森斉彬6

「オラァァァァァァァァァァ……!」


 ドラゴンの歩みはそれほど早くはない。全力で走ればすぐに追いついた。

 斉彬を全く意に介さないドラゴンの横まで走っていき、そこから横腹に向けて全力の一撃を食らわせた。


 ガン、という鈍い音とともに〈デュランダルⅡ〉が弾き飛ばされた。その衝撃は斉彬自身に戻ってきて、危うく剣を取り落としそうになった。

 斉彬の全力攻撃は両手を抱えるほどもある竜の鱗に阻まれた。全くダメージを与えていないのは竜の歩みが変わらないことからもわかる。


「クソッタレが!」

 半ばやけくそ気味にドラゴンの横腹を滅多斬りにした。その攻撃はすべて竜の鱗に阻まれてしまったが、一発だけ鱗の間に入ったのか、ずぶりと柔らかい感触が伝わってきた。


 それは肉を切り裂く感覚ではなく、もっと柔らかいものを斬っている感触だったが、今の斉彬にそれを気にしている余裕はない。


「おっと」

 斉彬が大きく後ろにはねた。その瞬間、バスが横向きに飛んできたのかと思えるほどの太い尾が飛んできた。それでも、ドラゴンにとってはうるさいハエを振り払っただけなのかもしれない。


 尾を払って満足したのか、ドラゴンは再び“戌”のほこらに向けて歩き出した。

「させるかよ!」

 今度は尾の攻撃を受けないように尾の付け根の鱗の隙間を狙って斬りつける。よく見ると、思ったよりも鱗と鱗の間が大きく、鱗のない部分も多かったので、先ほどとは違って跳ね返されることはなかった。


 ――ギュアァァァアァァァアァァァァァアアァァァァァアァァァァ……ッ!


 ドラゴンがその長い首を持ち上げて悶絶した。斉彬の攻撃は確実に効いている。

 黒竜はゆっくりと後ろを振り向いて、初めて斉彬と目を合わせた。


 ――グルルルルルルルルルルルルルルルル……。


 ドラゴンが唸る。その鋭い目で斉彬を睨みつけるが、むしろ斉彬は不敵な笑みを浮かべる。

「へっ。やっとオレに気づいたか、この鈍感野郎。お前の相手はこのオレだ! よぉく目見開いて忘れないように見ておけ!」


 斉彬がドラゴンに向けて切り込む。ドラゴンはその動きに合わせるかのように前足を横薙ぎにした。斉彬はその動きを読んでいたかのように軽くステップすると、カウンターで前足に攻撃を加えた。黒竜の右前足は鱗に覆われていない部分が多く、攻撃が簡単に入った。


 ――グオァァァァァァァァァァ……!


 ドラゴンが悶絶する。ダメージを与えたようには見えないが、苦痛は与えられている。それで十分だ。


 怒るドラゴンは斉彬をひとのみにしようと噛みついてきた。軽乗用車ほどの大きさの頭が迫る。

 ドラゴンの動きがよく見えている斉彬はこれも回避し、代わりにドラゴンの目をめがけて突きを放つ。どんな生物であろうと目を攻撃されて無事では済むまい。


 しかし、その目論見は外れた。鈍い音とともに〈デュランダルⅡ〉が弾き飛ばされる。ドラゴンは咄嗟に鱗で覆われている瞼を閉じて目を守ったのだ。


 再び首を持ち上げた竜の口から黒い霧が漏れ出しているのが見えた。

「やべっ……!」


 それを認めた斉彬は全力で後ろ向きに走り出した。敵に後ろを見せるとか、背後から攻撃されるかもだとか、そういうのはどうでもよかった。今はただ奴から距離を取らなければならない。


