♯76 夢への誘い
緑の濃い森は昼間でも暗く、木々の間からわずかに差し込む光が頼りなく周囲を照らす。足を進めるごとに森の匂いまで濃くなっていき、始めはよく見かけた野生動物たちの気配さえ徐々に消えていった。
初めてここへと訪れるフィオナは、次第に異世界へと足を踏み入れているような不安感を覚えていた。
「うう……な、なんだか暗くて怖いです……。あっ、魔術でたいまつを作れば!」
そう考えたフィオナだったが、すぐにエステルが首を横に振る。
「不可能よ。この森では一切の魔術が使えないの」
「えっ?」
「試してごらんなさい」
そう言われたフィオナは、指先に小さな火を点そうと魔力を練る。
だが、不思議と指先に魔力が集まってこない。
そこで気付く。ここには確かに自然界の豊かな魔力が存在しているが、それらがフィオナの意志に応えてくれない。それどころか、体内の魔力すら外に出すことが出来なかった。こんなことはフィオナにとって初めての経験だった。
「ほ、本当に使えません……。どういうことなんでしょう?」
「結界の影響よ」
「結界、ですか?」
「ええ。アルトメリアのエルフたちは、強大な力を持ちながらもそれを戦に使うことを嫌っていたというわ。だから俗世を離れた場所で、このような特殊な魔術結界を張って暮らしていた。戦う力を持つ者を拒絶するために。この森も、数百年前はアルトメリアたちの住処だったという文献が残っているの。噂では、製薬店の店主もアルトメリアのエルフだというけれど……眉唾かしら」
「ふぇ……そうなんですか……」
ついていくのが精一杯で驚いてばかりのフィオナ。
エステルはクレスの方をチラリと一瞥して言う。
「私も、初めてここに来たときは驚いたものだわ。あのときはクーちゃんがいたからなんとかなったけれど、私と脳みそスライム男だけだったら厳しかったわね」
「オイそこの氷女! 最近のスライム推しやめい! まだ野獣の方がマシじゃ!」
「野獣に失礼だと気付いたのよ。スライムなら同等の知能レベルでしょう」
「ハァァァン!? ケッ! テメェ一人だけはぐれてもしらねーぞ! せいぜい迷いまくって泣き喚けや!」
「貴方こそせいぜい気をつけなさい。骨を拾うつもりはないから」
緊張感なく言い争ういつもの二人に、フィオナは感心していた。ベテランの冒険者である二人には、このくらいのことはなんでもないのだとわかったからだ。
そこで、フィオナと手を繋いでいるクレスが言う。
「大丈夫だよ、フィオナ。もしはぐれても、必ず俺が君を見つける」
「クレスさん……はいっ、ありがとうございます! わたしも、すぐにクレスさんの元へ駆けつけます!」
ヴァーンとエステルとは対照的に仲睦まじい姿を見せる二人。
そんな四人を、いつの間にか前で止まっていた黒猫がじっと無言で眺めていた。
クレスたちも、そのことに気付いて足を止める。
こちらを見つめる黒猫の背後に広がるのは、闇。
行き先などわからない、すべてを吸い込んでしまいそうな森の深い闇だけがそこにあった。
クレスの手に力が入ったことに、フィオナは素早く気付く。
「クレスさん?」
「……やはりこうなるか。気をつけてくれ、フィオナ。この先は迷い込む」
「――え?」、とフィオナが聞き返そうとしたところで。
黒猫が鳴いた。
「――ニャア」
次の瞬間、黒猫の赤い目が妖しく光り、鈴の音を鳴らしてから闇と同化するようにその場から消えていった。
風などなかったはずの森が「ザザザザザ」と葉音を立てて激しく揺れだし、ケンカしていたヴァーン、エステルの表情も締まった。次第に景色がぐにゃりと闇色に歪みだし、フィオナは息を呑む。
「チッ、やっぱ顔パスってわけにはいかねーか。フィオナちゃんなら心配ねぇと思うが、甘い誘いにゃ気ぃつけろよ! つーか顔見知りはサービスしろや!」
「説明する時間がなかったわね。フィオナちゃん、よく聞いて。この森にかけられた魔術結界は人の心を暴き、惑わす。決して自分を見失わず、普段通りの貴女でいればも――――――」
エステルの姿は闇に飲み込まれ、その声は途中で遮断された。
