♯270 完全な女神と不完全な聖女

 ――神の泉。

 上段の大地から流れ落ちる水がたどり着くこの場所には清らかな聖泉があり、翼を持つ美しい女神の裸体像が置かれていた。また、泉を囲うように豊かな花園が広がっていて、あちこちにベンチも設置されている。


 そしてその花園の中で、一人の少女が激しく声を上げて抗議をしていた。彼女の首元には、美しい宝石のペンダントが光っている。


「――だからさぁ! 私ががんばるからそれでいいじゃん! なんでダメなのっ!? もー早く帰してよっ!」


 抗議の矛先は――少女の前でぷかぷかと宙に浮かぶ、一人の女性。純白の羽衣のようなものを纏い、胸元や太股など、白く美しい肌が大胆に露出している。


 眠るように目を閉じている女性の口が小さく開いた。


「不完全な問い。何度も言っているわ。新たな聖女が生まれた以上、元聖女のお前は不要。帰る意味もない。完全なる神の世界で穢れた魂を浄化すればいい。不完全なお前には過ぎたところよ」


 まるで興味もなさそうに、一切表情を変えることなく女性は冷たげな言葉を投げた。


 その反応に、『元聖女』と呼ばれた少女――ソフィアはムキーと腹を立てる。先ほどから、そしてこの世界に来たときからずっとこの調子である。何を言っても暖簾に腕押し。女神にそよ風。目すら合わせてもらえないし、聞く耳など持ってもらえなかった。


「人のこと不完全不完全っていうのやめろー! これでも小さな頃から完璧な聖女だってみんなに褒めてもらってたんだから!」

「笑えもしない。子供の頃のお前には、ギリギリの及第点をあげてもいいわ。けれど、今のお前は我欲にまみれた人間らしい不完全な存在。完璧だなどとおこがましい。完全で完璧な存在というのは私のような美しい神だけを指すのよ。人間で唯一完全な存在なのはミレーニアだけ。お前はミレーニアにはほど遠い」

「私は私なのっ! 初代様と比べないでよ! 過去の聖女様は関係ないじゃん!」

「過去がなければ現在はない。聖史を軽視するような者にはやはりその魂はふさわしくなかった。ミレーニアの血を継いでいるとは思えないわ。この子も無念なことでしょう」

「むがー! さっきから事あるごとに初代様のことばっかり! ていうか……なんで初代様のぬいぐるみ抱えてるの? そんなに初代様が好きなの? ぷぷっ、なんか子供みたい」


 挑発するようなソフィアの発言と表情に、宙に浮いていた女性がぴたりと止まった。

 そして、閉じられていた女性の金色の瞳がソフィアへと向く。


「……お前ほど失礼な聖女は過去にいなかったわ。愛と美と平和を司る完全な神へなんたる暴言……許されざる言動よ」

「な、なんですか、やる気ですかー!?」


 思わずファイティングポーズを取るソフィア。鼻息が荒くなった。


 ――だが、女性の方は涼しい顔をしたままで、左手の指を唇に当てると、投げキッスをするように小さな音を立ててそっと離した。

 すると、女性の左手に一冊の書物らしきものが出現する。

 女性はその本をポイッとソフィアの方へ放り投げた。ソフィアは「わわわっ!」と慌ててキャッチし、息をつく。


「……へ? な、何これ? 怒ったんじゃ……ないの?」

「完全なるわたしが不完全な人間お前に感情を持つことなどない。不完全なお前でも愛と美と平和を理解出来るよう、完全なる私が完全なる書を授けるわ。それを熟読して一から学びなさい貧しい乳の小娘」

「やっぱり怒ってるじゃん! ていうか、何の本……?」


 ソフィアは訝しげに本を見つめ、真っ白な装丁の本をおそるおそる開いてみた。


「えーっと……『私は完全なる女神シャーレ。愛と美と平和を司る偉大なる存在。私の美しさは天界に留まらず地上にまで広く伝わり、知らぬ者はいない。そんな私に、今日も天界で一人の男が近づく。彼はいつも完全な私に求愛し、完全を求める。心すらも美しい完全な私は彼の心を満たすため、完全で神聖な肉体を披露した。彼は欲望を解放させ、美しい私の肢体をその手で……』……………………ってこれ官能小説エッチな本なんですけどー!?」


 思わず大声でツッコむソフィア。

 ぷかぷか浮いたままの女性は、投げキッスでもう一冊同じ本を出現させ、すました顔でページに目を落とした。


「私の完全なる自叙伝よ。一字一句、ありがたく心に刻み込みなさい。さすれば、未熟なお前にも多少は愛と美と平和を理解出来ることでしょう。ふぅ……何度読み返しても魂が震えるわ。聖書として地上に流布すべきかしら……」

「エッチな本を世界にばらまこうとしてるの!? ど、どれだけページめくってもエッチなシーンばっかりだよー! うわすごっ…………へぇ……こうするんだ…………はぁ~……って違う違う! こ、こんなの神聖な書物じゃなくて性的な書物だよ! 性書だよ! ていうか自分で書いたの!? 女神シャーレ様が!?」

「そんなに赤面して狼狽えるとは……やはりお前にはまだ早かったようね。セックスも識らない生娘が、達者なのは上の口だけかしら」


 呆れたような女性の物言いに、ソフィアはかぁ~っと紅潮しながら指を差して叫んだ。


「は、は、はぁ~~~~~~!? ハイそれセクハラですっ! 神ハラです! 神様ハラスメントですぅっ!」

「本を読むときは静かになさい処女。これだから処女は……」

「処女処女うるさぁーいっ!! しょーがないじゃんっ! したくたって出来ないんだもんっ! 聖女の禁戒だもんっ! 禁止されてなきゃしてるもんっ! だからお姉ちゃんにいろいろ教えてもらってガマンしてるのにさ! てゆーかそもそもシャーレあなたの教えじゃんっ!!」

「不完全な人間がシャーレの教えを曲解しているだけのこと。プシュケーの求めるエロスを否定することは己を否定することと同義だというのに……。まぁ、子を残せずに此所へ来たお前も被害者かしら。エロスも識らない悲しき乙女ね……」

「ああ! 今ちょっと哀れんだ目で見たでしょ!? うううっ、だったら地上に帰してよ! そしたらエロス勉強するから! 猛勉強しちゃうから! それでいつか完全な聖女になってまたこっち来れば文句ないでしょー!」

「だからもう帰る必要はないと言っているわ。お前は魂が消滅するまで、此所でその本を愛読し自分を慰めなさい」

「やだ! なんかもうさらに帰りたくなってきた! ちゃんと恋愛したい! ちゃんとエッチなことしたい! フィオナちゃんから教えてもらったことやりたいっ!」

「諦めなさい処女」

「うわぁ~~~ん! やっぱりこのままこっちで人生終えちゃうなんてやだぁ~~~! 神様……には頼れないから、おねえちゃぁ~~~~~~~~~~~~ん!」


 ソフィアが心からそう叫んだとき。


“お姉ちゃん”が、悲鳴と共に落ちてきた。



「――きゃああああああああああ~~~~~~~~っ!!」



 激しい音の着水。

 泉の水が大きく立ち上り、シャワーのようになって少女と女神にまで降り注ぐ。

 一人と一柱が呆然と泉の方を見つめていると、やがて泉の底から彼女が顔を出した。彼女は何度か咳き込んだ後、ソフィアの顔を見てパァッと表情を明るくし、それから照れたようにつぶやく。


「えへへ……来ちゃいました……」


 そうつぶやく彼女の顔が、ソフィアには神様よりもまぶしく見えた。

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