運命のカウントダウン2

 『初めてのキスの味はレモンの味』と聞いたことがある。


 ところが現実どうだろう。それどころではなく、頭が多幸感でいっぱいとなり、初めてのキスの味などまるで思い出せない。ただ単に幸せだった記憶だけが残っている。


 唇を離すと目の前に瞼を閉じた結希奈の顔が見えた。丸顔で、少し幼く見えるが、とても好ましいと思った。

 少し遅れて結希奈が目を開いた。うっとりした表情だと思うのは自惚れすぎだろうか?


 目を開けた結希奈は少しだけぼーっと慎一郎の顔を見ていたかと思うと、すぐに顔を赤くして身体を遠ざけた。そして取り繕ったように、

「こ、これは違うのよ! その、えっと……。そう! 元気づけようと思って! ……どう? 元気出た?」

 そのあまりに酷い取り繕いように慎一郎はおかしくなってぷっと吹き出した。


「ああ。元気出た」

「な、ならいいのよ……。これはノーカンだからね、ノーカン!」


「あのさ、結希奈」

「な、何よ……!」

 結希奈の顔はまだ赤い。自分の顔はまだ赤いのだろうか。そんなことを一瞬思った。


「おれ、決めたよ」

「だから何よ?」


「菊池会長に頼まれただろ? ヴァースキを倒してくれって。おれ、やるよ」

 全てが吹っ切れた清々しい表情で言った。しかし結希奈にはそれが伝わっていなかったのか、彼女はみるみる表情を変える。呆れたような表情だ。


「はぁ? あんた何バカなこと言ってるの? ちゃんと考えて、あんたのしたいようにしなさいって言ったようね、あたし」

 慎一郎は立ち上がり、沈みつつある夕日を煽いだ。


「考えたさ。おれは、みんなと――メリュジーヌと細川さんと今井さんと徹と――そして結希奈とまた元のように学校生活を送りたい。ただそれだけがおれの望みなんだ。だから――」


 慎一郎はただ一本残った左手を握り、そして開いた。それをじっと見る。


「ヴァースキを倒し、〈ネメシス〉がもたらす災厄を防ぎ、ここに戻る」

 それを聞いた結希奈は大きなため息をついて立ち上がった。


 慎一郎より頭一つ分ほど小柄な結希奈は慎一郎を見上げる。そして諦めたかのようにもう一度ため息をついた。

「はぁ。わかったわ。あんたそういう奴だもんね。そういうやつだって知って……好きになったんだし……」


 後ろの方はよく聞き取れなかったが、結希奈がこちらを見るとその時にはもう笑顔になっていた。


「わかったわ。あんたのその夢、あたしも付き合うわよ。ドラゴンだろうが宇宙人だろうが、倒してやろうじゃないの」


「ありがとう。心強いよ」

 結希奈の右手が慎一郎の左手を握った。慎一郎も結希奈の手を握り返した。沈みゆく冬の太陽だけが二人の決意を見守っていた。




 とにかくその場を離れたかった。今し方出てきたばかりの昇降口からまた入り、上履きに着替えて廊下を歩く。走らないのは小学生の頃から廊下を走ってはいけないと言われ続けていたからだが、こんな時にまで冷静にルールを守る自分が嫌になった。


 知り合いとは顔を合わせたくなかった。だから〈竜王部〉の部室のある旧校舎の方へは行かなかったのに、よりによって別の知り合いと鉢合わせてしまった。


「ごめんなさい」

 廊下の角でぶつかってしまった相手に謝った。


「おっと……いやこっちこそ。……なんだ、今井じゃないか」

 ぶつかった衝撃でふらつく楓の肩を抱きとめるように持ったのは楓の古巣、弓道部の部長だった。


「あー……そりゃ、なんというか、大変だったね。元気出しなよ」


 この季節の夕暮れは早い。もうすでに外が暗くなっている時間であっても夕食時にはまだ早いので、家庭科部が運営するカフェには彼女たち以外には誰もいなかった。文化祭の時に新しくオープンしたところで、まだ新しくてお洒落な店だ。

 そこで楓は部長に先ほど自分の遭遇した出来事を語った。


「でもまあ……初恋は実らないっていうし、きっと今井にも素敵な男性ひとが現れるからさ。今日はたくさん飲んで」

 そう言って部長は楓にドリンクバーのグラスをぐぐっと差し出した。ちなみにドリンクバーは単体で四百八十北高円、部長のおごりである。


「いえ、そうじゃないんです……」

 楓はグラスの中のオレンジジュースを一口飲むと、ぽつりと言った。


「へ? どういうこと?」

「えっと、なんというか……」

 楓はテーブルの上のグラスを見つめながら、少しずつ話し始めた。どうやら、自分でも自分の気持ちがよくわかっていないようだ。


「私って、本当に浅村くんのこと、好きだったのかなぁって」

「はぁ!?」


 ガタリとテーブルを揺らしながら部長が立ち上がった。他に誰も客がいないからその声は部屋の中に大きく響いた。カウンターの向こうでグラスを拭いていた家庭科部の女子生徒が驚いてこちらを見ている。


 それに気がついた部長はコホンと咳払いをして席に戻った。顔が少し赤い。

「どういうことよ!? あんたあんなに『浅村くん好き好き』って言っててじゃない!」


「わ、私そんなに好き好き言ってないですよ!」

 カウンターの向こうの女子生徒が気になって、どうしてもひそひそ話になってしまう。


「それで、浅村くんがキスしてるのを見て、どうしてそういう結論になるわけ?」

 部長の問に、楓は少し考えるように黙り込んで、少ししてから話し始めた。


「その……浅村くんと結希奈さんがキスしてるところを見ても、私、全然がっかりしなかったんです。むしろ、『ああ、やっぱりな』『お似合いだな』って納得しちゃったんですよね。それで、そんな風に納得しちゃった自分に驚いて、どうしたらいいのかわからなくなって……」


「『どうしたらいいかわからなくなって』の部分だけまっとうな恋愛相談だな」

 部長は自分のグラスの中に入っていたソーダを飲み干すと、ドリンクバーのおかわりに行って戻ってきた。


「それで? どうしたいわけ? 好きじゃなかったならそれでいいじゃない」

「そうなんでしょうか……。うーん、自分でもよくわからないというか……」


 楓がグラスにさしてあるストローをぐるぐる回した。グラスの中の氷がカラコロと音を立てる。


「まあ……今日の所はとりあえず飲め!」

 部長が自分のグラスを楓にぐいと突き出した。楓はそれにグラスを合わせると、カチンという澄んだ音がした。


「とりあえず、今日は食って飲むぞ! お姉さん! 夕食のメニュー持ってきて!」

「はい、ただいま!」


 その後、弓道部のメンバーも集まって、この晩、このカフェは彼女たちの貸し切りとなった。楓の事情は弓道部全員の知ることとなった。

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