♯49 聖女の審判

 優しく名前を呼んだクレスは、フィオナの身体を抱きしめた。


 そのまま、耳元でささやく。



「ありがとう。フィオナ」


「…………えっ」



 フィオナが、小さな声を漏らした。


「こうして抱きしめていると、よくわかる。俺の命は、君の命だったんだと」


 二人の鼓動は、重なる。

 トクン、トクンと。

 少しのズレもなく、ぴたりと、胸の奥で命が同調する。


「そしてきっと、俺が持っていた力は君の中にあるんだろう。俺は、それが嬉しいよ」


 そっと身を離し、まばたきも忘れたフィオナの涙をぬぐい取るクレス。


「それだけかい?」

「……え?」

「他に、俺に言えないことはあるかな」

「…………いいえ。何も……ありません……」


 小さく首を横に振るフィオナ。

 クレスは、穏やかに微笑んだ。


「そうか……よかった。安心したよ」

「……あんしん?」

「ああ。俺は少し、怖かったんだ。ひょっとしたら君が、俺を気遣って一緒にいようとしてくれているのではないかと。本当は、俺のことなどなんとも思っていないんじゃないかと。そう言われてしまうのではないかと、少し、怖かった」


 それを聞いて、フィオナはハッと怯えたような顔をすると、必死になって言葉を返した。


「ち、違います! そんなことありませんっ! 確かに、わたしがクレスさんのそばにいなければ、クレスさんは…………で、でも、そんな気遣いなんかしていません! 一緒にいたいから一緒にいたんです!」


 懸命に想いを伝えようとするフィオナの声を、クレスは黙って聞いた。


「あのとき初めてあなたに出逢って、救われて、独りになったわたしは……あなたの力になりたいと、思ったんです。常に前を見ていたあなたの隣で、あなたを支えられるようになりたいって……。あなたがわたしを、皆を守ってくれたように、わたしも誰かを守れる人になりたいってっ。何もないわたしに、あなたが、生きる目的をがくれたんです!」


 震えながら、それでもフィオナはただ正直にすべてを吐露した。


「いつかあなたと一緒に、あなたの隣で……そのことばかり考えている自分に気付いて、わ、わたし……その、わかったんです。わたしはきっと、あ、あなたのことが……クレスさんのことが、す、好きになっていたんだって……」

「……そうか。ありがとう」


 クレスは最後まで穏やかに微笑んだまま、そんなフィオナの話を聞き届けた。


 フィオナは、呆然としていた。 


「……どうして、怒らないんですか?」

「どうして?」

「わたしがクレスさんの立場だったら……きっと、怒ります。どうして、自分のためにそんなことをしたんだって。寿命を奪ってしまうくらいなら、やめてほしいって。その寿命を大切に使って、大切な人と、幸せに、生きてほしかったって!」


 訴えかけるような言葉に、クレスはキョトンとしてしまう。

 それから少し考えるように目を閉じて、納得したようにうなずいた。


「──ああ、うん。そうだね。確かに、そういう気持ちはある。もちろんフィオナの命を奪いたくはなかった。時を戻すことが出来るなら、そのときの俺に会話が出来たなら、きっと俺は止めただろう。――だけど、それだけじゃない」


 クレスが目を開ける。

 その瞳に、フィオナの姿だけが映っていた。


 クレスの手が、フィオナの頬に伸びる。


「俺は感謝しているよ。君のおかげで――フィオナがその命を分けてくれたから、俺は君と再会して、共に暮らせるようになって、結婚を決意して、そして今も、こうして君に触れることが出来る。初めて女性を好きになり、その人と命を分け合えた。俺は、とても幸せだ。君と生きていけるから幸せなんだ。母にも、今の俺を見てほしいと思える」

