♯232 幻想を紡ぐ歌

 ――雪が降り始めた。


 紡がれる詠唱アリアの美声。


 叙情的な詩と伴奏のメロディ。


 ドレスと、歌声と、曲。調和した幻想の世界が会場全体を包みこみ、雪など降るはずがないこの時期に、白き結晶が会場にひらひらと舞い降る。しかし皆はただ聴き入るだけで、雪が降っていることにも気付かない。聴くこと以外に意識を向けることが出来ないほどの力がその歌にはあった。


 音楽に精通していようといまいと、どのような人間でも何ら関係がない。

 声が、メロディが、すべての人の心に染み渡っていく。

 ルルの歌声は聴く者すべての魂を震わせ、揺るがし、感動を与えた。感受性の豊かな者ほど、堪えきれずに滂沱の涙をこぼした。



――ステージの袖で歌を聴いていたエステルもまた、涙を流しながらつぶやいた。


「……《雪月詩クリア》」


 エステルは知っていた。

 その歌を。うたを。

 幼い頃に、何度も何度も聴き続けた。今でも、一人で口ずさむことがあるほどに。


「この歌声……まちがい、ない。“ヴェインスの至宝”……“ティアノーツの歌姫”……。なら……なら、ひょっとして、あの子は、あの、方は――」


 エステルが崩れるように膝を突く。にもかかわらず、すぐそばにいるセリーヌやリズリット、レナはエステルの方に目を向けることすらしない。幻想の世界に引き込まれていた。


 美しい歌声は響く。



《舞い落ちる結晶が、白き町を照らす。ユクトリシャの星に導かれ、願いの場所リ・ヴィエラへ辿り着けば、もう独りじゃない》



 ルルの歌声は力を失うことなく、完璧に続いていた。すべての人を魅了していた。

 このまま歌が終われば、評価は揺らぎようもなかった。

 おそらく誰もがそう思うことになったはずだった。

 優勝するのは、彼女であると。


 しかし――ルルの顔色はみるみる悪くなっていった。



《銀月に祈り捧げ、悲しみは解けゆく。どれほどの刻が満ちても、わたしはここにいるから。約束は、朽ちない。永遠を誓う雪花、心、白く染めて。いつまでも、あな――》



 最後のフレーズ。

 もうそこですべてが終わるというタイミングで、ルルの身体がぐらりと揺れた。

 ルルはハッとなり、すんでのところで足を踏ん張って倒れるのを堪える。それでも歌を続けようとした。しかし、ドレスの裾を先ほどのようにヒールで踏みつけてしまったことで、ビリッと音を立ててドレスが大きく裂けてしまう。


「っ――!」


 刹那に、ルルの歌声が止まった。

 途端に呼吸は乱れ、大粒の汗が落ちる。動揺と焦燥によって顔はさらに青ざめ、表情からは以前のような自信も、余裕も消え失せていた。まるで、今まで被ってきた仮面が剥がれ落ちたかのように。


「ぅ…………ぁっ……!」


 自身の喉元に手を当てるルル。

 必死に声を絞り出そうとしているようだったが、まるで何かが喉に詰まってしまったかのように苦しげである。それでも執事は伴奏を止めなかった。ルルが、そちらに強い視線を送っていたからだ。


 歌声が止まると雪は止み、魅了の魔術が解けたかのように人々が幻想から現実へと回帰する。セリーヌたちもようやくエステルがその場に崩れおちていたことに気づき、膝をついてエステルを支えた。人々は何が起きたのか理解が追いついていない様子で、ただ呆然となっている。


 ルルはそれでも歌おうとしていた。

 しかし、開いたその口から美声が響くことはない。

 やがてルルの手から力が抜けると、その身体がまた倒れそうになる。執事はとうとう演奏を止めて立ち上がった。


 倒れかけたルルの身体を――同じステージ上のフィオナが支えた。


「……ぁ…………」


 ルルが、霞んだ目でフィオナの顔を見上げる。

 フィオナの頬に、涙が伝っていた。


「とっても……とっても素敵な歌でした……!」


 泣きながら、微笑んでいた。

 そんな二人を見て、立ち上がっていた執事はそっと後ろへ下がると、またピアノの前に戻る。

 しばらくして、聖女ソフィアが始めに手を叩いた。すると現実に返っていた人々がハッとなり、続けて拍手をする。ルルはその拍手を聴きながら、ギリ、と音がするほどに歯を食いしばっていた。


 フィオナは涙を拭うと、ルルの身体を支えながら声を掛ける。


「ルルさん、大丈夫ですか? た、立てそう、ですか?」

「…………」


 ルルは素直に、小さくうなずく。そしてフィオナの手から離れると、一人でステージに立ち尽くし、ドレスをギュッと握りしめた。


「ルルさん…………あっ……!」


 そこでフィオナは、ルルを見て何かに気付いたような声を上げる。

 するとフィオナは少々慌てた様子でルルの姿を隠すように前に立ち、今度はステージの前方へと足を進めた。


「み、皆さんっ! えっと、えっと……あのっ!」


 観客の視線が集まる。

 フィオナはあたふたと言葉を詰まらせていたが、やがて大きな声で言った。



「じ、実はわたしっ、とっておきの衣装を用意していました! のでっ! こ、この場で一瞬で早着替えしちゃいますっ! それを、わたしの特技審査にさせてください!」



 フィオナの唐突な発言に、審査員や観客が『おお!?』とどよめいて目を向ける。そんなことは初耳のセリーヌたちも、ステージ袖で「えっ!?」みたいな顔をした。


 当然である。


 今決めた・・・・のだ。


 フィオナは、出たとこ勝負で最後のアピールを始めようとしていた――!

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