森斉彬5

 ゴンに教えてもらった狭い通路を這って進んでいく。コボルト達がほこらの掃除などに使うための通用口なので、とにかく狭い。制服のズボンが泥だらけになってしまっていたが、そんなことに構っていられる状況ではなかった。


 このままでは間違いなくこよりの命が脅かされる。斉彬を突き動かしているのはその危機感のみであった。今、剣術部を半壊させた“鬼”を一撃で葬り去ったドラゴン――斉彬はまだその姿を見ていない――の攻撃を最前線に立って一人で守っているのが彼の思い人である。


 愛剣〈デュランダルⅡ〉を持ち、真っ暗な通路を手探りで進んでいく。やがてその向こうに明るい場所が見えた。出口にたどり着いたのだ。


「よっ、と」

 穴から這い出してきた斉彬が大きく伸びをする。あたりは地下迷宮の中にもかかわらず木々が生い茂っており、それが良い感じにドラゴンからの視線を隠している。

 大きくのびをして縮こまった身体をほぐした斉彬は、木の陰からドラゴンの姿をのぞき込んだ。


「…………やべぇ」


 “戌”のほこらからはずいぶん歩いてきたために、三百メートルほどは離れているだろう。しかしここからでもわかるその威容。その力強さ、そしてその恐ろしさ。


 黒い竜は地下迷宮で最も広い――北高の校庭ほどもある――大広間の端におり、そこから垂直に切り立った壁に向けて熱心に黒いブレスを浴びせている。

 それだけを見ると壁にボールをぶつけて一人遊びをしている子供のように見えなくもないと斉彬は思ったが、その向こうには彼の愛する人がいて、今も命がけの攻防を続けていると思うと自然と身体に力が入る。


 側にあった岩を動かして穴から他の生徒達が出ないようにすると、斉彬は〈デュランダルⅡ〉を担いでおそるべき破壊の権化の方へ向けて歩いて行った。


「しかし、ここまで近づくとますますでけえな……」

 ドラゴンのすぐ側――二十メートルほどにまで近づいたが、見上げるほどの大きな身体に圧倒される。これはもはや生物ではなく、山か何かだ。


 ドラゴンから発せられる強烈な匂いにおもわずうっと唸る。

 ここまで近づいたというのに、黒竜は“戌”のほこらを攻撃するのに夢中で斉彬の存在に気づきもしない。今ここでドラゴンに斬りかかれば気づくだろうが、そんなことをしても無意味だ。


「さて、どうするか……」

 辺りを見回した。今いるのは地下迷宮でももっとも広い空洞の端、地上でいうと北高の敷地の一番西側にある部室棟よりもさらに西、〈竜海の森〉の木々の下に当たる。

 空洞はここから東に大きく広がっており、南側よりも北側が広い。


「よし」

 どうにかしてドラゴンの気を引いてここから空洞の北東の北に引っ張っていき、北東の隅に続いている通路に逃げ込む。そういうプランを立てた。


「問題はどうやってこのデカブツの気を引くかだが……ん?」

 斉彬の足元に何かがぶつかった。見ると、野球のボールが転がっていた。剣術部員達が地下の部室で遊んでいたものかもしれない。


「懐かしいな。よし、これをぶつけてみるか」

 去年の夏の日、甲子園のかかったあの試合で肩を壊して以来、野球のボールなど握ったことはなかった。しかしこのときボールの方から顔を見せてくれたことに斉彬は何か運命めいたものを感じていた。


 ドラゴンから五十メートルほど離れた。マトが大きいので、ここからでも外すことはないだろう。外野手はここより遙かに遠いところからバックホームでキャッチャーのミットめがけて投げるのだ。ピッチャーの自分が負けてはいられない。


 〈デュランダルⅡ〉を鞘から抜いてそばの地面に突き立てた。その横に立ち、大きな大きな黒い山を見る。

 ドラゴンは頭を低くしてその先にある壁に飽きもせずブレスを吹きかけている。黒いブレスが当たった壁は一瞬にしてボロボロに腐って崩れ落ちるが、次の瞬間新しい壁が地面から生えてきて元に戻る。


 今この瞬間もこよりは頑張っているのだと思うと嬉しくなった。


「待っていてくれ、こよりさん。今助けるからな」

 黒い竜をじっと見る。今この瞬間、地下迷宮は球場に、崩れる壁の音は歓声に、そして五十メートル先のドラゴンはキャッチャーのミットに見えた。


 大きく振りかぶって、第一球、投げた。

 危惧していたような肩の違和感はなかった。


「おおっ、結構イケんじゃねーか?」

 それは彼の十年以上にもなる野球人生の中でも、最速の一球だったのかもしれない。


 球はぐんぐんと速度を増し、一直線に黒い巨体へと吸い込まれていく。

 そして、鈍い音とともにドラゴンの右前足の付け根あたりにめり込んだと思うと、少ししてからボールが力なくこぼれ落ちた。


 しかし、ドラゴンの反応はない。相変わらず熱心に壁にブレスを吐いている。

「マジかよ。全然効いてないのか……!?」


 いや――




 ――グォォォォォオオォォォオォォォォオォォォォォ……!


 魂を射すくめるような咆吼。

 しかし、恋に燃える彼にその咆吼は自分の作戦がうまくいった合図でしかなかった。彼の魂はとうの昔に彼女に射すくめられており、こんなもので揺さぶられることはない。


「かかった……!」

 斉彬はすぐ隣に差してあった〈デュランダルⅡ〉を引き抜き、あらかじめ決めておいたポイントに向けて全速力で走り出した。


 ズシン、ズシンと足元を揺るがす音からあの巨体が斉彬めがけてやってきていることを知る。そしてその音が少しずつ大きくなっていることも。


「うぉりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」

 斉彬は全力で大広間の奥まで走り、そのまま近くに繋がる通路に入っていった。そこから三メートルくらい先にある横道に飛び込んだ。ドラゴンのブレスを警戒してのことである。


 一秒、二秒、三秒……。斉彬にとっては一秒が一分にも一時間にも感じられた。

 ドラゴンの大きな足音が聞こえなくなった。かと思ったら、また動き出した。しかしその音は徐々に小さくなっていく。


「げっ、マジかよ!」

 斉彬が通路の出口から顔を覗かせて様子を見ると、ドラゴンは斉彬に執着せずにそのまま元の場所――つまり、こよりがいる“戌”のほこらの方向――へと戻って行くではないか。


「くそっ。オレには興味ないってことかよ。そりゃ、オレよりこよりさんの方がいいってのはわかるけどよ」

 愚痴りながら斉彬は通路の中から出た。しかし黒竜は意に介さない。


「こっちだ! クソドラゴン! もう忘れたのか? お前の相手はオレだ! この鳥頭野郎!」

 〈デュランダルⅡ〉で近くの岩をガンガンと叩いて大きな音を出しながら竜を挑発する。


 しかし巨大な黒竜はその音が聞こえているのかいないのか、斉彬の存在を気にするそぶりもない。


「くそ……やるしかないか」

 腹をくくった。この強大な世界最強の種族をこの場に留めるためには、これと戦うしか道はない。


「いくぞ、オラァァァァァァァァァァ……!」

 裂帛の気合いとともに斉彬はドラゴンとのソロバトルに挑んだ。

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