♯158 母と娘
――だが、結果は無念なものだった。
やはり誰もフィオナに応えてくれる者はおらず、体力的に、何より精神的に大きな徒労ばかりが残る。途中濡れた身体を拭くために民家でタオルを借りようとしたのだが、それにすら触れることが出来なかったのはショックだった。
さすがにちょっぴり参ってしまったフィオナは、乾くどころか汗でさらに肌へと張り付いてくるびしょ濡れの服をうらめしそうに見下ろす。へくちゅっ、と可愛らしいくしゃみが出た。
「うう……ど、どうせ誰もわたしのことになんて気付かないんです…………それなら!」
キッと凜々しく眉尻を上げたフィオナは、なんとその場で着ていた服を脱ぎだし、あっという間に下着姿になってしまった。それでもやはり、誰もフィオナの方には視線を向けない。
フィオナは脱いだ服を前に抱えて、つい太股を擦り合わせた。
「見られてないのはわかってるけど……や、やっぱりすごく恥ずかしいよぅ~……! でもこれで動きやすくなったから、もっといろいろ探してみよう。きっと、クレスさんはわたしのことを心配してくれているから、少しでも早く戻らなきゃ!」
こうしてフィオナは大胆にも下着姿でエルフの里を走り回るのだった。
そんなうちに、フィオナはある一軒の民家の前で立ち止まることとなった。
『おいで~フィオナ!』
家の中からそんな声が聞こえてきたからである。さすがに「えっ!?」と背筋が伸びるほどびっくりしてしまった。
もしかしたら誰か自分を認識出来る者がいたのかもしれない。やっと見つけた貴重なチャンスにフィオナは目を輝かせ、下着姿であることも忘れてそちらへと駆け寄った。
「お、お邪魔します……!」
一応断りを入れてから玄関の扉を開けるフィオナ。
そして中へ足を踏み入れると――
『お~すごいすごい! そうそう! その調子だよフィオナ~~~!』
そこでは、一人の女性が赤ちゃんに向けてリズミカルに手を叩いていた。
四つん這いでペタペタと進む赤ん坊が女性の前までやってくると、女性はすぐにその子を抱きかかえて頬ずりし、さらに頬へキスをした。
『よくできまちた~! もうハイハイ出来るなんてすごいでちゅね~! ああ~やっぱりフィオナは天才なんだわ! さすがわたしの子だよ~! もっとチューしちゃおー!』
チュ、チュ、と何度もキスをする女性。赤ちゃんはそのたびにケラケラと笑う。なんとも微笑ましい母と子の家族風景だった。
「『フィオナ』……って…………え……? ひょ、ひょっとして……!」
どうやらあの女性に呼ばれていたのは自分ではなく、あの幼子であったらしい。
自分と同じ名前の、銀髪の赤子。
自分の名前を呼ぶ、銀髪の女性。
フィオナには確信があった。
目と耳が、心が覚えている。
間違いない。
あの女性は――
「……ママっ!」
そちらへと駆け寄るフィオナ。
「ママ! わたしだよ! フィオナだよ! ママっ!」
見間違いではなかった。フィオナの記憶の中の母よりも幾分か若いはずだが、それでも間違いなく彼女はフィオナの母――『イリア・リンドブルーム』その人である。
だが、やはりイリアはこちらを見てはくれない。何のリアクションもしてはくれない。赤ちゃんに夢中で、フィオナを認識してはくれない。
フィオナが今も手に持っているそのペンダントと同じものを首に着けている女性は、幸せそうな笑顔で赤ちゃんと向き合う。
「……お母さん……」
フィオナの声は届かない。伸ばした手も空を切る。
胸元でキュッと手を握るフィオナ。
目の前にいるのに。もう一度会いたかった母と再会出来たのに。話すことも、触れることも叶わなかった。あまりのもどかしさに、フィオナの瞳が潤み出す。
そんなとき――
『うん? なぁに? あ、ママのおっぱいが欲しいんだね。ハイハイ待っててね~。栄養いっぱいあげるからね~。ママみたいに大きくなるのよ~』
