♯214 『あなた』
クレスとの入浴以降、リズリットの表情からは緊張が完全に消えて、家の中でもより和やかな空気が流れるようになった。クレスとリズリットが本当の兄妹のように見えて、フィオナも穏やかな気持ちになったものである。先輩として、これでリズリットが合宿を上手く乗り越えられれば、と祈るばかりだ。
また、本来レナは食事を済ませてからすぐに寮へと戻る予定であったが、どのみち明日から合宿だからと、リズリットと共に泊まっていくことに。そのため一つのベッドに四人で眠ることになったのだが、さすがにクイーンサイズとはいえ四人は少々窮屈だ。それでもクレス以外の女性三人が小柄なおかげでなんとかなり、四人は密着しながら朝まで眠りにつくのだった――。
翌朝。
クレスとフィオナは、森の家の前でリズリットとレナを見送る。木々の間から差す朝日に照らされる制服姿の二人は、それぞれに荷物を背負い、フィオナの手作りお弁当を持って準備も万全だ。ただ、レナの方はそうでもなかったのだが、さすがに当日の朝となってリズリットもまた緊張してきまっていたようだ。
そんなリズリットの肩にクレスが手を置く。
「大丈夫。きっと上手くいくよ、リズリットさん」
「ク、クレスさん……」
約束の一晩が終わり、既に二人の呼び方も元に戻っていた。
すると、リズリットがもじもじとしながら自分の人差し指同士をつんつんと合わせた。
「あ、あのう、クレスさん」
「うん?」
「も、も、もし、リズがちゃんと合宿をがんばってこられたら……そのぅ…………。ま、また、たまにでいいのでっ! リ、リ、リズのお兄ちゃんにっ! なって、くれます……か?」
言っている途中からどんどん赤面していったリズリットであるが、なんとか最後まで言いたいことを口に出来た様子である。
これにクレスは驚いたように目を見開いたが――
「――ああ、いいよ。頑張っておいで、リズ」
「――! う、うんっ!」
クレスから頭を撫でられ、嬉しそうに笑うリズリット。続けてフィオナも声を掛け、リズリットのやる気がさらに高まった。レナもクレスとフィオナからの応援を受け、「よゆうだよ」と言葉通りに自信満々な様子であった。
こうしてリズリットとレナを送り出した二人は、一杯の珈琲でようやく一息をつく。今朝はなかなかに忙しい時間だった。
「……ふぅ。なんだか賑やかな時間だったね」
「ふふ、そうですねクレスさん。リズリットもレナちゃんも、上手くいくといいな。報告が楽しみですね」
「うん。あの二人なら大丈夫だろうと信じているよ。さて、それじゃあ俺も兄として恥ずかしくないよう、フェスタを成功させるための準備をしなければいけないな。フィオナ、今回ばかりは少し頑張ってもいい……だろうか!」
頑張りの許可を得ようとフィオナの顔色を伺うクレス。おそらくは生地作りの仕事を任せてもらえたことが嬉しかったのだろう。そんなクレスの対応にフィオナは思わずくすくすと笑った。
「うふふっ、そうですね。リズリットの『お兄ちゃん』で、レナちゃんの『パパ』ですもんね。二人に格好良いところを見てもらわないとですね。頑張りすぎない程度なら、OKです♪」
「よしッ! フードフェスタでフィオナのスイーツを皆に知ってもらうため、俺は全力を尽く――いや、ほどほどに頑張るぞ!」
わざわざ言い直すところにまた笑ってしまうフィオナである。世界を救った勇者も、今はすっかり妻の尻に敷かれていた。
そんな中、フィオナには少々思うところがあった。
そこでフィオナは、珈琲のカップを片付けてからクレスに声を掛ける。
「クレスさん、少しいいでしょうか」
「うん? どうしたんだい? フェスタの話かな?」
「あ、いえっ、そうではなくてっ。その、リズリットの影響……というわけでもないのですが、わたし、少しだけ、羨ましくなってしまいまして……」
「羨ましい?」
キョトン顔をするクレス。
フィオナはすぐに言葉を続けた。
「は、はい。実はその、呼び方のことなんです。今回、クレスさんはリズリットを『リズ』と。リズリットはクレスさんを『お兄ちゃん』と呼びましたよね。そうして呼び方が変わるだけで、なんだか二人の関係がすごく親しみを増したような気がして……」
