暗黒竜の屈辱2

 爪の先ほどもなかった影はみるみる大きくなり、ものの数時間ではっきりとその姿がわかるようになった。


 最上級ドラゴンにしては小柄な身体に不釣り合いなほど大きな翼。夕日に照らされてまばゆく美しく輝く銀色の鱗は漆黒の闇のような体色を持つヴァースキとは対照的と言ってもいいだろう。


 悠然とその巨大な翼を瞬かせ、竜の王はその優雅な動きからは信じられないほどの高速でまっすぐヴァースキが住処とする山へと迫ってきている。おそらく、ヴァースキがその存在を感知するよりも前からこの場所を正確に認識していただろう。


 やがて銀色に輝く世界の覇者は速度を少しずつ落としてヴァースキの住処の上空までやってきた。バサッという空気をつかむ音を立てながら待ち受けるヴァースキの目の前に着地する銀翼の美しい竜の女王。その名は〈竜王〉メリュジーヌ。

 地球の反対側からおそらくノンストップで飛んできたであろうに、彼女の息は全く乱れておらず、美しく輝く銀の鱗にもくたびれた様子は微塵も感じられない。


「これはこれは、竜王陛下。ご機嫌麗しゅう。こんな田舎にまでご足労いただき、どんなご用ですかな?」

「ふん。心にもないことを言うな」

「これは異な事をおっしゃる。このヴァースキが竜王陛下に心よりの敬意を表しているというのにその言い方、傷つきますなぁ」


 ヴァースキの身体はメリュジーヌよりもふた回り以上も大きい。それに加えて首を大きく伸ばして敢えてメリュジーヌを見下すように言ってみせた。その口は嘲笑に歪んでいる。


「ならば貴様の流儀に従ってやる」

 メリュジーヌはヴァースキの威圧に全く動じることなく平然と続ける。


「パーターラのヴァースキよ。竜の中の竜、王の中の王であるこの竜王メリュジーヌの勅命を二百年の長きにわたり背き続けたこと、わしの呼び出しを再三にわたり無視したこと、竜王の使者を複数回にわたり殺害したこと、そしてむやみに人間をはじめ多数の生命を奪ったことに関して申し開きを求める」


「……………………」

「どうした?」


「……………………」

「この竜王自らが貴様の元へとやってきて申し開きの機会を与えたのだ。さあ、申してみよ」


「クソ食らえだ」

「……なに!?」


「テメエが“王”を名乗るのも、ウジ虫にんげんどもを殺すなと言うのも、申し開きをしろと偉そうにのたまうのも、全部クソ食らえだ!」


 直後、二柱が立つ山頂のありとあらゆるものが前触れもなく瞬時に吹き飛んだ。

 轟音と砂埃が巻き起こり、頑強なはずの岩々がまるで硝子細工のように粉々になって吹き飛んでいく。

 ヴァースキがその巨木よりも太い尾を無造作に振り払ったのだ。


 一瞬前まで鋭く尖る岩々が立ち並んでいたヴァースキの住処は、その一撃でまるでクリームを塗りたくったケーキのように均された。


 しかし、そのような変化の中で、ただ一つ、全く変わらなかったものがある。

 もうもうと立ちこめる砂煙がおさまっていくと、その向こうから先ほどとは何も変わらず銀色の鱗を輝かせて佇む凜々しい姿。


「……? 何かしたのか?」

 涼しい風でそう訊くメリュジーヌ。その鱗にはかすり傷ひとつついていない。


「さすがは王を騙るだけのことはある! ならこれはどうだ!」

 暗黒竜が大きく翼を広げてふわりと浮かび上がると、その口から闇よりもなお暗いブレスを吐いた。

 それは岩山の上に立つメリュジーヌに殺到し、一瞬でその銀色の身体を黒く染めた。


(ふん。竜王といえど、呆気ないものだな)

 全てを腐らせる闇のブレスが敵を包み込んだのを確認し、ヴァースキが笑った。自身の闇のブレスに対する絶対の自信だ。


「ふん、児戯じゃな」

 しかし、その自信は一瞬で打ち砕かれた。ブレスの中からこれまでと全く変わらない、だが低く怒りに震えたメリュジーヌの声が響いた。


「ば……馬鹿なっ……!」

 ブレスの中からその美しく輝く銀色の鱗を少しも曇らせることなく竜王の姿が現れた。彼女はゆっくりと一歩を踏み出してヴァースキがホバリングしているところへと近づいてくる。