 詰まった排水溝から汚水が逆流してくるような音が聞こえた。続いて背中が焼けるような感覚。


「ぐはぁ……っ!」

 背中全体に刺すような痛みを感じた斉彬は、その場から少しでも逃れようと正面に見えた通路に飛び込んだ。


「ぐっ……うぐぅぅぅっ……!」

 通路に飛び込んで少し気が抜けたのか、その瞬間にこれまで以上の激しい痛みが襲いかかってきた。背に手を回して触れてみると、どろりという感触。

 闇のブレスのほんの先端に触れただけだというのに、斉彬の背中の肌が腐り落ちていた。


「思った以上にやべぇな、こいつは……」

 こんな化け物と三時間近くも張り合っていたこよりに申し訳ない気持ちとなると同時に、改めて惚れ直す。


 〈デュランダルⅡ〉を軸にして立ち上がり、改に気合いを入れ直すと少し痛みを感じなくなったような気がした。実際は痛覚も腐り落ちていて感じないだけだったのだが――

 斉彬のことなどすっかり忘れたかのように性懲りもなくこよりの所――彼にとってはそう見えた――へ歩き出すドラゴンに向けて再び攻撃を行った。




「はぁ、はぁ、はぁ……。クソッタレが……」

 斉彬が〈デュランダルⅡ〉を構えた。


 あれから何分経ったろう?

 すでに全身の皮膚が闇のブレスによって腐り、身体の何カ所かは尾の直撃を受けて骨折し、竜の爪がかすった脇腹は大きく割れて血が止めどなく流れ出している。にもかかわらず斉彬の瞳の輝きは失われず、その両足はしっかりと大地を踏みしめていた。


 ――グワァァァアァァァァァァァアァアァアァァァァァァァアァア!


 ドラゴンの咆吼。弱きものを竦ませるその咆吼を前にしかし、斉彬はにやりと不敵に笑った。

「どうした? こんなちっぽけな、しかもボロボロの人間一人を前にそんな強がらないと戦えないくらい追い詰められてるのか?」


 ドラゴンにダメージらしいダメージはないものの、勢いでは明らかに斉彬が押している。


 そう。今や斉彬がドラゴンを大広間の北東の角に追い詰めていた。


 満身創痍の青年は離れた背後に思い人の存在を確かに感じながら、堂々と世界最強の生物の前に立つ。

 斉彬が一歩を踏み出すと、竜が半歩後ずさる。


「来いよ。クソトカゲ」


 右手の人差し指と中指を揃えてくいっ、と曲げて挑発すると、次の瞬間、黒い尾が飛んできた。

 もはや回避する体力は残っていない。尾が飛んでくる反対方向に少しだけステップして衝撃を和らげるのと同時に、〈デュランダルⅡ〉を尾と身体の間に入れて身を守る。

 このとき、刃を立てておくのを忘れない。


「ぐうっ……!」

 大きく弾き飛ばされ、地面に落とされたときの衝撃で肺の中の空気が全て押し出された。一瞬動けなくなるが、すぐに立ち上がる。


 ――ギュワァァァァァアアァァァァアァァァァ!


 自らの尾を〈デュランダルⅡ〉にたたきつけた代償は大きい。尾は半ば切断され、その大きな刃を尾に食い込ませたままドラゴンが大きく悶える。

 ドラゴンは考えなしに大剣がめり込んだ尾を地面にたたきつけるが、それは〈デュランダルⅡ〉をより深くめり込ませるだけの結果に繋がった。


「へへ、ざまぁ……」

 斉彬が唇の端をつり上げる。武器を失ってしまった。だが斉彬は全く焦ってはいなかった。それでいい。今黒竜の黄色く鋭い目には斉彬しか映っていなかったからだ。

 竜の左前足がなぎ払われた。すでに斉彬は立っているのがやっとでそれをかわすことはもちろん、その攻撃を認知することすらできない。


「ぐぶうっ……!」

 弾き飛ばされた。鈍い音ともに右半身の感覚がなくなった。しかしそれでも斉彬は立ち上がり、最初と一切変わらぬ瞳で最強生物を睨む。


 ――グルルルルルルルルル……。


 斉彬の視線にドラゴンが怯んだように見えた。

 だがそれは一瞬で、改めてドラゴンが一歩を踏み出した。ボロボロの人間に対して狼狽えていたことに今更ながら気がついたかのように。


 もう一歩を踏み出す。今度こそ確実にこの目障りな人間にとどめを刺さんがため。

 しかし、そこで黒竜の足が止まった。


「…………?」

 斉彬の右目は頭からの出血により塞がれていた。残った左目もかすんでよく見えない。耳鳴りが酷く、音もろくに聞こえない有様だ。


 そんな状態だが、かろうじて今目の前に置かれている状況がわかった。ドラゴンの足元に赤く光る巨大な魔法陣が展開されていた。どうやらこれがドラゴンの動きを止めたようだ。

