第二章 同棲編
♯12 新しい朝
クレスの朝は早い。
太陽が昇り始め、森が煌めく陽光に照らされた頃には自然に目が覚める。長年の冒険によって体内時計がきっちりと調整されているため、目覚ましなど必要ない。
そもそも旅の途中は野宿することも多かったため、その際魔物や魔族に襲われないよう、睡眠中でも警戒することが可能である。
だが、フィオナの朝はさらに早かった。
「――あっ、おはようございます。クレスさん」
クレスがベッドの上で身体を起こしたとき、フィオナは既にキッチンで朝食の支度を始めていた。
それだけではない。窓やテーブルなどが綺麗に拭かれていて、ぴかぴかと輝いて見える。心なしか、いつもより空気が澄んでいるような気さえした。
「もう朝のお掃除は済ませて、水も汲んできました。すぐに朝食を作ってしまいますから、少し待っていてくださいね。温かいスープも用意してあります!」
笑顔のフィオナ。当然ながら、今の彼女はもうアカデミーの制服は着ていない。
純白のブラウスにフレアスカート、その上にフリルの付いた可愛らしいピンク色のエプロンを着用し、ご機嫌にフライパンを揺らす。よく目立つ銀髪はおさげになって結ばれていた。
まるで、新妻そのものである。
「……え?」
クレスは間の抜けた声を上げる。
一瞬、何が起きているのかわからなかったのだ。
勇者をやめてから、この場所でずっと一人で暮らしてきた。朝起きてから水を汲み、朝食を取って狩りに出掛ける。時には街に出てモノを調達し、時間が余れば夜までのんびりと過ごす。
長年染みついた孤独な生活が、この日から大きく変化していた。
「? クレスさん、どうかしましたか?」
「え……あ、い、いや。ごめん。おはよう、フィオナ。良い天気……だね」
「はい♥」
嬉しそうに応えるフィオナ。
卵とベーコンの焼ける美味しそうな匂いがクレスの鼻腔をくすぐり、お腹がくぅと鳴く。それをフィオナに聞かれて小さく笑われてしまった。
クレスの頭はようやく覚醒し、現状を正しく認識出来るようになる。
――そうか。俺は昨日から、フィオナと一緒に暮らすことになったんだった……。
フィオナが皆の前で大胆な花嫁宣言をし、二人が唇を重ねたのが昨晩のこと。
「あの、き、昨日はいろいろとすみませんでした。大騒ぎになっちゃいました……ね?」
ちょっぴり申し訳なさそうに照れ笑いするフィオナ。
クレスも苦笑する。
「……ああ、そうだったね」
思い返す二人。あの後は本当に大変なことになった。
夜になっても街はフィオナのことで大騒ぎで、キングオーガの襲撃などすぐに忘れられていった。二人もあの場にいた大勢に囲まれて質問攻めにあってしまったのだ。
しかもあのとき――二人がキスをする直前、フィオナが『クレス』の名前を大声で呼んでしまったことで話はさらにややこしくなる。
『――つーか今、クレスって言ったか?』
『――いや、聞き間違いじゃない?』
『――んじゃそっちの旦那、名前なんつーんだ?』
この状況に慌てふためいたクレスとフィオナ。
『あっ、ち、違うんです! えっと、あ、あのっ!』
『……グレイス!』
『……え?』
『俺の名はグレイス。そう、グレイスだ!』
クレスがとっさに自身の名をそう呼び、似たような響きの名前でごまかすことでその場は事なきを得たが、結果としてそれがクレスの偽名となってしまった。
元々街に出ないようにしていたクレスだし、出たとしても軽い買い物しかしないクレスにとって偽名は必要なかったのだが、フィオナとの関係が出来た以上そうもいかなくなる。今後、人前では『グレイス』で通すことになったのだ。
「わ、わたしのせいですよね。ごめんなさいクレスさん。偽名なんて名乗らせてしまって……」
「いや、いいんだ。今後のことを考えれば都合がよいからね」
そうして、昨晩からフィオナは早速クレスの家で暮らすことになった。あらかじめ鞄にある程度の荷物を持ってきていたのもしっかりしている。彼女は元々そういうつもりだったらしい。
ゆえにこの家は、今日から二人暮らしの住まいとなる。
目覚めばかりのクレスは、今、そのことを改めて実感していた。
「……あの、クレスさん? やっぱりぼうっとしてますよね? それに、先ほどからじっとわたしを見つめているような……?」
「え?」
「――あっ! も、もしかしてこの格好おかしいですか? そ、それとも髪型が変ですかっ? ああ! か、顔に何かついてたりしますかっ!? どうしよう、ひょっとして、勝手に家のことをしてしまったから……!」
猫の刺繍が入ったエプロンを広げてみたり、おさげや頬を触ってみたりしてあたふたするフィオナ。
クレスは軽く首を横に振る。
「いや、何もおかしくないよ。エプロン姿もよく似合っているし、その髪型も可愛らしいと思う。顔は変わらず綺麗だよ。家事もありがとう」
「えっ」
一瞬動きが止まってボッと赤くなり、それから表情を輝かせるフィオナ。
「――あ、あっ、ありがとうございます! えへへ、もう今日は最高の一日です!」
テンションが上がったのか、彼女はさらにテキパキと動き出す。
鼻歌気分で楽しそうな彼女の後ろ姿を、クレスはまだしばらく見つめていた。
朝起きたとき、そこに誰かがいてくれる。
そんな光景はとても久しぶりで……そして、心の落ち着くものだった。
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