「ブレスの効果を無効にする“魔術”。――お前がウジ虫と蔑んでいる人間の生み出した技術だ。これは貴様のために特別に作らせたものでな。光栄に思えよ」


「――クソッタレがぁぁぁぁっ……!」

 上空からヴァースキが急降下。その速さは猛禽を優に超える。


「…………」

 しかしメリュジーヌはこれを冷静に対処。素早く横に回避したかと思うと、すれ違いざまに強烈な尾の一撃をヴァースキに食らわせた。

 山全体が揺れたのではないかと思えるほどの衝撃で地面にたたきつけられる黒竜の巨体。


 しかしヴァースキの身体にそれほどダメージはない。

 すかさずヴァースキは起き上がり、反撃の態勢をとろうとする。


 が、それは適わなかった。


「ン……だと……!?」

 ヴァースキの身体全体が重くなり、まるで押さえつけられているかのように地面から離すことができなくなっていた。それどころか岩山に押しつけられ、少しずつめり込んでいく。


「き……さま……何をしやがった……! 竜王!!」

 首を動かすこともできず、ぎょろりと目玉だけを動かしてメリュジーヌを見るヴァースキ。


 対するメリュジーヌは涼しげな顔でヴァースキを見下ろしていた。

「王に対する礼儀を教えてやったまでじゃ。王に頭を垂れるのは当然であろう?」


「貴様ぁ…………!」

 メリュジーヌはヴァースキに身体を向け、見下ろすように言った。あくまで王の威厳を損なわぬよう、尊大に。


「もう一度だけ聞く。これが最後じゃ。以後わしに従い、勅命を守り、無用な殺生をせぬことを誓うか?」


 しかしヴァースキにその声は聞こえていないかのように力ずくで立ち上がろうとする。

「ぐ……ぎぎぎ……ぎぎ……」


 強力な押さえ浸かられる力に対抗して立ち上がろうとするヴァースキ。周囲の頑強な岩にひびが入り、次々と砕ける。時折聞こえてくるブチブチという音は彼の筋肉が負荷に耐えられずに断絶している音だ。


 それでもヴァースキは立ち上がろうとしていた。偉大なる暗黒竜が他者の前で這いつくばっていることは許されないのだ。


 しかし、その努力は徒労に終わる。


 巨大な、ヴァースキの尾ほどもある巨大な氷柱が二本、何もない空間に現れたかと思うと、ヴァースキめがけて勢いよく落下した。


「ぐは……っ……!!」

 氷柱はヴァースキの漆黒の羽に突き刺さり、偉大なる暗黒竜をまるで昆虫標本のように岩山に縫い付けた。


「これがそなたが蔑み、踏み潰してきた人間の技じゃ。驚くべきものよのぉ。あれほど小さくてか弱い存在が探求と工夫により我ら竜族を凌ぐ存在にまで成長する」

「知った……ことか……。この世は弱肉強食だ……。弱ェ奴は……踏み潰されるだけ……だ……」


 〈重力〉の魔法と〈氷柱〉の魔法により再び大地に縫い付けられたヴァースキだが、その瞳の輝きは微塵も失われていない。


「そうじゃな。じゃが、このままだと踏み潰されるのは我ら竜族じゃ。だからわしは竜族であることをやめ、竜人族として人間とともに歩んでいくことを選んだ。眷属にもそれを求めた。すべては我らドラゴンが未来へ血族を繋ぐためじゃ」


「戯れ言を……」

 ヴァースキはなおも立ち上がろうとする。大地に縫い付けられた翼を引きちぎり、超重力により全身があり得ない形に潰され、食いしばった鋭利な牙は次々と折れ、鱗の間からどす黒い血が溢れ出しても彼の魂をくじくことはできない。


「そうか……。それがお主の決断か」

「そうだ……。俺は……俺が思うまま……生きる……。俺より弱ェ奴には……屈服しねぇ……」


 メリュジーヌの表情がふっと緩んだ。

「勅命を出してから二百年、勅命に最後まで従わず討伐された眷属は多くあれど、わしが自ら手を下すのはこれが初めてじゃ。誇りに思え」


 その時、ヴァースキの巨体をそれより遥かに大きな影が覆った。

 一瞬、日が暮れたのかと思ったが、その時間にはまだ早い。

 近くの山から山頂を切り取り、魔術でできた見えざる手でヴァースキの頭上にまで持ち上げてきたのだ。


「〈十剣〉零の剣、ヴァースキよ。そなたの〈十剣〉の称号を剥奪し、死刑を宣告する」


「そんなもの寄越せといった覚えも、名乗ったこともねえ! 勝手にしやがれ! だがな、竜王! 俺は死んでもおまえには屈服しない! 覚えてろ! いつか必ずテメエをぶっ殺してやる!! 絶対だ!」

 巨大な岩の塊の下敷きになる直前まで、ヴァースキの心は折れなかった。その瞳は怒りに染まっていた。


「わしが自ら手にかけた同胞じゃ。忘れぬよ」

 別の山の山頂が備え付けられた岩山をメリュジーヌは無表情で見下ろしていた。

 こうして、時代の流れに逆らい続けた恐怖の化身は世界から姿を消した。

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