♯33 婚約解消ピンチ?
翌朝。
クレスが家で目覚めると、まず目に入ったのはエプロン姿でキッチンに立つフィオナの後ろ姿だった。
小気味よい包丁のリズムは耳に心地良く、美味しそうなスープの匂いが香り立つ。
まだ新しいベッドが届いていないため、昨晩は酔ったフィオナをベッドに寝かせてクレスは床に眠っていたのだが、彼女はキチンと休めたようだ。
「――おはよう、フィオナ」
声を掛けると、フィオナはすぐに振り返った。
そしていつも通りの笑顔で言う。
「おはようございます、クレスさん。今日も良い朝ですね! おいしい朝ご飯を作りますから、待っていてくださいね」
どうやら二日酔いを起こすこともなく、体調も回復した様子である。これにクレスは胸をなで下ろした。
「良かった。もう体調は大丈夫そうだね。昨日は一時どうなることかと思ったが……」
ぴくっ、とフィオナの動きが止まる。
彼女は包丁を置き、鍋の火を消し、スタスタとこちらに歩み寄る。
そしてクレスの前に正座すると――
「昨晩は大変申し訳ありませんでしたぁ!!」
頭を床につけるほど下げて、小さくまるまってしまう。これにはさすがに「えっ」と驚くクレスであった。
「フィ、フィオナ? 急にどうしたんだ?」
「もうダメです無理です! 平静なフリをよそおっていつも通りでいればなんとかなるかもと思いましたけどやっぱり無理ですぅ! わたし、わたしは、なんてことをして…………う、うう! クレスさんにあんなご迷惑を……! は、恥ずかしすぎて、クレスさんのお顔が見られません……!」
その身体はぷるぷると小刻みに震えており、クレスは呆然とした。
思い出す。エステルが言っていた。
酒の飲み方を誤ると、酔いが醒めたとき絶望するのだと。
クレスは酒に溺れた経験は今のところないが、ひどいときは記憶さえ失うものとは聞いている。だが今回のフィオナは、不幸にも失っていなかったようだった。
「もうだめです……だめですよね……? こんな、お酒に酔っ払っちゃうこんなだらしないお嫁さんなんて、クレスさんも恥ずかしいに決まってます……。婚約解消決定です……指輪も没収です……。天国のパパとママに……おじ様とおば様になんて説明したら……う、うう! もう、生きていく自信がありません…………!」
「フィオナ……い、いや、少し冷静になろう」
「冷静になると消えたくなってしまいますぅ!」
がばっと顔を上げるフィオナ。
彼女の顔は、今にもゆだってしまいそうなほど真っ赤だ。
「だってだってっ! だってわたしはっ、ク、クレスさんに、あんな……は、ははっ、破廉恥な、ことを……」
もわもわ~と昨晩のことを思い出すクレス。
すぐに、彼女の胸に包まれたときの感触や匂いが蘇る。あの息苦しささえ今は懐かしい。むしろ恋しい。
やはりフィオナも、昨晩のことをちゃんと覚えているらしかった。
「ああ……ええと……」
なんて答えたらいいものか。
困った様子でなんとも言えない表情をするクレスに、フィオナはさらに焦燥していく。
「ごめんなさい! すみません! 申し訳ありません!! あ、呆れましたよね? 幻滅しましたよね? わ、わたしみたいな子がクレスさんの隣にいるなんて、もう嫌ですよね? あ、あああんなことしてしまう女の子なんて、もう、さいあく、です、よね…………」
意気消沈。しなしなと肩を落としていくフィオナ。
クレスは彼女の身になって考えてみた。
婚約相手とその友人らがいる席で酒に酔い、服を脱ぎ、笑って怒って泣いて、あまつさえ婚約相手に胸を吸わせようとして、最後には
――む、無理もないな……。
フィオナが今どれだけの羞恥にまみれ、猛省しているか。年頃の少女には辛すぎる経験だろう。どうせなら酒で記憶も消えていれば良かったのに……と察するにあまりあるクレスだ。
クレスはなんとか慰めようと、思いつく限りの励ましの言葉を綴る。
「い、いや。気にすることはないよ、フィオナ。初めての酒なんだ。仕方ない。それに、酔えば本音が漏れるものだよ」
「本音……? ……そう、そうですよね。本音なんです。だからもうだめなんです! あんな本音を聞かれてしまったことが恥ずかしすぎて耐えられませんっ!!」
「え?」
「わたしは、わたしはクレスさんにあんなことをしたいと思ってたんです! や、やっぱりわたしはもうダメです……今までお世話になりましたありがとうございましたわたしのことはわすれてくださぁぁぁぁい!!」
「なっ、フィオナ!? ま、待ってくれ!」
「あんなっ、あんなことをクレスさんにして! 平気な顔なんてしていられません! こんなわたしじゃお嫁さん失格です~~~~~~!」
「落ち着くんだフィオナ! 俺は気にしていない!」
「クレスさんは優しいからわたしを気遣ってそう言ってくれるんです! その優しさが今は辛いです! 誰もこない寂れたダンジョンの奥底で埋まっていたいですぅぅぅぅ!」
なんだかおかしなことを言い始めたフィオナの手を引いて、なんとか彼女を説得しようと試みるクレス。それでも彼女は止まらない。
結婚を誓い合った翌日に、早速破局のピンチである。
――ど、どうすればいいんだ!
