♯241 男は面倒な生き物
ルルロッテは、まずエステルの前に立って彼女の頬に唇を寄せる。
それからセリーヌに。
背を伸ばしてクレスに。
最後にフィオナに。
四人の頬に、それぞれ軽い口づけをした。
この行動に、クレスたちは当然ながら呆然となる。四人とも言葉を失ってしまった。そして、表情を変えない執事もまたまばたきを忘れていた。
ルルロッテは自身の胸の前で手を組み、目を閉じて、その名を呼ぶ。
「――姉様」
それだけをつぶやき、しばらく、静かな時間が流れた。
皆が見守る中で、やがてルルロッテがそっとまぶたを開く。
「……そう、だよね。そうですよね」
一人つぶやいたルルロッテは、晴れやかな
「皆さまのご厚意、深く感謝致します。どうか……わたくしにお力をお貸しください」
それから、ドレスの裾をつまみ上げて頭を下げた。
その返事に、クレスたちの表情も一様に明るくなる。特にフィオナの喜び方がもっともわかりやすく、ルルロッテはまた笑ってしまった。
ルルロッテは、フィオナと目を合わせて言う。
「フィオナ様。もちろん皆さまも。わたくしのことは、どうか『ルル』とお気軽にお呼び下さい」
「え……い、いいんですかっ?」
「はい。そうしていただきたいのです」
「わ、わかりました! ルルさん!」
ニッコリと微笑んで答えるルルロッテ。
それからルルロッテは、じっとフィオナの顔を見つめて近づき、そっとフィオナの頬に手を伸ばした。
「すみません。よく、顔を見せていただけますか」
「え? は、はいっ」
しばらくの間、ルルロッテは静かにフィオナの顔を見つめ続けた。
やがて、その手を引いてつぶやく。
「失礼致しました。フィオナ様が……どこか、わたくしの姉に似ていて……」
「え……? わ、わたしがですか?」
「はい。姿形も、声も、性格もまったく違いますが……不思議なものですね。それでも、やはり似ているのです。ひょっとすると、わたくしがなりたいと願う人だからでしょうか」
「ふぇっ」
「これが、勇者様の奥方様なのですね。わたくしは、あなたのような美しい心を持つ女性になりたい。そう、思います」
真っ直ぐに宣言するルルロッテに、フィオナはしばらくポカンとした後、急速に照れてしまい恥ずかしそうに頬を赤く染めた。そんな二人のやりとりを、クレスたちも微笑ましく見つめる。特に執事は、感慨深そうに目を伏せていた。
そうして空気が和やかになったところで、ルルロッテが今度はエステルに話しかけた。
「あの、エステル様。よろしいでしょうか」
「? 何でしょう」
「ヴァーン様に、言づてをお願いしたいのです」
「言づて? ……やはり何か変なことを吹き込まれましたか? であれば、私の方からあの男を折檻しておきますが」
「い、いえ違いますっ。あ、確かにその、背負っていただいていたとき、もっと胸を大きくしろとか、太股の肉付きが弱いとか、そういうことは言われましたが……」
「死刑にしましょう」
「ええ!? そ、それはいくらなんでも! むしろそのっ、わ、わたくしが粗相をしてしまい……大変、反省しておりまして……ですからその……」
おたおたするルルロッテを見て、エステルは何度か驚いたようにまばたきをした後、小さく息を吐いて返した。
「……わかりました。それでは、なんとお伝えしましょう」
「ありがとうございます! 実はわたくし、ヴァーン様と、彼のご家族に失礼な発言をしてしまい……そのことを謝罪したいのです」
その言葉に、エステルがぴくっと反応する。
「ヴァーン様はきっと、ご家族想いのお優しい方なのでしょうね。それは、とても素晴らしいことです。だから、弟様や妹様たちと幸せに暮らしてほしいと、これからもご家族を大切になさってほしいと、そう、お伝えしていただきたいのです」
ルルロッテがちょっぴり申し訳なさそうにそう言うと。
エステルは右手で自分の左腕をキュッと掴み、静かに目を伏せた。そんな彼女の様子に、ルルロッテは小さく首をかしげる。
「エステル様……?」
「……これは、私の口から言うべきことではないかもしれませんが……」
そう前置きをしてから、エステルは目を閉じたまま言った。
「彼の家族は、もう、おりません」
