♯52 クレス勉強中

 そんなこんなで予期せぬ乳搾りデートを終えた二人は、セリーヌの洋服店でフィオナのための新しい服を購入しに来店。元々ウェディングドレスの件で打ち合わせをする予定もあったため、ちょうど良かった。


「いらっしゃいませー、ってなんだあなたたちね。待ってたわよー! もうフィオナの可愛さマシマシのウェディングドレスと、お色直しのすごいやつ用意してるわよ! クレスさんにもさらにかっこよく見えちゃうタキシードとフロックコートあるからね! 全部わたしの最高傑作よ! 明日を楽しみに待って――」


 すぐ接客に来てくれたテンションの高いセリーヌだった、話の途中でぴたりと固まる。


「あっ。フィオナ先輩、クレスさん。い、いらっしゃいませ。お待ちしておりまし……た…………」


 変わらず働いているリズリットも後から姿を見せたが、セリーヌと同様に固まる。


「こ、こんにちは。セリーヌさん、リズリット……」


 二人の視線の先にいるのは、全身ミルクまみれのフィオナだ。


 未だに彼女がこのような状況なのは、『聖乳』を汚れとして拭き取るのはよろしくないと、おめでたいことなのだから存分にその幸福ぶりを街中にアピールして帰るべき、という判断が周囲によって下されたからである。彼らがあまりにも嬉しそうであったため、クレスもフィオナも逆らうことはしなかったのだった。


 ただ、下着まで透けている状態でそのまま帰るわけにはいかない。何よりこの店による必要もあった。

 よって、ここに来るまではクレスが自らの上着をかけて彼女の身体を隠していたのだが、フィオナはそんな状態を旧知の学友に目撃されて羞恥していた。


「あ、あの……まずは替えの服を買わせていただいても、いいでしょうか。このままでは、家にも……」


 店を汚さないように入り口の外で立ったまま、苦笑いするフィオナ。


 すると、セリーヌとリズリットがずんずんとクレスの方に詰め寄ってきた。その勢いに思わずのけぞるクレス。


「ちょっとちょっとちょっとぉっ!? クレスさん!? あなた真っ昼間から何してるの!」

「な、何とは?」

「明日に挙式を控えた花嫁になんてことしてんのかって言ってんのっ! こんな、ぜ、全身びしょ濡れになるほど外でナニやってんのよ! てゆーかクレスさんどんだけ体力あるわけ! そゆとこも勇者なの!?」

「そ、そそっ! そういうことはお家の中ですすすするべきだとおもいままままままっ」

「ん? え? んん???」


 なぜか赤面しているセリーヌとリズリットが、一体何のことを言っているのかよくわからないクレス。


「ち、違うんです違いますから~! クレスさんは何も悪くないんです~~~!」


 そこでフィオナが真っ赤になりながら二人を止め、必死に否定してくれたことでなんとか事態は収拾。セリーヌもリズリットもまた早とちりをしてしまったとすぐに謝ってくれたのだが、クレスには最後まで何のことかさっぱり意味がわからなかったのだった……。



 それから濡れタオルで軽く汚れを落としたフィオナが着替え終わったところで、翌日の打ち合わせを確認程度に済ませ、そのまま店を去る二人。

 最後にクレスがもう一度先ほどのことを質問したが、『明日の夜になればわかるかもね!』とセリーヌに謎の予知をされたため、さらに混乱するクレスであった。


「やはり俺はまだまだ修行が足りないな……すまないフィオナ……」

「い、いいんです! クレスさんはそのままでいてください! その……わ、わからないことは、わ、わたしが、教えてあげられると思います……ので……」

「そうか、ありがとう。でも、なぜ式の日の夜にわかるのだろう。フィオナは意味がわかるかい?」

「わ、わわ、わかります……けど……い、言えません……」


 しおしおとうつむいてしまうフィオナ。耳まで赤く染まっている。


「か、隠し事とかではなくて、その、あのっ……と、とにかく! 用事はもう済みましたので、早めに帰りましょう! 明日の準備もしないとです! そ、それに早く身体を洗いたいんですっ!」

「あ、あぁ。そうだね、わかった。……ううん、女心は難しいものだな……」


 そのまま二人で街を歩く。

 道中、ここでも多くの人々に声を掛けられた。


 大人たちは働きながら、子供たちは遊びながら、皆、笑顔で平穏な日常を過ごしている。


 そんな何気ない光景の中で、クレスは、改めて実感していた。


「……奇跡だな」

「え?」


 足を止める二人。

 クレスは、じっくりと眺めるように街中を見つめていた。


「俺は、本気で君と二人だけで生きていく覚悟を決めていたんだ。『勇者クレス』は、君の前にだけいられたらいいと思っていた。けれど、皆は俺のことを受け入れてくれた。力を失って、勇者ではなくなった俺を。皆から逃げていた俺を。こんな日が訪れるなんて、俺は想像もしていなかった」

「クレスさん……」


『勇者クレス』が生きていたという事実は、人々に大きな衝撃を与えた。初めこそいくらかの混乱もあったものの、“聖闘祝祭セレブライオ”ですべてをさらけ出したこと、聖女ソフィアが証人となってくれたこともあり、今のクレスは『クレス』として生きていくことが出来ている。


