♯104 永遠の雪月詩《クリア》

 クレスとフィオナが若さに燃え上がっている最中から、ソフィアがべそをかきながらレポートを書いているときも――ずっと女湯の露天風呂を独り占めし続けている女性がいた。


 実はこの乙女、聖女ソフィア以上の風呂好きである。



《――舞い落ちる結晶が、白き町を照らす。

 ユクトリシャの星に導かれ、

 願いの場所リ・ヴィエラへ辿り着けば、もう独りじゃない》



 岩風呂の縁に腰掛ける彼女はまぶたを閉じ、小さな口を開いて歌声を響かせていた。

 穏やかな表情で、よく伸びる美しい高音が湯気と共に夜空へ昇る。



《銀月に祈り捧げ、悲しみは解けゆく。

 どれほどの刻が満ちても、わたしはここにいるから。

 約束は、朽ちない。

 永遠を誓う雪花、心、白く染めて――》



 情感豊かなア・カペラが、夜闇に切なく吸い込まれる。


 ――雪月詩クリア

 それは、滅びと願いの叙情詩。誓いの歌。


 するとそこで、男女で仕切られた竹柵の向こうからパチパチと拍手が聞こえてきた。


 歌っていた女性――エステルは長いまつげのまぶたを開いて眉尻を立て、不快感をあらわにした。ほんのりと頬が赤らんでいる。



『いやぁイイ歌だったなァ。惚れ惚れしたぜ』


「……気配まで消して、悪趣味ね」



 柵の向こうから聞こえる旅仲間の笑い声に、エステルがため息をもらす。予想通り、一番聴かれたくない相手だったからだ。


『お前が気分良さそうだったんで邪魔しねーようにしてたんだよ。つーかひっさしぶりに聴いたが、お前、やっぱ歌上手いじゃねぇか。聖女サマみたいに客取れるレベルだろ。普段からもっと歌ってくれや』

「うるさい。盗み聞きは斬首刑よ」

『いくらなんでもひどすぎねぇ!? 酒一杯奢ってやっから許せよ、な?』

「…………はぁ」


 再びため息をつく。普段からヴァーンの前で歌うこともそうなかったし、今後もそのつもりはない。そもそも、今のは誰かに聴かせるための歌ではない。

 深夜の貸し切り風呂という珍しい状況に浮かれ、エステルは己の気の緩みを恨んだ。


「貴方、そもそも寝ているんじゃなかったの。なぜそっちにいるのかしら」

『ああ、そのつもりだったが、どうやら聖女サマとのバトルでかなり熱くなっちまってたようでなー。目が冴えて寝付けねぇんだよ。んで、せっかくだからちょっと外を走ってから深夜の風呂に来たらお前が歌ってたからよ』

「くっ……気付けなかったなんて不覚だわ……」

『それだけ楽しんでたってこったろ。そもそもお前、いつから入ってんだよ。相変わらず風呂好きぶりもヤベーな。ふやけんぞ』

「どうでもいいでしょう。それより、今度私の歌を勝手に聴いたらその耳の穴に小さな氷の粒を一つずつ詰め込んでいくわよ」

『やめろや!! てめぇマジでさらっと怖えこと言うよな!』


 本気で嫌がる声に多少の溜飲を下げるエステル。


 彼女はクレスたちと部屋の前で別れてからずっと一人で女湯を満喫しており、その時間は通常の人間ならばとうに湯あたりして倒れているほどである。それが可能なのは、彼女自身が氷結の魔力で体内環境をコントロールしているためだ。

 こうして長時間一人で湯に浸かりながら歌うこと。それはエステルの一番のストレス解消法だ。だから、その時間を邪魔されたくはなかった。


『なぁなぁ。さっきの曲はお前の出身地――『エルンストン』の民謡なんだろ?』

「だったら何」

『いや、歌を聴いて思い出したけどよ、あそこは年中雪が降ってて寒かったが、雰囲気は良い街だったな。それに、何よりも女の子が最高なんだよなァ! みんな肌が白くて綺麗でよ。一日しか滞在出来なかったのが悔しかったんだよな。へへ、お前もあそこに生まれたことに感謝しろや』

「黙れ覗き魔。せっかくの気分が台無しだわ。もう女王様の命令で貴方は今後一切うちに入国禁止よ」

『んな命令出てねーだろ!? つーか今は覗いてねぇよ!』


 男湯で騒ぐヴァーンに、エステルはまたため息をつく。その口元は少しむずむずしていた。


 エステルの故郷――『女王国エルンストン』は代々特異なルーン魔術を受け継ぐ『魔女』が治める女系国家であり、一年中雪が降ることで有名な美しい北国だ。太陽がほとんど出ない独自の天候と、その寒さゆえに肌のきめが細かく、日焼けもない美しい容姿の女性が多い。とりわけ現女王の愛娘――二人の王女は強力な魔力と美貌を併せ持ち、今後さらに国が繁栄するだろうと云われている。


