♯53 幸せの向こう側
「……フィオナ、どうしたんだっ?」
「え? ……あっ、ち、違うんですっ! これはその」
自分の瞳からこぼれていた涙を拭い、笑顔を浮かべるフィオナ。
「えへへ。わたし、なんて幸せなんだろうって思ってしまって。──あ、クレスさんっ。こっち、とても良い景観ですよ」
フィオナは近くにある小さな石橋を見つけてそちらに駆け寄り、クレスも後を追う。
二人の視界に広がるのは、聖女の住まう城がある丘や、時を刻むアカデミーの塔、そして徐々に魔力灯がつきはじめた街の姿。見上げれば、丸い月が世界を見下ろしている。
フィオナはそれらを愛おしそうに眺めながら、手を合わせて話をする。
「考えてみたら、すごいことですよね! だって、大切な人といつも一緒にいられて、抱きしめてもらえて、キスをしてもらえて……。明日には、結婚式を挙げられて、夫婦になれます。家族に、友人に、みんなに、祝福してもらえています」
「そうだね。君のご両親には、だいぶ叱られたけれど」
「ふふっ、そうですね」
そっと、自分の左頬に触れるフィオナ。
先日、フィオナの両親と改めて会ったとき、当然ながらいろいろと揉めたのである。もちろんそこにはクレスも同席した。
「禁忌の魔術を使い、そのことを隠していた。当然のことです。ベルッチの名を穢してしまったあのときから、わたしは勘当される覚悟をしていました。それでも……最後には、許してもらえました。花嫁姿を楽しみにしていると、そう、言ってもらえました。クレスさんのおかげです」
「俺は一緒にいただけさ。君の想いがご両親にもちゃんと伝わったのだと思う」
そう語ると、フィオナは嬉しそうに微笑んで返した。
「クレスさんは、先ほど奇跡だって言いましたよね。わたしも、今の日々が奇跡だと思っています。クレスさんと、こうして一緒にいられるなんて。毎日が楽しくて、幸せなことしかないんです。こんなに幸せなことが、嬉しくて。でも、いいのかなって思う気持ちもあって……」
「……そうか」
フィオナの切なげな横顔に、クレスは小さく微笑む。
そして、彼女の肩に手を回し、自分の方へと引き寄せた。
「ク、クレスさん?」
二人の心音が、繋がる。
「これはヴァーンではなくエステルから聞いたことなんだが、特に女性は結婚間際になると、なぜだか心がざわついて、不安になってしまうことがあるらしい」
「……不安、ですか?」
「ああ。それは、あまりにも幸福な状況を恐れるものだという。幸せの絶頂を迎えてしまえば、後は不幸になってしまうのではないかと。結婚生活のこと、夫婦間の愛情、子供のこと、考えることはたくさんあって、よくない想像までしてしまうそうだ。もしフィオナがそういうことになれば、俺が励ますようにと言われた」
「幸福を……恐れる……」
エステルに教えられたことをそのまま話したクレスに、少々物憂げな表情を見せるフィオナ。
クレスは言う。
「君はすごいね」
「……え?」
「俺のところにきたときも、キングオーガに立ち向かったときも、一緒に生活を続けていたときも、
「クレスさんでも……怖いことが、あるんですか?」
「もちろん。仲間と一緒だから乗り越えられた。心にいつも母がいたから乗り越えられた。そして今、俺には君がいてくれる。君には、俺がいる」
クレスは、そっとフィオナの髪を撫でる。
柔らかな風に揺れる銀髪は、夕陽を浴びて美しく輝く。
「大丈夫、何も心配は要らない」
クレスは断言した。
「君は幸せになれる。俺がそうする。悲しいことはもう起きない。今以上に君が幸せを感じられるように尽くすよ。それに、ここは頂点じゃない。結婚はゴールではなくスタートだと思う。さらなる幸せがこの先に広がっているはずなんだ。二人でなら、そこへいける。その向こう側にさえ」
「クレスさん……」
「エステルに言われたからじゃない。俺がそうしたいんだ。君が、俺を誰よりも幸せにすると言ってくれたように、俺も、君を誰よりも幸せにする。約束するよ。絶対に忘れない。だからフィオナ、君はいつも笑っていてくれ。もちろん、泣きたいときは泣いてくれていい。泣かせるつもりはないけどね」
フィオナの瞳が、潤んでいく。
それでも彼女は、ぐっと涙を堪えるように笑った。
その笑顔に、もう憂いはない。
「それじゃあ、勝負ですねっ。わたしとクレスさん、どっちが相手のことをより幸せに出来るのか、夫婦の真剣勝負ですっ」
「なるほど、いい勝負だ。俺が勝つとどうなるんだろう?」
「わたしが、たくさん甘やかしてあげますっ」
「フィオナが勝つと?」
「わたしが、たくさん甘やかしちゃいます!」
「勝負がつかないときは?」
「いつまでも、もっともっと、幸せが続きます!」
「それがいいね」
二人は笑い、手を取り合って歩きだす。
「――あ、それからクレスさん」
「ん?」
「昨日、わたしに内緒で、ヴァーンさんと剣の特訓をしていましたよね?」
先行しかけていたクレスの足がぴたりと止まる。
フィオナはニコニコ顔でクレスを見上げた。
