エピローグ

竜と名のつく地から

                       聖歴2026年5月18日(金)


 固く閉じられた瞼を叩くように落ちてきた水滴によって意識が覚醒されていった。


 薄暗い空間だ。長い間意識を失っていた頭にはちょうどいい程度の情報量しか入ってこない。

 周囲を見回してみる。いたるところに瓦礫がうずたかく積み上げられているのが見えた。崩壊しかけた石造りの部屋だ。


 天井には大きな穴が空いている。そこから明かりが差し込んでいるのがわかったが、角度的に穴の奥を見ることはできない。

 大きく天井が崩れた石造りの地下の部屋。そういった場所の片隅に彼は横たわっていた。


「そうか、俺は……」

 つぶやいたところで誰かが枕元――枕などという豪勢なものはなく、彼の頭の下にはタオルのようなものが敷かれているだけだったが――に腰を下ろした気配がした。


 気配の方を向いているとそこに座ったのは一人の少女だった。髪を後ろで結わえただけの地味な顔つきの少女だ。

 小さな頃からずっと一緒にいた。いや、ここ一年ほどは顔を合わせる機会も減っていたっけか。そんなことを考えて彼女を見た。


 しかし彼女は彼が知るよりずっとやつれて顔色は悪かったし、髪はボサボサで顔には乾ききった血や埃が洗い流されることなく残っていた。

 それでもよく知った顔だった。


「徹ちゃん、きがついた?」

 少女――徹の幼なじみである岸瑞樹きしみずきが傍らでにっこりと微笑んだ。

 その笑顔は慈しむようでありながら悲しげでもあったように徹には思えた。


 あの大事件を経て変わってしまった。瑞樹の笑顔も、自分と瑞樹との関係も、自分自身も。

 それは不可逆な変化であり、もうそれ以前のように無邪気な関係に戻ることは不可能だと決定的に悟ってしまった。


「瑞樹……生きてたんだな」

 瑞樹とは文化祭の日の朝にあわせて以来、会っていなかった。

 文化祭で起こった悲劇の犠牲者には数えられていなかったものの、それは彼女の無事を担保したものではなかった。


 全てが終わった今ならわかる。瑞樹は望まぬままあの炭谷=ヴァースキの野望に加担させられたのだ。

 地下でヴァースキを呼び出す儀式のために魔力も体力も消耗させられ、身も心もボロボロになるまで酷使された挙げ句、用が済んだら捨てられたのだろう。


 そこからどうやってここまでたどり着いたのかはわからないが、肉体的にも精神的にもいつ崩れてもおかしくない状況だったにちがいない。


 にもかかわらず、今ここで瑞樹は徹の顔を見下ろしてにっこり笑っている。


「うん。いろいろあったけど、がんばったよ、わたし」

 何が起こったのか――徹はその疑問を飲み込んだ。聞けば教えてくれるだろうが、わざわざ言葉にさせて苦しませることもない。


「そうか。がんばったな」

 ただ一言、そう言った。その言葉に瑞樹は「うん」と力なく答えた。その瞳から大粒の涙が音もなくこぼれ落ちた。




「そういうば、ここどこだ?」

 徹は話題を変えようと辺りを見渡した。あちこち崩れた石造りの部屋は天井に空いた大きな穴からの光源だけが頼りで個々がどのような場所なのかよく見ることができない。


「“地下迷宮”の中だよ」


 思い出した。

 隣の部屋――封印の間でヴァースキを倒し、そしてこの部屋から飛び出していった慎一郎達を守るために徹は炭谷と一騎打ちをしたのだった。


「徹ちゃん、隣の部屋で血まみれで倒れてたの。だからここまで運んできて、少しだけ手当てさせてもらったんだよ。でも、徹ちゃんあんまり酷くて……わたし……」

 溢れてくる感情を堪えきれずに瑞樹がわっと泣き出した。


「瑞樹……ありがとな。お前の顔を見れて良かったよ」

 手で顔を覆って泣く瑞樹を慰めようと彼女の頭を撫でてやろうと思ったが、それはできなかった。


 首より下の感覚が全くなかった。ぴくりとも動かすことができない。わずかに左右に首が動くだけで、身体の様子を伺うこともできないから、今自分がどういう状況なのか知るよしもなかった。


