♯69 はじめての


 小屋の中には、温かな湯気が満ちていた。

 クレスが一人で住んでいた頃は簡素な作りだったこの風呂小屋と設備は、フィオナが来たことで一新。今は小屋そのものがしっかりと補強され、浴槽の広さも増した。以前、町で買い物に行ったときに風呂用の道具なども購入していたため、なかなかに快適な入浴環境となっている。

 

 木製の風呂椅子に座っているクレスは、そんな場所でフィオナに身体を洗ってもらっていた。


「クレスさん、痛くないですか? かゆいところはないですか?」

「大丈夫だよ。ありがとう」

「えへへ。よかったです」


 フィオナは泡立てたタオルを持ったまま嬉しそうに微笑み、優しくクレスの背中をこすってくれる。

 艶やかな銀髪をアップにしてまとめているフィオナは、その身体に薄いタオルを一枚巻いくのみの姿である。

 以前一緒に入ったときは、ここまでしてもらうことはなかったが、夫婦になった以上これくらいのことはさせてほしいと、フィオナの方から願い出たのだ。


 せっせと奉仕を続ける彼女はご機嫌な笑顔で、鼻歌すら漏れるほどである。

 

「ずいぶん楽しそうだね、フィオナ」

「はい、楽しいです! やっとお嫁さんになれたから、なんでもしてあげたくて……これからはもっと積極的になろうって思うんですっ。だから、してほしいことがあったら言ってくださいね! お嫁さん活動がんばります!」

「そ、そうか」


 楽しくも真剣な彼女に、何も言えなくなってしまうクレス。

 その後も各部位を洗ってもらうたびに、クレスの顔に、手や足に、フィオナの滑らかな肌が自然と密着する。特に、タオル越しの大変に豊かな感触が何度もクレスの身体に触れた。


 やがて、クレスは言った。

 

「……フィオナ。少し、やめてくれないか」

「え?」


 その低い声に、懸命だったフィオナの手がぴたりと止まる。

 ようやく落ち着いたフィオナはひどく慌てた。


「ご、ごめんなさいクレスさんっ! わたしに身体を洗われるのは嫌でしたか? 痛かったですか? な、なにか怒らせてしまったでしょうか? あの、わ、わたし――」


 おろおろするフィオナに、クレスは首を横に振る。


「いや、違うんだ」

「え? ……ク、クレスさん?」

「すまない。そういうことではなく……」


 様子のおかしいクレスに、フィオナは眉尻を下げて心配そうな表情を浮かべる。

 すると、クレスは視線を逸らしながらこう言った。


「……我慢が、できなくなりそうなんだ」

「……え?」

「君があまりに綺麗で、魅力的で、そんな姿でこうも無防備に密着されていると、好き勝手に触れてしまいそうになる。自分が、抑えられなくなりそうなんだ」


 正直に告げたクレスに対して。


「…………クレス、さん……」


 フィオナは、目をパチパチとさせて呆然としていた。

 それから彼女は、だらしなく表情を崩してへにゃ~と笑った。


「え、えへへ……えへへへへぇ」

「ん? フィ、フィオナどうした?」


 今度はフィオナの様子がおかしくなったことで、クレスの方が困惑する。

 頬に手を当てていたフィオナは、目元を軽く拭ってから笑った。


「よかったぁ……本当に、よかったです」

「フィオナ? よかったとは……?」


 なぜ突然に喜びだしたのか。

 要領を得ないクレスに、フィオナは話す。


「クレスさんは、とっても真面目な人だから……わたしみたいな子の身体には、興味がないんじゃないかなって……。いくら成人の資格を得ていても、わたしじゃ、まだ手を出してくれるような魅力がないのかなって、そう、思ってしまうことがあって……」

