♯157 見知らぬ里


 気付いたとき、フィオナは宙に浮いていた。



「え? ――きゃあああっ!?」



 重力に従い落下。フィオナの悲鳴をかき消すようにドボン、と小さく水しぶきが上がり、彼女の姿が見えなくなる。


 フィオナはすぐに水面から顔を出し、けほけほと咳き込んだ。


「あうっ! な、なに!? 濡れてっ、わたし! ――あ、これ…………あ、温かい……? お、お風呂……?」


 足が着く。立ち上がってみるとそんなに深い湯船ではなく、ちんまりとしたサイズの天然温泉のようであった。どうやらフィオナはこの温泉の真上に出現したらしい。それも大した高度ではなかったようだ。

 周囲を見回す。辺りは深い森に包まれていて、空には太陽が昇っていた。


「ここは……えっと、わたし、確かお母さんの手紙に掛けられていた魔術で……どこかに転移、させられたの、かな? と、とにかく早くクレスさんの元へ戻らなきゃ! えっと、で、でもどうすれば帰れるんだろう……」


 フィオナに転移魔術の心得はない。そもそも空間を移動する高位魔術は相当なレベルの魔術師にしか扱えないし、そのほとんどが先天的な才能を要する。


「お母さんの掛けた魔術なら、危険なことはないと思うけど……まずは、状況を把握しなきゃ。出来れば……ふ、服もなんとかしたいな」


 落ち着きを取り戻したフィオナは、濡れた銀髪をキュッとしぼって水気を取る。見下ろすと当然ながらおめかししてきた服はびしょ濡れで、下着さえうっすら透けてしまっていた。周囲に誰もいないのが救いではあったが、今は羞恥に悶えている場合ではない。


「あ……これ……」


 フィオナの手首に掛かっていたのは、母のペンダント。チェーンが絡まっていたようで、手紙に吸い込まれるとき一緒に持ってきてしまったらしい。


 それからフィオナは高い森の木々――その上空に煙が上がっているのを見つけた。


 こんな姿で人と会うのにはためらいがあったが、やはり乙女の恥じらいそんなことを気にしている場合ではなかった。まずは事態を理解して、適切に行動する必要がある。


「お、女は度胸! 『逃げるな、プディ・前を向け、魂を燃やせルファラ・エクレーン』! よし、行きます!」


 フィオナはまじないで自分を励まし、煙の上がっていた方角へ向けて歩き出し、一度くしゅんと小さなくしゃみをする。

 ペンダントが、わずかに光っていた――。



 森の中を歩いたフィオナは、すぐに開けた場所へと出た。

 しかし、すぐ木の影に身を隠す。


「ここは……村?」


 フィオナの前に現れたのは、いくつかの民家と櫓。井戸のようなものもある。それなりに人が交流する姿もあり、小さくも活気のある山中の里のようであった。

 フィオナが驚いたのは、民家の造りが『ラクティス村』のそれと非常に似ていたこと。さらに村の中心部にあの『ファティマ』の大木がある。何よりもびっくりしたのは、人々の耳が少し尖っていたこと。それはエルフ族特有の特徴でもある。例えばフィオナが出会った薬師のセシリアがそうだった。


「エルフの村……なのかな? どこの国かもわからないけど、たぶん、危険な人たちではない……よね」


 フィオナの主観ではあるが、彼女にはそう感じられた。どこか牧歌的で穏やかなこの村には闘争の気配が感じられない。そもそも、実の母親が娘を危険な場所へ送ることはないだろうと思ったのだ。


 それに……なぜだかフィオナは、ここの空気に懐かしい匂いを感じた。

 見知らぬ景色のはずなのに、不思議と心が落ち着く。

 だから冷静になって物事を考えることが出来た。まずは情報収集が先決である。


 そこでフィオナは気付く。どうしてか、この村には女性の姿しか見られない。もしかしたら男性は出払っているのかもしれないが、それは今のフィオナにとって都合が良かった。


「よ、よし! 声を掛けてみよう!」


 意を決したフィオナは木の影から抜け出し、村へと足を踏み入れた。

 そしてフィオナは、井戸で水を汲もうとしていた最も身近な若い女性に声を掛けてみる。優しそうな顔をしていたのが決め手だ。


「あ、あの……すみません!」


 だが――女性は何の反応も示さない。


「……? あの、すみませんっ! す、少しお話を……! あのっ!」


 とても声が聞こえていないとは思えない近距離である。そもそもすぐそばにフィオナが近づいてきたというのに、女性はこちらに視線を送ることすらしなかった。


『おーい! 早く水持ってきて~!』

『はーい! もう、焦らせないでよ!』


 遠くからその女性に声が掛けられ、女性は慌てて水を汲み終えると、水桶を持ったままタッタと小走りに去っていってしまった。


「あっ、ま、待ってくださ――!」


 思わず伸ばしたフィオナ。


 しかし女性の腕を掴もうとしたフィオナの手は――そのまま女性をすり抜けた。



「っ!?」



 これには驚いて動きを止めてしまうフィオナ。

 しばらく呆然と立ち尽くしたフィオナは、それからさらに二、三人ほどに声を掛けてみたが、皆が同じノーリアクションである。それはまるで、“フィオナの存在に気付いていない”ように見えた。


「わたしのことが、見えて、ない……? ……うぅん、違う。たぶん、わたしが特殊な状態なんだ」


 村の人々は普通に談笑を続けている。だが自分は誰にも触れられず、声を届けることも出来ない。

 また先ほどは焦っていて気付けなかったが、よくよく見ればフィオナの身体はうっすらと淡い魔力を纏っている。そしてそれはフィオナ自身のものではない。おそらく転送されたときの魔術の影響だと考えられた。

 そんな現状を鑑みて、フィオナは自分が特殊な状態にいるであろうことを察した。自分の存在に気付いてもらえないのも、そこに原因があるのだろうと。


「このままじゃどうしようも……と、とにかく、何か情報を探そう……!」


 前を向いたフィオナは、まずは村中を駆け回って片っ端から人に声を掛けてみることにした。

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