こんなときどんな対応をすればいいのか、クレスは何もわからない。
昨日、自分の素直な気持ちでフィオナと向き合うことを決めたばかりではあるのだが、自分でどうしていいのかわからないと、もはやどうしようもない。もともとあまり人付き合いの上手い方ではないため、説得の仕方にも引き出しのストックがなかった。
困ったときに思い出すのは、やはりヴァーンとの記憶である――。
『――オイ、クレス。いいか、女と揉めちまったときにはな、まず謝れ。謝り倒せ。お前が悪くなくても謝れ。そんで一度怒りを静めたらこっちのもんだ。後は出来る限り要求を吞め』
『要求?』
『なんでもいい。例えば欲しがってるものを買ってやるとか、行きたかったところに連れてってやるとか。ウマイもん食わせてやるとか。とにかく相手が望んでることをしてやれ。そうすりゃそのうち許してくれる。そもそも怒りってのは自分の思い通りにならねぇヤツが起こすもんだからな。ただし、計算してやっていると悟られるなよ。馬鹿な男ほど許されやすい』
『そ、そんなにも高度な心理戦を行う必要があるのか』
『女ってのは鍛錬より難しいんだよ。ただま、ケンカしてくれるってのはこっちとの関係を良好にしたいって想いの裏返しだ。本当にヤベーときは何も言ってくれねぇ。ガン無視だ。例えば浮気の場合とかな。そんときは死ぬ覚悟でいけよ? ま、本当に死ぬかもしれんがな!』
浮気ではないし、厳密に言えばケンカでもない。だがあのとき顔中にひっかき傷とヒールの蹴り痕が残っていたヴァーンの説得力はすごかった。
それに、もうクレスにはそれ以外にしてあげられることがない。
「――フィオナ! す、すまなかった! 俺が悪かった!」
「……え?」
大声で謝罪するクレス。
なぜクレスがと、その勢いに混乱していたフィオナも我を取り戻す。
「あのとき、君に酒を飲ませるべきではなかった。いくら成人資格があるとはいえ、もっと俺が注意しておくべきだったんだ。君に責任はない。そもそもヴァーンの誘いに乗らなければよかったのかもしれない。そうすれば、二人きりで静かな夜を過ごせたはずだ。なのに、せっかくのデートをあんな形で終わらせてしまってすまなかった。君にどれだけの恥をかかせてしまったのか想像すると、胸が痛む」
「クレス、さん……」
「この通りだ。許してほしい。そして、この失態を取り返すチャンスをくれないか!」
今度はクレスの方から頭を下げる。
「そ、そんなっ。クレスさんは何も悪くないです! わ、悪いのはわたしで、だからあのっ、あ、頭を上げてください」
クレスの予想外の行動にフィオナはあたふたと動揺しているようだったが、そのおかげで多少は正気を取り戻したようだ。ここまでは成功だろう。
後は、要求を吞むこと。
クレスは考える。
――フィオナの要求とは何か。
──彼女は何を望んでいた?
クレスはハッと気付いて顔を上げる。
「フィオナ」
「は、はい」
そして言った。
「君の……胸を吸わせてほしい!!」
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