森斉彬2

 慎一郎は見た。

 極限まで圧縮された暗黒の霧が“鬼”と、鬼と対峙していた港高剣術部部長の金子、それに金子が守ろうとしていた多くの剣術部員たちに襲いかかっていくのを。


 ――オォォオォォォォォォォォォォォォォオォォォォォォオォォォオォォォ!!


 その直後の咆吼。比喩でも何でもなく、文字通り魂が凍り付くような恐怖。それは闇の霧が飛んできたのと同じ方向から聞こえてきた。

 思わずそちらを見た。見なければ良かった。


 慎一郎達がいる地下迷宮内の巨大な空洞の反対側、およそ四百メートルほど離れたところにいる。


 今まで見たことのある、どんな生物よりも大きな巨躯、薄暗い地下迷宮の中でも一際黒く見えるその胴体からは図太い四本の足とさらに太くて長い尾、一対の大きな羽根。首筋には何枚もの尖った鱗が生えている。

 巨体に比して頭は比較的に小さいが、その口からは触れただけですべてのものを噛み砕いてしまいそうな牙が数十本もずらりと並んでいる。

 大きさも色も異なるが、あれは春のあの日に夢で見た生物と同じ種類だった。


 世界最強の種族、ドラゴン――


 その黄色く鋭く輝く瞳からは知性の光が抜け落ちているようにも見える。ドラゴンは世界最強の種族であると同時に、世界で最も知性に優れた種族であるとも言われている。しかしあのドラゴンから知性を感じることはなく、ただ闇雲に尾と首を振り回しているだけのようにしか見えない。


 漆黒のドラゴンはその丸太のように太い足を一歩踏み出す。するとそれだけでズシンという振動がここまで伝わってきた。


『今すぐ逃げるんじゃ、シンイチロウ! 全速力で走らねば死ぬぞ!』

 頭の中でメリュジーヌが叫んだ。


 しかし慎一郎の足は動かない。メリュジーヌが何かを言っていることはわかったが、何を言っているのか理解できなかった。


『どうした、シンイチロウ! 早く逃げよ!」

「何言ってるんだよ……。か、金子さんを助けなきゃ……」

 言って、金子が戦っていた所を指さしたところで愕然とした。


 

 一瞬前まで金子が横たわる怪我人達を守るように鬼と戦っていたその場所には誰もいなかったのである。


『奴のブレスは全てを腐らせる毒のブレスじゃ。なんの対策もなしに直撃を受ければ全てが腐り落ちる。残念じゃが、生存は絶望的じゃ』

「な、何言ってんだよ。冗談きついぞ、メリュジーヌ。そんな、金子さんが……」

 死ぬ、とは言えなかった。言ってしまうとそれが現実になってしまうかのようで怖かった。


 慎一郎は意識を失った怪我人を背負ったままふらふらとさっきまで金子がいたところに向けて一歩を踏み出した。

「…………!」


 見てしまった。地面から生えている、高さ一メートルくらいの炭化した二本の棒。長靴を置きっぱなしにしているかのようにも見えるそれは、もしかすると膝より上が消失した鬼の足ではないのか?

 そしてその前に広がる黒いシミのようなものは……。


「おえぇぇぇぇぇぇぇっ……」

 酸っぱいものがこみ上げてきて、慎一郎はその場で胃の中のものを全て吐き出してしまった。


『シンイチロウ!』

 再びメリュジーヌの叫び声が脳内に響いた。いや、今までもメリュジーヌはずっと慎一郎を呼びかけていたのかもしれない。ただ、慎一郎がそれを認めなかっただけで。


 ズシン、ズシン。ドラゴンの足音は今も響いている。しかしドラゴンは慎一郎達に興味を持っていないのか、あさっての方向へと歩き出していた。

『今じゃ! 奴の注意がこちらにないうちに逃げるぞ! ひとまずユキナ達と合流する!』

「だ、だけど……」


 慎一郎は動かなかった。いや、足が震えて動けなかったのだ。今まで強力なモンスターの前に何度も危ない目に遭ってきた。自分よりも確実に強いモンスターもいた。しかし動けないということは一度もなかったのだ。


 わしがシンイチロウの身体を使うしかないか……。

 メリュジーヌは不本意ながらもそう考えた。自らに課した禁を破ることになるが、この前途有望な若者の未来をここで閉ざすわけにはいかない。


 その時、慎一郎の目の前にふらりと人影が現れた。

 少年は慎一郎の目の前に立つと、慎一郎の腹に軽くパンチを食らわせた。


「…………!?」

 徹は鋭い目で慎一郎を見た。


「しっかりしろ、慎一郎! 今お前が歩かないと、お前だけじゃない、背負っているそいつも命を落とすことになるんだぞ!」


 慎一郎ははっとなった。今彼に背負われているこの男子生徒。

 意識はないが、しっかりと息はしているし、暖かさも感じる。そして心臓の鼓動――


『シンイチロウよ。なんならわしが歩いてもよいぞ』

 心配そうに訴えるメリュジーヌを徹が笑顔で制した。


「いや、大丈夫。こいつはそんなヤワな奴じゃない。おれが見込んだ親友だ」

 徹の言葉を証明するように慎一郎が一歩を歩き出した。彼自身の意思で。


「走るぞ、徹。遅れるなよ」

「はっ! 普段後衛だからって、甘く見るなよ。こう見えても中学の時までは毎朝十キロ走ってたんだ!」

 慎一郎と徹は、お互いが背負っている剣術部の部員を背負い直すとその場をあとにした。そこで戦っていた金子や剣術部員達の記憶を胸に残して。

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