「!? エ、エステルさん! ヴァーンさんっ!」
気付けばヴァーンの姿もどこかへと消えている。
慌てて隣を見やるフィオナ。
ずっと繋がっていたはずのクレスの手さえも闇に溶け込んで消えていた。彼の姿も、既にフィオナの目には見えなくなっている。
「クレスさんっ!? ど、どこですか! クレスさん!」
最後の瞬間に、クレスの声だけが耳に届いた。
「――フィオナ。俺がずっとそばにいる。だから――――」
すぐにその声も聞こえなくなり、フィオナは孤独な闇に取り残された。
「クレスさんっ……クレスさん! クレスさんっ!!」
叫ぶ声も闇に吸収され、音が響くことすらない。
「わ、わたし……もう、はぐれて……っ?」
視界も、音も、何もない暗闇の世界。
しゃがみ込んだフィオナの呼吸が乱れる。耳を押さえ、目を閉じた。
彼女は、闇が苦手だった。
独りでいる暗闇が怖かった。
かつて、あの夜に家族を失った記憶を呼び起こすからである。
「いや、いや……!」
なんとか魔術で火を起こそうとするものの、やはり魔術は使えない。
フィオナは普段から炎系統の魔術を好んで使い、周囲からもそれが得意だと思われているが、彼女は決して炎系統の魔術が得意ではなかった。むしろ、向いている系統は他にある。当然、彼女自身そのことを知っている。
にもかかわらず火をメインに扱うのは、彼女の本能が闇を恐れるから。
しかし、今は必死に学んだ力さえ役に立たない。
そんなフィオナが信じられるものは、たった一つだけだった。
「クレスさん、クレスさん、クレスさん…………!」
――そばにいる。
クレスの声を思い出し、心を保つ。
フィオナは左手に嵌められた指輪を握りしめ、強く願った。
クレスに会いたい、と。
すると、途端にフィオナの視界が明るく開けていった――。
「――え?」
ゆっくりと目を開けると、いつの間にか暗闇は消え去っており、フィオナは先ほどと同じ森の中でしゃがみ込んでいた。
「……戻って、きたの?」
確かな感触のある土に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
だが、周囲には他に誰の姿もなく、フィオナは一人きりだった。静かで、何の音も聞こえない。
そこへ、声が響いた。
「――オナ! フィオナッ!」
間違えるはずもない、愛しい人の声。
「……! クレスさんっ!」
フィオナはすぐに声を返し、彼の名前を呼ぶ。
すると、生い茂る木々の間からガサガサと音を立てて彼が姿を現した。
「クレスさん!」
「ああ、よかった。フィオナ、無事だったかい?」
「は、はいっ! クレスさんもご無事で……よ、よかったです! でも……その身体は?」
呆然とクレスの全身を見渡すフィオナ。
クレスの姿はもう子供のものではなく、いつの間にか以前の大人のそれに戻っている。
「ああ、先に店について薬をもらい、身体を治してからすぐに来たんだ。とにかく、君が無事でよかった」
「あっ、ク、クレスさんっ」
手を広げるクレスが、フィオナを優しく抱擁した。
「良かった……。愛しているよ、フィオナ」
ゆっくりと、身を離す。
クレスが言った。
「あれが、この森が『夢幻の深森』と呼ばれている所以なんだ。立ち入った者の心を利用して惑わす。その方法はさまざまで、苦しい悪夢のようなものあれば、優しい幻想のようなものもある」
「……そう、なんですか」
「だが、もう心配ない。約束通り、俺がそばについている。さぁ、二人で森を抜けよう。これ以上ここに用はない」
「……あの、エステルさんと、ヴァーンさんは?」
「二人なら先に森を出ているはずだ。それよりも、早く二人であの家に戻ろう。そして、いつまでも幸せに過ごしていこう。二人で、永遠に――」
クレスが優しく微笑みかけ、指輪の嵌められた左手でフィオナの手を取り、先の見えない闇の向こうを指差す。
フィオナの足は、動かなかった。
「……フィオナ?」
疑問の声を上げるクレスに、フィオナは言う。
「――あなたは、誰ですか?」
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