからお前たちは――消えて』



 ボコボコボコ、と大きな泡が膨れあがるような音がした。


 ――フィオナとソフィア。二人の眼前に巨大な“光の泡”が生まれる。


 逃げることは出来ない。

 神の本力に抗う術はない。


 息をのんだソフィアが、フィオナの服を掴んだままギュッと目を閉じる。

 フィオナもまた、ソフィアを守ろうと彼女を抱きしめて目を閉じる。



 光の泡は、二人を呑み込むように弾け…………――




 ――しばらくして、フィオナはおそるおそるまぶたを開けた。


「…………?」


 目の前に、まだ目を閉じたままのソフィアがいる。震える妹の感触や温もりがわかる。

 自分の身体を見下ろす。あちこちに痛みを感じるが、それでも無事のようだった。


「…………あれ……?」


 と、不思議そうな声を上げたのはソフィアの方だった。

 ゆっくりと目を開けた彼女もまた、フィオナと同じように戸惑う。二人とも最期の瞬間を覚悟していたが、どうやらそのときは訪れていないようだった。


 二人はお互いに顔を合わせて目をぱちぱちとさせ、それから揃って女神シャーレの方に目を向けた。


 シャーレは、大きく開いた瞳を揺らしながら唖然とこちらを見ていた。


 違う。



 正確には、二人の後ろを見ていた・・・・・・・



 フィオナとソフィアはハッとして背後を振り返る。


 そこで、聖女ミレーニアの像が淡い光を放っていた。

 

 フィオナとソフィアは気付く。

 ミレーニアの像が発するその月色の光が、バリアのように二人を守ってくれていた。まるで母親に抱かれているように、とても暖かい光だった。

 すると、その光は像の中にゆっくりと吸収されていく。


 ――そして、像から一人の女性が現れた。


 うっすらと透けているその女性は、音もなく教会に素足をつける。純白の髪がサラリと揺れた。


 神秘的な人だった。

 美しく、愛らしく、凜とし、穏やかで、幻想的な存在だった。

 そして何よりも、愛情深い瞳をしていた。

 そのすべてを見通すような星の瞳で、フィオナを、ソフィアを見つめていた。


 フィオナが呆然とつぶやく。



「………………ミレーニア、さま……?」



 始まりの聖女。

 星宿す少女。

 奇跡の乙女。


〈ミレーニア・ステラ・ル・ヴィオラ=アレイシア〉が、優しく二人に微笑みかけた。

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