「な、なぜそれを……」
「エステルさんから聞きました。またクーちゃんが無茶をしているから、たまには叱ってあげなさいって。キングオーガのときの傷も、ヴァーンさんと戦ったときの怪我も、まだ治りきっていませんよね? 無理はしないって、わたしと約束しましたよね?」
「あ、い、いやあれはだな。その、身体の調子を整えるためというか。休んでばかりでは身体がなまって傷の治りも――」
「ク・レ・ス・さん♥」
「すまなかった。ごめんなさい」
笑顔なのに笑顔に見えないフィオナに、すぐに背筋を伸ばして頭を下げるクレス。
「ただ、今まで君がずっと付きっきりでいてくれたおかげで本当に怪我は良くなっているんだ。だから、式までに調子を取り戻したかった。君の晴れ舞台で、君の家族たちの前で情けない姿を見せるわけにはいかなかったから」
「まぁ……ふふっ、そんなことを考えていたんですね」
「う、うん。君に何も言わなかったのは、心配をかけたくなかったからなんだ。すまない。隠し事にするつもりはなかった。許してください」
大きな身体を折りたたむように頭を下げたまま、すべて正直に話すクレス。
フィオナは、そんなクレスの頭をそっと胸に包む。
「心配なら、たくさんかけてください」
「……え?」
「わたしは、クレスさんのことをもっと考えていたいです。悩むことがあっても、困ることがあってもいいんです。クレスさんの気持ちは嬉しいですけれど、わたしは、迷惑をかけてもらったほうが嬉しいなって思います。わたしの
「フィオナ……」
身を離す。
フィオナは、今度こそ優しい笑顔で微笑んでいた。
「――あ、そ、それともクレスさんは、常にわたしがそばにいるのは嫌でしょうか? さ、さすがにお嫁さんになっても、ずっとそばにいるのは、その、鬱陶しかったりしますか……? も、もしそういうことがあれば結婚前に教えてくださいね!」
「いや、そんなことはない」
「本当ですか?」
「もちろんだ。むしろ、俺の方がそう思っていたよ」
「え?」
「君にも一人になりたい時間はあるだろうからと、俺のためだけに時間を使わせては申し訳ないと思っていたんだ」
「……ひょっとして、それで、ヴァーンさんと?」
「ああ。ヴァーンにも言われていたんだ。お前のお守りばっかさせてないで、たまにはフィオナちゃんにも息抜きさせてやれと」
「……うふふっ! そういうことだったんですね」
おかしそうな笑い声をもらすフィオナ。
彼女は豊かな胸を張って言う。
「では、結婚前にちゃんとお伝えしますね。わたしに、一人になりたい時間はありません!」
「え?」
「もしかしたら、一般的な女性はそうなのかもしれません。けれどわたしは……もう、一人の時間はたくさん使ってきました。だから、これからの時間はずっとあなたと一緒にいたいんです。朝も、昼も、夜も。ほ、本当ならお風呂だって一緒がいいんです! で、でもクレスさんは、そういう女の子ははしたないと思うかなって……」
「……フィオナ。そうか…………」
今度は、クレスの方が笑って言う。
「俺は、君さえいいのならいつでもそばにいてほしいと思っているよ」
「え? じゃ、じゃあお風呂も大丈夫ですか? こ、今晩は一緒に入ってもらえますかっ!?」
「構わないよ」
答えると、フィオナはパァッと顔を輝かせる。
「えへへへ! それじゃあお背中流しますね! いえ、全部洗わせてください! 頭も身体も……クレスさんの全部です!」
「ぜ、全部?」
「はい! いいですか? クレスさんはもう頑張らなくていいんですっ! わたしがお嫁さんになる以上、これでもかってくらい甘やかしますからね! とろとろでふわふわな、幸せな毎日が待っているんですっ! 覚悟してください!」
「か、覚悟……!」
「帰ったら、まずはお風呂で身体を洗ってあげて、栄養いっぱいのごはんを食べさせてあげて、いただいたミルクでデザートも用意してあるから、あとはお酒も……って、わたしは飲めませんけれど。それからそれから、クレスさんの怪我をチェックして、明日の準備をすませて、一緒にベッドに入って、よしよししてあげて、それから………………って! そ、その先はまだダメっ! 明日もあるんだからすぐに眠って……うん、完璧です!」
実に愉しそうに予定を立てるフィオナ。もう明日の緊張や憂いなど、どこかに消えてしまったようだ。
「そうと決まれば早く帰りましょう、クレスさん! 今日は早めに眠らないとですっ!」
「――ああ、そうだね。けど、気持ちが昂ぶって眠れないかもしれないな」
「それならわたし、いい子守歌を知ってます! 小さい頃、お母さんに教えてもらったんですよっ。いつも、すぐにすぅ~って眠れたんです!」
「そうか。それならよく眠れそうだな」
手を繋ぎ合って歩き出す二人。
そうして家に着く前の間、これからについての話を笑いながら続けたのだった。
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