「呼び方……ああ、なるほど。確かに俺も、今回の件でリズリットさんとは親交を深められたように思うよ。呼び方一つで、不思議なものだね」
うんうんとうなずきながら納得の表情を浮かべるクレス。
フィオナは、ちょっぴり照れたように視線を逸らした。
「そ、そうですよねっ。それでその……わたしたちも、たまには呼び方を変えてみたらどうかなぁっって、思いまして」
「俺たちも?」
「は、はい。わたしは普段からこういった話し方をしていることもあって、周りから見たら、クレスさんと距離があるように見えるものかもしれません。若干、年齢の差もありますから……」
チラッとクレスの方を見上げるフィオナ。
二人は夫婦として着実に関係を深めており、ステップアップしてきている。ゆえに当人同士の間では問題もないのだが、周囲からの目は違うかもしれない。クレスは成人男性の中でも体格が良い方であるから、フィオナとは身長差もある。それこそ、初めはクレスとフィオナを兄妹のように見ていた者たちも少なくないだろう。だからこそ、フィオナは彼にふさわしい大人になりたいとずっと思ってきたのだ。
クレスは顎に手を添えながらうなった。
「うーむ、そういうことか。俺には考えも及ばなかった……すまないフィオナ。だが、確かに街で見かけるご夫婦はもっと距離が近いというか、お互いに遠慮のない喋り方や接し方をしていることが多いような気がするね」
「そ、そうなんです! わたしもそう思いまして! だから、お、お試しだけでもどうかなと!」
「うん、それは俺も良いと思う。しかし、具体的にはどうするんだい? 俺はもうフィオナを呼び捨てにしているし、話し方も敬語というわけではないからな……」
「クレスさんはいいんです! 自然体のクレスさんで大丈夫なんです! なので、わ、わたしの方がクレスさんの呼び方を変えてみても良いでしょうかっ!」
「う、うん。そうか。わかった、任せるよ」
なんだかそわそわしているフィオナは、何度か深呼吸をおして心を落ち着けている。対するクレスは、彼女から一体どんな呼ばれ方をするのか静かに待っていた。
やがて、フィオナが上目遣いにそっと口を開く。
「……あ、『あなた』」
――静寂。
訪れた沈黙の中で、フィオナの顔が一気に紅潮を始めた。そして耐えきれずに言葉を発する。
「あ、と、と、突然ごめんなさい! この呼び方はおば様がおじ様にしていて、憧れがありましてっ! けどそのっ、な、なんだかこれだけで恥ずかしいですね! 胸がドキドキしてきてしまって、わ、わたしにはまだ早かったかもしれま――ひゃっ!?」
そのとき、クレスが突然フィオナのことを抱きしめた。
短い声を上げて驚いたフィオナは、「え? えっ?」と多少動揺した様子である。
フィオナを抱いていたクレスはハッとなってフィオナから身を離す。そして彼にしては珍しく、こちらも動揺したような顔をしていた。
「こ、こちらこそ突然すまない。その、なんだか無性にフィオナのことを抱きしめたくなったんだ」
「え、え?」
「いつも君に名前を呼んでもらえると安心するが、今のは、いつもと少し違う感覚で……。こう、気持ちが昂ぶる感じがした」
「ほ、本当ですか? 嫌ではなかったですか?」
「ああ、もちろん。不思議なものだね。呼び方一つでこうなるのか……。うーむ、夫婦とは奥深いものだ……」
また真剣に考え始めるクレス。
そんな彼の言葉に、フィオナの表情が明るくなる。
今度は、フィオナからクレスに抱きついた。
「ん、フィオナ?」
「えへへ……。それではわたしも、たまには、こう呼んでもいいでしょうか」
フィオナはクレスの耳元に口を近づけると、ささやくように呼んだ。
「――あ・な・た♥」
その艶っぽい声を聞いたクレスは、またぎゅっとフィオナのことを抱きしめる。
それからも、二人はしばらくの間その場で抱き合っていた。
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