「……クレス、さん」

「俺は、この命を君のために使う。君を幸せにするために使う。俺たちの魂は一つなんだろう? ならわかるはずだ。俺の気持ちが」

「……どうして、どうして………………だって、だけど…………わたしは……っ……」

「愛する女性に向けるべき怒りなど、俺にはない」


 フィオナの声は弱々しく震え、怯えている。

 クレスはぼろぼろの身体で、それでも笑った。


「心配要らないよ。たとえこの世界が――この世界のすべての人が君を赦さないとしても、君を拒絶しようとも、俺はそばにいる。俺が君を守り続ける。誓うよ」


「…………クレスさん。クレスさん……クレスさん、クレスさん………………」


 フィオナはもう、涙を止める術を知らない。


「だから笑ってくれ。そして、君を守る俺のことを守ってくれ。何も知らない俺を叱り、甘やかしてくれ。俺には君が必要だ。君がいてくれれば、他に何も要らない」


 優しい笑顔を見て、フィオナは涙を溢れさせながら嗚咽を堪えた。

 クレスは、いつも彼女がしてくれるようにフィオナの頭を撫でる。



「君を愛している。そばにいてくれ、フィオナ」



 フィオナは心で理解した。



 自分は──ずっとこの言葉を待っていたのだと。



 世界を敵に回してもいい。

 他のすべてを失っても構わない。


 ――赦された。

 ――この人に、赦された。

 ――すべてを知って、愛していると言ってくれた。


 フィオナにとって、それがすべてだった。


 だからもう、笑える。



「…………はい。はい、はい! わたしも誓います! ずっと、ずっとっ、ずっとあなたのそばにいます!」



 フィオナがクレスの胸に飛び込み、クレスはそれを大きな腕で受け止めた。



 そんな二人の姿を見て──ヴァーンとエステルが最初に動く。


 二人は顔を合わせて、それからクレスとフィオナのそばに近づいた。


「クッソ……ンだああああぁぁぁぁーッ!! なんてもの見せつけてくれやがんだよボケッ!」

「うおっ、ヴァ、ヴァーン?」


 後ろからクレスの頭を引っぱたいて、子供のように笑うヴァーン。

 彼はクレスの髪をくしゃくしゃと乱しながら言った。


「いやっぱオレの目は正しかった! フィオナちゃん最高の女じゃねぇかッ! よっしゃあ土下座でもなんでもしてやんぜ! おいクレス! テメェもう一度死んでもフィオナちゃんを守れよ! んなイイ女世界中のどこ探してもいねぇぞ!」

「ヴァーン……」


 クレスにはちゃんとわかっていた。

 ヴァーンがあの戦いの中で自分を――そしてフィオナを試そうとしていたこと。クレスとフィオナが全力で“否定”してくれることを望んでいたのだと。


 続いて、エステルも傍らで微笑みながら話す。


「心配しないで。もう、私たちは二人の味方よ。だって、私はあなたたちのことが好きだもの。それに、この世界はとても広いのだから、どこでだって暮らしていける場所はあるわ」

「エステル……君まで……」


 すると、今度はセリーヌとリズリットが動いた。


「フィオナ! 言っとくけどあたしだってあんたの味方だからね! 禁忌が何よ、あんたは誰も不幸になんかしてない! 好きな人を助けられる立派な魔術じゃないの!」

「セリーヌ、さん……」

「フィオナ先輩っ! リズは……リ、リズは先輩を尊敬してますっ! 倫理的なこととか、まだ、リズにはよくわからないですけど……いけないことかもしれないけどっ、でも、先輩は間違ったことはしてないと思いますっ! リズだって味方になれます!」

「リズリット……」


 アカデミーに所属するセリーヌとリズリットがフィオナたちに味方する。それがどれだけの勇気を必要とすることか、フィオナには痛いほどわかった。


 クレスもフィオナも、まさか受け入れられるとは思っていなかっただろう。だからこそ、仲間たちの反応に驚くほかない。


 さらに――今度は場内からたくさんの声が響いてきた。


 教会の幹部たちのそれは、フィオナの行動を厳しく非難するもの。断罪を求めるもの。


 だが、それらをはるかに多く上回る都民たちの声は、フィオナの行動を賞賛するものだった。



 ――世界を救った勇者クレス

 ――その勇者を救ったフィオナ



 魂で繋がった二人の姿に感情を揺さぶられた者も多い。冷静に判断がつかない者もいただろう。それでも多くの人々は、その正直な心で二人を受け入れてくれていた。受け入れようとしてくれていた。


 しかし、教会の幹部たちだけは声高に叫ぶ。


 ――罪人は罰せよ。

 ――穢れを祓え。

 ――裁きの雷を。

 ――シャーレ神の裁きを。


 静観したままの聖女の隣で、メイドがその名をつぶやく。


「……ソフィア様」


 この場を治められる唯一の者であろう聖女は、目を閉じている。

 何かを思案するように、静かに呼吸をしていた。



 やがて――意を決したように聖杖を強く地面に突き立てる。



『お静まりください』



 その音と声に、場内は再び静まり返った。


 審判の時が来る。



『――フィオナ・リンドブルーム・ベルッチ。女神シャーレの名の下に、聖女ソフィア・ステファニー・ル・ヴィオラ=アレイシアが審判を下します』



 クレスとフィオナはお互いの手を取り合いながら、聖女と向き合った。


 二人の目は、真っ直ぐに聖女を見つめている。


 恐れるものは、何もなかった。


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