暗黒竜の屈辱
暗黒竜の屈辱1
10世紀 インド大陸
そこは“彼”の帝国だった。
もとは『ナーガ』と呼ばれる古い竜がこの地の大部分を治めていたが、若くて血気盛んな彼はナーガに挑み、これに勝利することによってこの大陸の全てを手に入れた。
ふたつの大河と世界一の山脈によって隔てられたその大陸の全てが彼の支配下に入った。大河によって育まれた平地は豊かで、また山脈は天にも届く高さで彼の帝国を支えていた。
その全てを彼は力と恐怖で治めた。
ヴァースキ。
それが彼の名だ。
世界の生物の頂点に君臨する竜族の中でも群を抜いた大きさと戦闘力の高さ、そして残忍さにより、“暗黒竜”と呼ばれた。
竜族の多くは高山に居を構えることを好んだ。それは竜の特性でもあり、強靱な肉体によってそのような過酷な環境でも全く問題なく生きることができるからなのだが、ヴァースキは竜族にしては珍しくヒマラヤの麓、三千メートル級の山――この地方ではこの高さでは高山とは呼ばれないに――居を構えた。
それは、ヴァースキがヒマラヤ山脈を彼の玉座と考えていたからだ。
世界最高峰の山々に悠然と腰掛け、インド大陸を睥睨する帝王。それが紀元前から連綿と続く彼の帝国の姿だった。
ヴァースキは寛大だった。少なくとも彼自身はそう思っていた。
なぜなら、彼の帝国で人間が生きることを許したからだ。
彼は、彼の帝国の中で人間同士が覇を唱えて相争うことを問題視なかった。勝利した人間がヴァースキに絶対の忠誠を誓い、彼らが朝貢をする限りにおいては。彼は覇を唱えた人間に対して
そうしていくつもの王国が生まれ、滅びて、別の王国に取って代わっていった。
不思議なことに、人間は人間同士で常に殺し合っているのにすぐにそれ以上の数に増えるのだ。殺せば殺すほどに増えていく人間。やげて、彼の帝国は人であふれかえり、元々豊かだったこの地はさらに豊かになった。
それはこの地を治めるヴァースキにとっても貢ぎ物が増えるという点で好ましいことであった。
そのようにしてヴァースキはこの地を治める神として従うものには恐怖を、逆らうものには速やかなる死を与えて支配した。
およそ二百年前、竜王がある宣言を行うまでは。
「竜族が今後永遠に繁栄し続けるためには人間との共存が不可欠であると知った。眷属たちよ。山を下り、陸に上がれ。人と共に暮らせ。人間は共存すべきパートナーであり、尊敬できる隣人である。事情なく人間を殺すことまかりならん」
ヴァースキは激怒した。彼にとって人間とは自分の土地に寄生する寄生虫と同義であり一方的に利用するだけの存在である。ヴァースキに頭を垂れぬ人間に存在意義はなく、彼の機嫌ひとつでいかようにも蹂躙して良い存在以外の何物でなかった。
人間は共存すべきパートナーでも、尊敬すべき隣人でもなく、ただ搾取し、侮蔑する存在でしかない。
故に彼は竜王の勅命を無視した。
もとは遙か昔、巨人とこの大陸の覇を争っていた時代に一時的に手を組んだだけだ。大河を渡って侵入しようとした巨人どもを協力して食い止め、その後はともに巨人どもを駆逐した。あの頃は彼も竜の一族の一員であったかもしれない。
〈十剣〉という称号もその時に受けたものだ。興味がなくて放っておいたが、ドラゴンどもはヴァースキを〈十剣〉の番外、零の剣としてその序列に加えていた。彼は無視した。
しかしそれも昔の話だ。
勅命から百五十年、ヴァースキは大陸を支配し続け、時には人間を戯れに殺し、時には新しい王国をその庇護下に置いた。何も変わらなかった。
百五十年後、今はパリという人間の街で人間とともに暮らしているという竜王より、勅命に従い、人間を殺すのを止めよという連絡が届いた。
ヴァースキはこれを受け取ったその日に自らの居城を出て最初に見かけた村を何の理由もなく焼き滅ぼした。
さらに数十年後、竜王の使者を名乗るドラゴンが現れた。下位のドラゴンであるその使者は竜王の勅命を守るように求めたが、ヴァースキに対して礼を尽くしたのでそのまま帰らせた。
ヴァースキはその日のうちに山を下り、都を焼き尽くした。数万人が死に、その王国は間もなく滅亡した。
それから数年、今度は別の使者がやってきた。貴族を自称する――その人間の文化を自称する時点で彼には業腹だった――そのドラゴンは、ヴァースキに竜王に従うよう要求した。その高圧的な態度と貴族などという人間の文化に染まりきったそのドラゴンに対してヴァースキは激怒し、その場で首を切り落とした。
切り落とした首は使者と共にやってきていた従者のドラゴンに持たせ、竜王に送り返した。
次にやってきたのは高位ドラゴンを中心とした一団だ。彼らはやってくるなり攻撃を仕掛けてきたので闇のブレスで跡形も残らず消し去った。
その後、幾度か呼び出しの連絡が届いたがヴァースキはこれらを全て無視した。竜王から連絡が届くたびに村々や街、都を焼き尽くした。
死者は数十万人に及んだ。
「いいからテメエが来いよ、メリュジーヌ。言うことを聞かせたいなら力尽くで何とかして見せろよ、ドラゴンならさ」
ヴァースキはにやりと笑った。最後に巨人の王と戦ったとき以来、本気で戦っていなかった残忍なる暗黒竜は、久しぶりの戦いの予感に自ら高揚していることを感じていた。
さらに数年。ヴァースキがそろそろ頃合いだと思い、住処にしている岩山から西の空を伺っていると、彼方より飛んでくる小さな影を見つけた。
小さな影に不釣り合いな巨大な気配はまだ遥か遠くのここからでもはっきりとわかる。
竜王メリュジーヌだ。
「待ってたぜ、竜王よぉ……! しかしまさか……ククク……単騎でやってくるとは、俺も舐められたものだなぁ」
暗黒竜の黄色い瞳がギラリと光った。
「いいぜ! その判断、死の淵で思いっきり後悔させてやるぜぇ……!」
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