「あいつらはどうなったんだろうな。うまく行ったのかな?」

 徹の唯一残る心残りだ。彼が慎一郎たちの姿を最後に見たのはこの部屋で今まさに〈ネメシス〉に送り届けられる寸前だった。


 その呟きにようやく落ち着きを取り戻した瑞樹が行動で示した。徹の首を持ち上げて膝枕の形にすると、天井の大きな穴の奥が目に入るようになった。

 地下深くの迷宮から地上に向けて深い深い穴がまっすぐ伸びていた。その奥からのぞく真っ青な青空。そして――


「はは、やったじゃないか。慎一郎」

 青空の中心にはかつては黒い球体だった〈ネメシス〉が無数の破片となって浮かんでいるのが見えた。それが何よりも親友の成功を雄弁に物語っていた。


「瑞樹……」

「ん?」

 しばらくの沈黙の後、徹はすぐそこにいる最も近しい少女に声を掛けた。


「お前はもう地上に戻れ。いろいろあったかもしれないけど、お前のせいじゃない。お前は戻って普通の高校生に――」

 瑞樹は徹の言葉を遮るように身体を折り曲げ、唇を重ねた。


「…………!!」

 徹が驚いたのは瑞樹のその行動のためではない。

 彼女の口が血の味だったからだ。


「…………っ! ご、ごめんなさい。わ、わたしもう……地上には戻れなくて……げほっ、げほっ……!」

 瑞樹が咳き込んだ。咄嗟に手を当てたが、それでは抑えきれないほどの吐血が溢れ出し、徹の身体に鮮血がこぼれ落ちる。


「ごめんなさい……! わたしこんな……げほっ、げほっ……! 汚しちゃって……!」

「いや……」


 徹は気分を害してはいなかった。瑞樹は自分の身体が汚されたと言うが、徹はそう思わなかった。むしろ、清らかであるもののように思われた。

 彼女自身気がついていなかったが、〈黒巫女〉として生命と神を冒涜した存在に変えられてしまった瑞樹にとって回復魔法を使うということはその生命を削る行為だったのだ。


「いいんだ……」

 徹は瑞樹を慰めようとしたが、こういう時に限って言葉が出てこない。瑞樹以外の女の子に対してはあんなに積極的になれたのに、どんなときにも一番近くにいてくれる幼なじみにだけは何を言っていいかわからない。


 瑞樹が着ているのは巫女服だろうか。そういえば結希奈がよく着ていたのを思い出す。しかし瑞樹の服は吐血のゆえだろうか、それともほかにも出血があるのだろうか、彼女自身の血で赤黒く染まっている。

 それすら徹は美しいと思った。


「なあ、瑞樹……」

 徹は瑞樹に声を掛けた。しかし俯いたままの瑞樹から返事はない。構わず徹は話し続ける。


「俺たち、ずっと一緒にいたよな。覚えてるか? 初めて道場で出会ったとき。俺、あの頃はお前のことをいけ好かない女だって思ってたんだぜ? あの頃のお前って俺より強かったからな。あと、小学校に入ったときさ、お前、俺と同じクラスじゃないからって泣いたよな。そしたら先生が俺が泣かせたって勘違いしてきて……」


 膝枕をしていた瑞樹の上半身が力を失い、すっと折れ曲がって徹の顔の上に降りてきた。

 徹は自分の顔の上に降りてきた瑞樹の顔を拒むことなく、唇を重ね合わせた。先ほどとは異なり、瑞樹の唇は冷たかった。


 そのまま、瑞樹の唇とふれあわせる。

 それは今の徹にとって世界の全てであった。


 瑞樹の唇の冷たさが、徹を包んでいき、徹もまたそれと一体化していく。徹は心地よい満足感に浸りながら、冷たさの海に沈んでいった。




 この日、地上から上空に向けて炎が立ち上がる現象が目撃された。専門家によると、これは『フェニックス現象』と呼ばれるものであったという。

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県立北高竜王部 雪見桜 @GAGLAE

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