♯209 ごはんにする? お風呂にする? それとも――
――クレスとフィオナの家。
最近の増築に伴い新しく生まれ変わったピカピカのキッチンでは、エプロン姿のフィオナが鼻歌を口ずさみながら夕飯の調理に精を出していた。後ろで結ばれた長い銀髪が、まるで馬の尻尾のようにふりふりと揺れている。
「お店のメニューも決まって、正式な許可も得られそうだし……ふふっ、クレスさんといられる時間が増えるのは嬉しいなぁ」
ウキウキな独り言が漏れてしまうほど、フィオナの心は弾んでいた。足取りは軽く、野菜を刻む包丁さばきは華麗である。メインのステーキやサラダが完成したところで、スープを煮込んでいた鍋をチェックし、最後の味見をする。
「――うん、ばっちり!」
抜群の味と栄養を兼ね備えたフィオナの夕食は、もちろんクレスの身体を考えてのものである。
フィオナは可能な限り毎日メニューを変えて手料理をするが、それが苦になることはない。クレスの健康を維持管理出来ることは嬉しいし、いつもどんな料理でも美味しそうに平らげてくれるクレスを見ると、これ以上ない幸福を感じられるからだ。
元々、幼い頃からベルッチの家でもずっと料理を習ってきたフィオナだが、その理由は将来クレスとの生活を夢見ての健気な花嫁修業というのが一つ。そして料理は魔術の勉強にもなるというのがもう一つだ。
料理とは、様々な食材を用いて同時に多くの工程をこなす必要がある。それらは複雑で細かなコントロールとイマジネーションを要する魔術と似たところがあり、特にいくつもの術を同時に操る『マルチキャスト』には必須の能力である。ベルッチの義母からの教えであるが、料理を習っていて本当に良かったと心から義母に感謝している。
そんなフィオナはお玉でスープを混ぜながらつぶやく。
「クレスさん、まだかな? 教会の審査は厳しいみたいだから、時間が掛かっているのかも……。帰ってきたらすぐに食べられるように用意しておかなきゃ。もうお風呂の方も準備出来ているから、あとは……」
フィオナの視線が――自然とベッドの方へ向く。
その頬が、ぽうっと赤くなっていった。
「……そ、そういえば、前に、ソフィアちゃんが……」
ある日の記憶を思い起こすフィオナ。
聖女ソフィアと会うたびに、彼女はいろんな事を尋ねてくる。特に二人が姉妹として顔を合わせることが出来るようになってからはそれが顕著だ。特に夫婦生活についての質問が多く、フィオナはどこまで話していいものか困ることも多いが、逆にソフィアから多くのアドバイスを受けることも多い。聖都に暮らす夫婦たちの縁を結んできた聖女だからこそ、たくさんの夫婦の内情というものを知っているらしいのだ。
そんなソフィアから、フィオナはある重要な情報を得ていた――。
『あのねフィオナちゃんっ、真面目な男性っていうのはなかなか自分から求めてくれないんだって! つまり待っているんだよ! だからね、そういうときはこうするといいんだってっ。あのね、お家で帰りを待っててね、それで…………ごにょごにょ…………』
『…………ええっ!? そ、そんなこと言って、はしたなく思われないかな……?』
『だいじょーぶ! 愛するお嫁さんからそんなこと言われたらもうすっごい元気になっちゃうらしいよ! あとねあとね、マンネリしないように格好を変えるのもいいんだって! よしフィオナちゃんっ、今度セリーヌさんにお願いして、ちょっとエッチな服いっぱい作ってもらお!』
『は、恥ずかしいからそれはやめて~~~!』
回想を終えたフィオナは、ごく、と息を呑む。
今までにもチャンスはあった。
しかし、勇気が出なかった。乙女の羞恥がストップをかけていた。
けれど。
もしも本当にクレスが喜んでくれるのなら。
「…………れ、練習だけ、なら……!」
フィオナはお玉を持ったままそわそわとし始めて、逆の手でエプロンをきゅっと掴みながら、玄関の方を見てつぶやく。
「――ク、クレスさん、おかえりなさい。あのっ、夕食の支度は出来ていて、お風呂も準備は終わっているんですが、ど、どう……しますか? 夕食からにしますか? お風呂にしますか? そ、それとも、その……」