「君がつけてくれた『グレイス』という名にも馴染んできたところだが……もう、偽りの名を使う必要はない。皆の前で、君の隣で、俺は、母がくれたこの名で生きていける。こんなにも奇跡のような幸せはないと思っているよ。これも、君と会えたおかげだ。ありがとう、フィオナ」

「そ、そんな……わたしなんて、大したことは」

「いいや、すべて君のおかげだよ」

「ひゃわっ」


 クレスのは街中で堂々とフィオナを抱きしめ、彼女の髪を優しく撫でる。


「フィオナのように優しく、美しく、清らかな子を妻に迎えられることが、俺は嬉しい。きっと母も喜んでくれている。一生をかけて君を守る。愛しているよ、フィオナ」


 そのまま、顔を近づけていくクレス。

 周囲から歓声が上がり、黄色い声も飛ぶ。


「え、え、えっ、く、くくくくれすしゃん……!?」


 そんな周りの反応など一切気にしないクレスとは違い、フィオナは赤面して辺りを見回し、それから慌ててクレスの手を取った。


「んっ? フィ、フィオナ?」


 そのまま無言でクレスの手を引っ張ってかけ出すフィオナ。残念そうなブーイングが聞こえる中、二人は郊外の方へと走った。



 人通りの少ないところまでやってきたところで、足を止める二人。

 徐々に暮れ始めた夕陽が街を染めていき、二人に影を落とす。


 フィオナは火照った顔を冷ますように、ゆっくりと深呼吸をして息を整えていた。


「す、すまないフィオナ。急に抱きしめてしまって、迷惑だっただろうか。やはり修行不足だな……」

「えっ?」

「いつも家では君がああして優しく抱きしめてくれるから、俺の方からしても喜んでもらえるかと思ったんだ。ヴァーンからもとにかく女性と接して女心を学べと言われているんだが、やはり俺自身の判断で動くのはまだまだ……」

「あっ、ち、違います! 違うんです! め、迷惑だなんてことはなくてっ」


 ぶんぶんと手を振るフィオナ。

 彼女は、少し気恥ずかしそうに視線を逸らして言う。


「む、むしろクレスさんからしてもらえるのはとっても嬉しいんですっ! わたしのためにたくさん考えてくれるだけで幸せです! えとっ、た、ただ、その……人前では……恥ずか……しくて……」

「恥ずかしい?」


 こくん、と小さくうなずくフィオナ。


「クレスさんと、あ、ああいうことをするのは…………なるべく、その、二人きりのときが……いいなって……。そ、そのときなら、いくらでも……して…………ほしい、です…………かも……なの、で……」

「二人きり……そうか、なるほど!」


 納得した様子で相づちを打つクレス。目から鱗であった。


 そもそも恋愛が初体験どころか、女性の気持ちにも疎いクレスには毎日が勉強の連続である。

 フィオナの夫となる以上、いろいろと学ばなければならないことを自覚しているクレスは、ヴァーンやエステル、セリーヌ、リズリット、そして以前デートを指南してくれたケインとトールたちからも恋愛のいろはを教えてもらっている。先ほどのように、『なんでもないときにこそ愛を確かめ合う行動をしろ』とは、ヴァーンの教えだった。


「なら、今は恥ずかしくないかな?」

「え?」


 周囲を見渡すフィオナ。

 街外れの薄暗いその路地に、他には誰の姿もない。


 フィオナは、上目遣いに小さくうなずいて微笑む。


「よし、じゃあ行くよ」


 わざわざ前置きをしてからフィオナを抱きしめるクレス。

 フィオナもまた、クレスの背中に手を回して密着を深めた。


「……えへへへ。クレスさんのあったかい匂いがします」

「うん、フィオナの匂いがする。あと、やはりミルクの匂いが……」

「あっ……や、やっぱりそうですよね。ごめんなさい! うう、早く洗いたいのですけど、あのっ、く、臭くないですか?」

「いや。君の匂いならどんなものでも好きだよ」

「ふぇっ」


 いつもの直球発言に紅潮していくフィオナ。嬉しいのか恥ずかしいのか、口元をむずむずさせながらも、クレスから離れようとはしなかった。


 しばらくそのまま抱き合っていた二人は、自然と身を離す。


「フィオナ。俺にはまだわからないことが多い。これからも遠慮なく女心を教えてほしい。もっと勉強して、君の隣にいられる恥ずかしくない夫になりたいんだ。してほしいこと、してほしくないことがあったら何でも言ってくれ」

「……ふふっ。クレスさんは、本当に勉強熱心なんですね。とってもとっても良い子です」


 フィオナはおかしそうに微笑んで、指輪の嵌まった左手でクレスの頭を撫でる。今も、こうして彼女が頭を撫でてくれるのは日課だ。


 それから、じっとクレスの目を見つめて言う。


「それでは……一つだけ、ここでわがままを言ってもいいですか?」

「もちろん」

「……キスを、して、もらえませんか?」

「わかった」


 フィオナがつま先を伸ばして、そっと口づけを交わす二人。


 静かな時が流れる。


 唇が離れたとき、クレスは驚いてしまった。


 フィオナの瞳から、涙が出ていたからだ。

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