「フィオナ……」

「えへへ……だから、とっても嬉しいんです」


 そう言ったフィオナは、クレスの手を取り、それを自分の胸に押し当てた。

 タオルの上からではあるが、柔らかく、弾力のある瑞々しい感触がクレスの頭にぴりぴりと響く。


「んっ……す、好き勝手に……触ってくれて、いいんですよ?」


 クレスの手が、フィオナの胸にさらに深く沈む。


「わたしたち、もう、夫婦なんです……。こうして、もっと、触れ合ってもいいんですよ。そ、それに……その……」


 フィオナは真っ赤になりながら、もじもじと恥ずかしそうに言葉を漏らす。


「結婚して、初めての夜……なので。じ、実は、そういう気持ちに、なってほしくて……その、わざと、こういうことを、して、しまいました…………です」


 今にも火を噴きそうなくらい紅潮していくフィオナ。

 いじらしい彼女の姿に、クレスの気持ちがさらに昂ぶる。


「……君に魅力がないはずがない。そんな風に思わせてしまった俺の責任だ。すまない」

「クレスさん……」


 クレスは、フィオナの前髪を手で払ってよくよくその顔を見つめた。


「結婚した実感はないと言ったが、違った。君が、今まで以上に美しく見える。感じられる。君がどれだけ魅力的か、俺がどれだけそう思っているか、ちゃんと行動で伝えられるようにしよう。君が、素敵な女性奥さんである自信を持てるように」


 そう告げたクレスの目を見て――


「……はい!」


 フィオナは、瞳に涙を湛えながら笑った。



 ――こうして風呂から上がった後、寝間着に着替えたクレスとフィオナは、まだ真新しい大きなベッドの上で向かい合って座っていた。どちらも正座である。


「フィオナ」

「は、はい」


 フィオナの肩を掴むクレス。

 どちらかといえば、より緊張した面持ちなのはクレスの方であった。


「知っていると思うが、俺は、こういうことに知識がない。もっとヴァーンに聞いて勉強しておけばよかったと思っているくらいなんだ。ただ、とにかく君を大事にしようと思っている。だから、その……」


 クレスにしては珍しく歯切れの悪い話し方であったが、それだけ彼が真剣であることをフィオナはよく理解していた。


 だからフィオナは、笑顔でクレスの手を優しく握る。


「ふふっ。クレスさんがそういう気持ちになってくれることが、わたし、嬉しいです」

「フィオナ……」

「大丈夫ですよっ。お、奥さんのわたしが教えてあげられますから! ……と言っても、わたしも、は、はじめて……です、けれど…………」


 ぼそぼそと小声になっていくフィオナ。すぐにその赤い顔を上げた。


「で、でも事前に準備はいろいろ済ませていてっ、その、知識だけは人一倍ありますから安心してください! ――ってわたしなに言ってるんだろっ!? あの違います! そ、そういうことばっかり調べていたわけじゃなくて! いつかクレスさんとそういう日が来たらって思って! ほんとですよ!? ご、誤解しないでください~~~!」


 テンパり気味のフィオナがまた面白いくらい真っ赤になっていたが、おかげでクレスもある程度緊張が解ける。彼女がクレスを安堵させるためにそう言ってくれたのはよく理解出来た。どんなときでも、フィオナは常にクレスの手を引いてくれる。

 

「……君は、すごいな」


「ふぇっ?」


 クレスは、今まで誰よりも前を歩いてきた。先頭に立ち続けてきた。

 後ろの人々を守るために。

 勇者として、誰よりも強くあることが大切だと思っていた。


 そんな自分が、すべてを委ねられる相手と出逢えた。

 彼女の後ろを歩くことが、とても心地良かった。

 自分の場所を、見つけられた。


 彼女のおかげで、人生のすべてを肯定出来た。

 自分のことを認められた。


 クレスは、言う。 



「ありがとう、フィオナ。君と出逢えて、俺は幸せになれた」



 そう告げると。

 フィオナの頭部に、ぽんっとクインフォ族のキツネ耳が出現する。


 彼女は涙をためながら微笑んで――思いきりクレスに抱きついてきた。



「もっと、もっとです。まだまだなんです! これからあなたをもっと幸せにできるように――わたし、頑張りますねっ!」



 抱き合い、笑い合う二人。


 既に心が――魂までもが深く繋がっている二人にとって、それからの『はじめて』は何よりも幸福な時間となった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る