「……え?」
「彼は、戦争で家族を皆失っています」
その言葉を聞いて。
ルルロッテはしばらく何も言えずに固まり。
そして、痛めた裸足のまま走り出した。
◇◆◇◆◇◆◇
ルルロッテは走る。
「ヴァーン様……!」
揺れるドレスを持ち上げ、ヒールを捨て置いて前に進む。
走り慣れない身体はすぐに疲労し、息は上がって、痛めた足のズキズキとした苦痛が血液と共に全身に流れる。
しかしそんなことは気にも留めず、ルルロッテはとにかく急ぐ。
頭の中であのときのやりとりを思い出すたび、ルルロッテは自身の幼稚さに呆れ、後悔していた。
『少しはわかるぜ』
彼はあのときそう言った。
気休めの言葉だとルルロッテは思った。
誰にでも言える、何の痛みも伴わない無責任な発言だと。軟派な男の口から出た、軽率な言葉だと。
だから、言ってしまった。
『軽々しく慰めの言葉を掛けないでください! わたくしは国も、誇りも、家族もすべて失ったのです! あなたに何がわかるのですか! 多くの兄妹と、家族と、仲間と幸せに生きるあなたに、何がっ……!』
『……ワリィ。そうだな』
あんなことを言ってしまった。
「わたくしは……わたくしはっ、なんて、なんて、ことを……っ」
あまりに自分が情けなくて、ルルロッテは泣きそうになった。
けれど泣いている場合ではなかった。
「こちらです、公女様」
「っ! エ、エステルさまっ」
いつの間にかルルロッテの隣でエステルが並走していた。また、逆サイドでは執事もついてきている。彼の手にはルルロッテが捨てたヒールがあった。
エステルは手の平で先を示しながら、少しばかりルルロッテよりも速く進む。
「あの男が行きそうな店でしたら見当がつきますので、ここから一番近い場所へご案内します。どうぞ」
「はっ、はっ……はい! ありがとう、ございます!」
息を切らしながら返事をするルルロッテ。
それからほどなくして、聖都の大通りにてよく目立つ赤毛の男を発見する。
豆粒ほどに小さい彼の背中を見つけて、ルルロッテの顔が綻んだ。
しかし――ホッとした瞬間に足の力が抜けたのか、またはひねった痛みを思い出したのか、ルルロッテは前のめりに転んでしまった。当然、エステルや執事がすぐに介抱しようと足を止めて戻ってきた。
ルルロッテは地面について汚れた顔を上げ、叫んだ。
「ヴァーン様っ!!」
まだ人気の少ない夜の大通りで、よく響く声が彼の耳にも届いた。
通りを歩いていた幾人かの者たちに加え、ヴァーンが槍を肩に抱えながらくるりとこちらに振り返る。表情は見えない。
ルルロッテは、出来る限りに大きく口を開けた。
「ごめんなさいっ! 軽々しい言葉などと言って、申し訳ありません! 自分だけが苦しいような顔をして、わたくしは……っ! こんな無知蒙昧な小娘を、どうか、どうかお許しください!」
遠くのヴァーンが、ポリポリと頬の辺りを掻いているのが見えた。
「わたくしも“妹”であったからこそ、解ります! ヴァーン様のような兄君を持てたご弟妹は、きっと、きっと、お幸せであったと、そう、心より思いますっ!」
それらの発言がヴァーンに届いているかどうかはわからなかった。
ヴァーンはまたくるっと前を向いてしまい、スタスタと歩き始める。
ルルロッテがしゅんと顔を落とし掛けたとき――。
ヴァーンは右手を高く挙げ、ひらひらと振った。
「……ヴァーン様」
彼はそのまま夜の街に消えていき、姿は見えなくなる。
ルルロッテを介抱しているエステルがつぶやいた。
「公女様のお気持ちは十分に伝わったかと思います」
「……そう、でしょうか? 許して、いただけたでしょうか……」
「具体的にどのような会話をされたのかはわかりませんが、彼は大して気にしてはいないと思います。むしろ、面と向かって謝罪される方が彼は困ったことでしょう」
「そういうもの、なのですか……?」
「そういうもの、です。男というのは、馬鹿で面倒な生き物ですから」
心底呆れたように、けれどどこか温かい意味を感じるエステルの言葉に、ルルロッテはなんだかおかしくなって顔を綻ばせた。
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