その場で赤ちゃんに授乳を始める女性。その間も、女性はニコニコと本当に嬉しそうな顔をしていた。
『んもぉ~、フィオナったらなんてカワイイんだろう! ママの母性が弾けちゃうよ~! ハァ、やっぱりこっちに戻ってきて正解だったかも。子どもは自然の中で育てるのが一番よね。きっとわたしに似た要領の良い美人になるわ~! おっぱいもおっきくなれなれ! そこめっちゃ大事だからね~!』
陽気にテンション高めな独り言を発する女性。
そんな女性の姿に――フィオナはふっと笑顔を取り戻すことが出来た。
この女性は、間違いなく自分の母である。
それがわかっただけで、心が明るくなれた。落ち着くことが出来た。
「うふふっ……そっか。お母さん、何も変わらないんだ……」
それからフィオナは一度自分の胸元を見下ろした後、必死に女性の胸へと吸い付く赤ちゃんの方を見た。
あの子は、きっと自分自身だ。胸の下に見える小さなほくろも証拠であるし、何より、感覚的に自分で自分が理解出来る。それはなんとも不思議な感覚だったが、こんな場面を見ることが出来たのは貴重だと思えた。
そして赤ちゃんの自分がいるということは、この世界はクレスと過ごしていたあの世界ではない。おそらく、過去の世界なのだろう。
「わたしは……お母さんの魔術で過去の世界へ飛んだ。うぅん、過去の記憶の世界……なの、かな? たぶん、そういうことだよね。だから、“
十分にミルクを飲んだ赤ちゃんは満足したのか、そのまま女性の腕の中でスヤスヤと眠り始めた。女性は、そんな赤ちゃんの顔を愛おしそうに撫でる。
『……できれば、あの子も一緒に連れてきたかったけどね……。ん、悩んでても仕方ない! あっちにはミネットがいてくれるんだし、また会いに行けるでしょ! そもそも初めからそういう約束だったんだから、納得済みでしょわたし! 今はフィオナをちゃんと育てる! そのために聖都を出てきたんだからね!』
そんな女性の言葉に、フィオナは「え?」と声を漏らした。
「聖都を出てきた……? お母さん、若い頃は聖都で暮らしていたのかな? それに……『ミネット』って、確か、ソフィアちゃんのお母さん――前代聖女様のお名前じゃ……」
気になることが次々に浮かんでくる。しかし直接答えを訊くことは出来ない。
女性は眠る赤ちゃんを抱きかかえながら、目を細めてささやく。
『フィオナ。あなたには、わたしの全部を教えてあげる。だからフィオナ、あなたはいつかあの子に――可愛い妹に、わたしのことを教えてあげてね』
「え――」
今、母はなんと言ったのか。
――妹?
そんなことは初耳である。
フィオナはずっと一人っ子として育ってきた。母や父、祖母からもそんな話は一度たりとも聞いた覚えはない。フィオナは我が耳を疑い、戸惑った。
イリアは赤ちゃんのフィオナと指切りをしながら言う。
『このまじないが、きっとあなたを助けてくれる。忘れないでね、フィオナ。困ったときにはいつも思い出して』
続く母の言葉はわかっていた。
だからフィオナは、過去の母と共に自然とそのまじないを口にしていた。
『――
すると、フィオナの持つペンダントが魔力の光を灯す。光は強くなり、フィオナの全身を覆うほどになっていった。手紙に吸い込まれたときと同じような感覚である。
「あっ……そ、そっか! 忘れちゃってたけど、このまじないがお母さんの掛けた魔術のキーだったんだ! これで転移魔術が発動して――」
そのとき、フィオナは見た。
フィオナが消える寸前。
イリアが――こちらを見ていた。
記憶の世界の若い母が、確かにフィオナを見つめていた。
そして――イリアは柔らかく微笑んだ。
「お母さん……ママっ! ママ――――っ」
フィオナの姿は白い魔力の光に包まれて、消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます