♯74 黒猫の営業
風呂を上がった二人は、急いで聖都へ向かうための準備を済ませる。
それから家を出たところで、同時に足が止まった。
「ニャー」
家の前で鳴いたのは、小さな一匹の黒猫。
全身が影のように真っ黒なその猫は、赤い瞳だけが際立って目立っていた。
「わぁ、猫ちゃんです。この辺りで見かけるのは珍しいですね」
フィオナがそばに寄って身体を撫でても、黒猫は動じることなく静かに座っている。
クレスはその猫に近づいて気付いた。
「ん? 君はひょっとして……」
「ニャ」
黒猫は再び鳴いて、トコトコとクレスの前にやってくる。尻尾についている鈴がリンと鳴った。
さらに、猫の首輪にはガラスの小瓶が付けられており、その瓶の中には書簡が入っている。
クレスは大人しい猫の首から小瓶を外し、中の紙を取り出して広げる。
「クレスさん? それは?」
「――予想通りだったな。フィオナも見てごらん」
「はい。……え? これって……広告、ですか?」
クレスがフィオナに見せたのは手紙などではなく、とあるショップの広告チラシ。
そこに載っているのはほとんどが薬の類いであり、薬草やハーブを使った簡単な傷薬から、重い病気のための治療薬、さらには薄毛に効く薬や、
そして、最後には『いつもありがとうございます。面倒な場所にございますが、よろしければ足をお運びください』と手書きで添えられていた。
「やはり、君は彼女の使い魔だったんだね。黒い毛並みと赤い目、その尻尾の鈴で気付いたよ。こうして会うのは久しぶりだ」
「ニャー」
クレスの声に反応するように鳴く黒猫。
「あの。こちらのお店は、クレスさんが知っている方のお店なんですか?」
「ああ。とある深い森の奥で営む薬の店でね。エルフの女性がずっと一人で切り盛りしているんだ。昔、冒険中に世話になったことがある。確かな腕をしていたよ」
「そ、そうなんですか」
「彼女は森からまったく出ない。そこで使い魔に試供品や広告を持たせて、店を宣伝しているらしいんだ。お得意様のところにだけこうして使い魔が来てくれるらしくてね。フィオナがここへやってくる前にも、一度来てくれたことがあるんだよ」
「ふぁ……知りませんでした……」
広告を見ながら目をパチパチさせているフィオナ。猫の使い魔が営業活動をしていることはもちろん、そういった方法で商売を営んでいる人物がいることに驚いているようだった。
そこでフィオナが「あっ」と声を上げる。
「クレスさん! あのっ、こちらのお店にクレスさんの身体を元に戻せる薬はないでしょうかっ?」
「え? ……ああ、考えてもみなかったが、ひょっとしたらあるかもしれないな。彼女は、身体の不調なら大概は治せると言っていたし……」
「でしたら、是非行ってみませんかっ? 今は手がかりも他にないですし、クレスさんもその身体のままでは生活が大変でしょうし、お仕事も……ほ、他のことだっていろいろ困りますよね?」
フィオナの提案に、クレスはほとんど悩むこともなくうなずいた。
「――うん、確かにそうだな。辿り着くにはとても難しい店なのだが、フィオナなら大丈夫だろう。よし、急いで旅の支度をしよう。俺は正確な店の場所を覚えていないが、エステルならきっと覚えてくれているはずだ」
「は、はい!」
そのまま家の中に引き返そうとする二人。
フィオナは一度振り返って言った。
「黒猫さん、ありがとうございます! 気をつけてかえ――あ」
だが、声を掛けたときにはもう黒猫の姿は消えていた。
◇◆◇◆◇◆◇
――聖都の正門前。
早朝から行商たちが行き交う賑やかなその場所で、ヴァーンが露店商から買った串焼きを朝食代わりに頬張っていた。既に旅支度は済んでおり、後は出発するだけだ。
「んぐんぐ………………ああああっ! おっせええええええええええええええ!!」
堪えきれずに叫び出すヴァーン。
唐突な大声に周囲の都民や商人らが仰天し、エステルが耳を塞いだ。
「あいつらどんだけ待たせんだよ!? さては夜遅くまでイチャイチャしてやがったな! そんでもって朝から乳繰り合って遅れてんだろ! これだから覚えたてのカップルはよぉ! ぶっ飛ばすぞチクショウ!」
「朝から不快になる声はやめてちょうだい。……それにしても、あの真面目な二人がこれだけ時間に遅れるのは妙ね。何かあったのかしら」
手元の懐中時計を見つめてつぶやくエステル。
この時代において懐中時計は大変貴重な高級品であり、所持出来るのは王族や貴族ばかり。一般人は太陽の傾きや、聖城や教会の鐘の音を時計代わりにすることが普通だ。かつてはアカデミーの塔に魔術を用いた大型の針時計が備えられていたが、建築中の今は使えない。
ヴァーンが乱暴に五本目の串焼きを食べ終えたタイミングで、ようやくその二人が姿を現した。
「――エステルさん! ヴァーンさん! おはようございます! お、遅れてしまってごめんなさいっ!」
「すまない、二人とも!」
パタパタと手を繋いで走ってきた少女と子供は、荒くなっていた呼吸を整える。
ヴァーンとエステルは、互いに顔を見合わせた。
それから、ヴァーンが持っていた串で子供の方を差す。
「お、おい。なんだよそのガキは」
「まぁ。なんだかクーちゃんに似ているわね。ひょっとして……?」
二人の視線が向くのは、フィオナと手を繋いだ小さな子供。
ヴァーンがバキッと串をへし折って言った。
「オイオイオォォォォォイ! てめぇらとっくにやることやってんじゃねーかァァァ! そのガキいくつだよ!? クレスのヤロウ、どんだけ早くに手ぇ出してんだァァァァァン!?」
「へっ? ――あ、ち、ちちち違いますっ! わ、わたしとクレスさんの子供ではなくてっ、こ、この人はっ」
吠えるヴァーンに、赤面してバタバタと手を振るフィオナ。
そこで騒がしいヴァーンの頭部に大きな氷塊が落下してきて、ゴン、とにぶい音を立てた。その衝撃にヴァーンが頭を抱えて悶える。
「いてぇなボケぇぇぇ!? なにすんだゴラァッ!」
「頭を冷やしなさい脳みそぷよぷよスライム男。どうみてもこの子は十歳程度の年齢でしょう。十五のフィオナちゃんが産めるはずないわ。せいぜい姉弟がいいところよ」
「ンンッ!? ――ああ、言われてみりゃそうか!」
痛みなどあっさり忘れ、納得したようにポンと手を叩くヴァーン。
それからすぐに気付いた。
「オイ待てよ。んじゃあそのクレスに似てるガキは……」
ヴァーンの視線が向く。
屈んでいたエステルは、その子供と目を合わせて言った。
「どうやら、また厄介なことになっているみたいね、クーちゃん」
「ああ。驚かせてしまってすまない。ヴァーン。エステル」
子供――クレスの返答に、ヴァーンが「マジか」と目を丸くした。
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