 そこでまた竹柵の向こうから声が掛かる。


『なぁオイ』

「私、一人でのんびりと浸かっていたいのだけれど。これではまるで恋人同士のやりとりみたいで気持ちが悪い。可能なら永遠に黙ってほしいわ」

『無茶言うなや! いやまぁ別に今話すことでもねーけどよ、お前、そろそろ自分がやりたいことやってもいいんじゃねぇの?』

「……?」


 柵の向こうに怪訝な目を向けるエステル。

 ヴァーンは『あ~』としばらく言葉を探して、それから続ける。


『クレスが魔王を倒してからもよ、オレらはなぁなぁで傭兵続けてきたわけだ。稼ぎはそこそこいいが、安定したもんでもねぇ。まぁオレみたいに最強でカッケー無敵の男には戦う道が天職だがよ、お前はそうでもねーだろ』

「……何が言いたいのかしら」

『お前、歌手にでもなればいんじゃね?』


 その言葉に、エステルの目が大きく開かれる。


『昔クレスと旅してるとき、お前言ってたろ。国で友達ダチとよく歌をやってたってよ。ホントはそっちに進みたかったんじゃねぇの?』

「……貴方は本当にくだらないことばかり覚えているわね」

『そうかねぇ。ま、とにかくもう傭兵仕事なんて流行らねーわけだしよ、歌手がダメでもそろそろ落ち着いてもいんじゃね? 性格はともかく、見てくれだけはいいんだから結婚くらいどうとでもなんだろ。いや、あいつら二人見てて思ったんだよな。女には子供を育てるっつー役目もあるしよ』

「まるで、男は子供を育てなくていいみたいな言い方ね。貴方みたいなダメンズが妻一人にすべてを押しつけて外でギャンブルやら女遊びやらで不倫に子作りし放題なのでしょう。これだから亭主関白な男は嫌よ。汚らわしい。今すぐ死んで詫びて」

『なんでだよ!? そこまで言ってねーだろが! お前は想像が突飛すぎんだよ! モテなさすぎて妄想こじらせんな! ったく、これだから冷徹雪女はよ…………ってオオオオイ! お前こっちの湯冷たくしてんだろ! 湯が繋がってるからすぐわかんだぞコラ! 温くなるからやめろ!』

「ふん」


 柵の向こうの声を無視して、不機嫌そうに鼻を鳴らすエステル。

 彼女はそっと自身の喉元に触れて、それから目を伏せた。


「私は、今の自由気ままな生活に満足しているわ。それに、歌手はなろうと思って簡単になれるものじゃない。聖女様だって小さい頃から大変な訓練をなさっているのよ。軽はずみなことを言わないでちょうだい野蛮人」

『へーへーそうかいわかりました。でもよ、しばらくはこの街にいようぜ。そこでいろいろと考えてみりゃいい』

「……どういうつもり?」


 傭兵仕事は根無し草。定住することなくふよふよと世界を漂い続ける。長くても一月か二月ほど街を拠点にする程度のもの。二人はどこかに定住するスタイルではなく、常に世界を旅してきた冒険者だ。ゆえに、ヴァーンの言葉はエステルにとって意外だった。


『いやよ、別に急ぎの仕事があるわけでもねぇし、何よりあいつら放っておけねぇだろ? また何しでかすかわかったもんじゃねぇ。あいつらが落ち着くまで、一年くらいこっちに居着いてもいいんじゃねぇかと思ってな。ガキの顔くらいみてぇもんだろ』

「……貴方、そこまで面倒見の良い性格だったかしら」

『オイオイ、オレはお前みたいなクソじゃじゃ馬女とあの天然ド真面目勇者、他いろいろをまとめてパーティ作ってた偉大な男だぞ。もっと尊敬しろや。んでちっぱいの一つでも揉ませろ』

「そうね。貴方が土下座して号泣しながら全財産を投げ出し一生のお願いと死の覚悟で懇願してきたときくらいは少し考えて、却下するわ」

『却下すんのかいッ! てめぇのちっぱいにそこまでの価値ねぇわ! お前みたいのよりフィオナちゃんみてーな天使巨乳を揉む方がずっと――だからこっちの湯冷やしてくんのやめろやあああああああ! もうほとんど水だぞこっち!』


 男湯の悲鳴を聞きながらほくそ笑むエステル。


 やがて二人の会話が止まり、しばらく経って男湯からざばぁと湯を上がる音が聞こえた。


『んじゃあオレは上がるわ。お前もほどほどにしとかねーと茹で上がんぞー』


 その言葉には何も応えないエステル。

 ヴァーンがペタペタと足音を立てて中に戻ろうとしたとき、エステルが口を開いた。


「――歌は、どこででも歌える。けれど、この旅でしか得られないものは多い。私は、まだ傭兵業を辞めるつもりはないわ」

『おう。そうか』

「それに貴方みたいなケダモノを野放しにするのは世界中の女性に申し訳がないから、もうしばらくは面倒を見てあげる。精々感謝なさい」

『へーへーそいつはどうも。相変わらず可愛くねぇクソ女だぜ。ま、そんなヤツじゃねぇと二人旅で背中を預けたりできねーからな。せいぜいいつまでも可愛げのない女でいてくれや』


 ガラガラと戸を開けてヴァーンが中へ戻っていく。

 ようやく本当に貸しきりとなった湯船で、エステルは深く息を吐いた。


「余計なお世話」


 また、月の下で美しい声が響く。

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