フィオナはゆっくりとエプロンの裾をたくし上げていく。白い太股が晒され、さらにその奥の新しい下着までもが露わになって――。
「わ、わたしに…………します、か…………?」
上目遣いでつぶやく顔は、もう瞳がうるうると潤んでいた。
すぐに、顔中がかぁーっと真っ赤に染まる。
フィオナは「うううぅ~~~~!」と悶えるような声を上げながらエプロンを素早く戻し、その場にしゃがみ込むと、両手を頬に当てた。当然ながら、顔中が熱くなっている。
「だ、だめぇっ、やっぱり、こんなこと言えないよぉ。ま、まるで、欲しがってる……みたい……。……うう。わ、わたし、最近、そういうことばっかり、考えてるような……」
フィオナは自覚していた。
最近、ちょっと“そう”なのである。
セシリアに貰った精力剤の影響かもしれないが、そうではないかもしれない。そもそもフィオナはクレスと結婚するに当たって、もちろん“そういうこと”をする覚悟はしていたが、それはクレスの子を授かりたいという純粋な妻としての願いであった。だからどこか神聖な気持ちで事に臨んでいた。里帰りを兼ねたあの新婚旅行中は、特にそういう気持ちが強かった。
しかし今は、ちょっぴり違う。
クレスやレナと一緒に将来のことを考えて、『ママ活』を始めて、ちゃんと子作りをするのはもう少し後にすると決めている。ならば今、“そういうこと”を頑張る必要はないはずだった。
だが。
別に頑張ってもいいのである!
ソフィアたちも言っていた。夫婦なら何もおかしいことはない。むしろ新婚なら当たり前のことだ。それに『ブライド
などと頭の中でいろいろな言い訳を考えては自分を正当化するフィオナだが、彼女はとうに気付いてしまっていた。
「う、うう……わ、わ、わたしっ…………!」
――そう。
今のフィオナにあるものは、純粋な欲である。
ただ単純に、大好きな人とそういうことがしたいだけなのである。
「うううううぅぅぅ~~~~~~!!」
さらに両手で顔を覆うフィオナ。もはや耳まで真っ赤になっていた。
いけないとはわかっていても、頭の中で勝手に事が進む。帰ってきたクレスが自分の望む返事をしてくれる未来を妄想してしまった。こういうことはしばしばあるのだが、そのたびにフィオナは理性で自分を戒めつつも、加速するバラ色のイマジネーションに身を任せて頬を緩ませてしまうのだ。どれだけ大人ぶろうとしても、彼女はまだ年頃の乙女である。
――そんなとき、不意に開いた扉の向こうから妄想と同じ夫の顔が見えた。
「ひゃっ!? ――あっ、お、おおおかえりなさいクレスさんっ!」
本物の登場に思わず声を上げたフィオナは背筋を伸ばして立ち上がると、顔の火照りに気付かれないよう祈りながら慌ててそちらへと駆け寄る。もちろん、先ほどのような大胆なお迎え台詞を言えるはずはなかった。
「ただいまフィオナ。ごめん、予定より遅くなってしまった」
「だ、大丈夫ですよ! 少し心配でしたが、たくさんお料理を作って待っていたんです。つい先ほど夕食が出来たばかりですから、温かいうちに是非――え?」
クレスの荷物を受け取ったフィオナが、その大きな目をパチパチとさせる。
愛しの夫――クレスの後ろから、ひょいっと見知った後輩の姿が現れたのだ。
呆然としたフィオナの視線を受けて、クレスがこほんと咳払いをしてから隣の少女の背に手を添えた。
「フィオナ。実はリズリットさんの――いや、『リズ』のお兄ちゃんになることになったんだ」
「えっ?」
フィオナの視線が、クレスから見知った後輩――リズリットの方へ移る。
リズリットは落ち着かないようにそわそわしながら、フィオナに向けてつぶやいた。
「こ、こ、こんばんは、です、フィオナ先輩。あ、あの、クレスさんが、お兄ちゃんに、な、なって、くれちゃいました……です」
――ポカーン。
フィオナはしばらく言葉を失い、それから右手に持ったままのお玉に目を移し、またクレスとリズリットに視線を彷徨わせ、やがて叫んだ。
「つまりどういうことですかーー!?」
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