 魔法陣からは金色の細かい文字が鎖のようにドラゴンの四肢に纏わり付いており、その力だろうか、ドラゴンの黒い身体が少しずつグレーに染まっている。


 石化だ、と斉彬は思った。


 黒竜の向こう、大広間の北東の隅に誰かが立っているが、目がかすんでよく見えない。

 その時、頭に直接語りかけられた。


『ありがとうございます。貴方のおかげでヴァースキの足止めをするだけの魔術が構築できました』

「――巽さん……?」


 斉彬は結希奈の家に住み込みで働く巫女の名を口にした。それはこの地を守る竜人族のことであり、伝説に語られる竜でもある。

 斉彬は気づかなかったが、その巫女服はボロボロで、彼女自身も全身に裂傷を負い、内臓もボロボロにされている重傷だった。竜人といえど立っているだけでも不思議なほどの怪我であった。


『“鬼”を封じた結界を再利用しても私よりも高位のヴァースキを足止めできるのは数日か、数週間か……。でもそれだけの時間があればあのお方なら、竜王陛下ならきっと何とかしてくれる。そう信じています』


「ははっ、あんたでもこいつは倒せないのか。まいったね。だが確かにメリュジーヌなら何とかしてくれるかもしれない」

 斉彬はその場にへたり込んだ。もう一秒たりとて立っていられない。


『これから私は自分の生命を使って術式を完成させます。どうかお逃げください』

「それは……いや、そうさせてもらうよ。それがあんたの願いなんだろ?」

 斉彬はやっとの思いで膝をつき、上半身を起こした。


 するとそこに見えた黒竜は後ろを向き、今まさにブレスを吐こうとしていた。自分を石化しようとする厄介な術者を先に始末するつもりなのだろう。ドラゴンの石化は足の付け根にまで及んでいたが、足が動かずともその長い首があれば後方にいる巽にブレスを浴びせることはできる。


 満身創痍のうえ、傷だらけの巽はそこから一歩たりとも動くことはできない。


「野郎……!」

 どこにそんな力が残されていたのだろうか、斉彬は力強く立ち上がった。そして、立ち上がるときに拾い上げた拳大の石を全力でドラゴンに投げつける。


「男同士の戦いの最中に女の方を見てんじゃねえ!」

 斉彬の投げた石は一直線にドラゴンに飛んでいき、その顔に命中した。ぼこっという鈍い音がして、ドラゴンの口から黒い霧が漏れた。


 黒いドラゴンが怒りの形相で斉彬を睨む。その口に黒い粒子が集まっていく。


『ありがとうございます。……ごめんなさい』


 黒いドラゴンが口腔内に溜まった暗黒の霧を勢いよく吐き出した。呪われた闇の霧が斉彬に殺到する。それは全てを腐らせる死の霧。

 闇に包まれる中でも斉彬は決して目の前の強者から目をそらさなかった。そして、ありったけの想いを込めて叫ぶ――


「こよりさん……。生きろ! 幸せにな……れ……」


 体も心も大きな三年生は、その最後の瞬間まで想い人のことだけを考え、そして散った。

 直後、巽の術が完成してドラゴンは石となり、巽は倒れ、大広間に静寂が戻った。




 竜のブレスが斉彬を飲み込むまさにその瞬間、“戌”のほこらへと通じる洞窟の入り口が崩れ、中の人々が顔を出したのはその時だった。


「斉彬くん……!! 斉彬くぅぅぅぅぅぅん……! あああ……あああああああああああああああっ……!!」

 泣き崩れるこよりに、その場のだれも声をかけてあげることはできなかった。

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