猿も木から落ちる7
牢を出た慎一郎は暗闇の中で暴れるコカトリスには目もくれず。反対方向に走り出した。
コカトリスの石化の視線――それは神経に作用する魔法だ。
コカトリスの目に魔法的な機構があり、光を媒介として対象の目から神経に作用して石化の効力を及ぼす。
そのため、コカトリスの目と対象の間に障害物があったり、または光が全くない状態だったりすると効力を及ぼさない。通路のたいまつを落として光源をなくしたのはこのためだ。
この状態でコカトリスが自分の頭を覆っているゴーレムの覆いを破壊しても媒介となる光源がないために石化は発動しない。
石化に対して自由になった代わりに行動の自由が奪われた――人は光がないと動くこともままならない――通路をただひとり、〈暗視〉の魔法で視野が確保されている慎一郎が走る。
目指すはこの地下牢の手前側の終端、ここに入ってきた階段だ。
慎一郎は足元をしっかりと見て足場を確認しながら階段を駆け上がる。瑠璃にかけられていた魔法はすっかりその効力を失い、その足は主人の要求する速度を十分に満たしていた。
毎日の迷宮探索で鍛えられた脚力で一気に階段を駆け上がるとそこは目的地。地下牢からあまり距離がなくて良かったと慎一郎は思う。
『あそこじゃ!』
慎一郎と視覚を共有しており、この暗闇の中でも周囲を見通せるメリュジーヌのアバターが部屋――ファンシーに飾り付けられた瑠璃の部屋の一点を指さす。
途中、テーブルに足をぶつけてしまい、置きっぱなしになっていたマグカップを倒してしまったが気にせず目的のものがある棚の前へ向かう。
「うっ……取れない……?」
ただ棚の上に置いてあるだけかと思われたそれは、意外にも壁に固定されており、持ち上げることができない。
『構わぬ。無理やり引き剥がせ』
言われるまでもなく、慎一郎は壁に固定されたそれを無理やり引き剥がした。木が割れるメキメキという音が聞こえてくるが、この緊急時に気にしていられる余裕はない。
力任せに引き剥がした甲斐もあり、目的のものを取り外すことに成功した。念のために状態を確認するが、問題はなさそうだ。
「戻るぞ」
『急げ。コカトリスがまかり間違って牢の中に首でも突っ込んだらことじゃ』
「わかってる!」
慎一郎は来たときと同じように――いや、それよりも早く瑠璃の部屋から地下牢へと続くらせん階段を駆け下りていった。
楓がたいまつの明かりをすべて消した直後くらいから、コカトリスの動きは激しくなっていた。
手当たり次第暴れ回って通路を破壊している。時折、頭も壁に打ちつけているようで、石と石とがぶつかり合う音が聞こえている。
「もうコカトリスの頭の覆いは壊れてるわ」
コカトリスの頭を覆っている石のカーテンを作成したこよりが報告した。もはや頼みの綱は瑠璃の部屋に戻った慎一郎のみだ。
「浅村くん、お願い……!」
牢の隅で固まっている一団のうち、こよりにしがみつく格好の楓が祈った。
しかし、その祈りをあざ笑うかのように巨大なニワトリはこちらへと近づいてきていた。
そしてついに、牢全体を震わせる振動と耳をつんざくような轟音とともにコカトリスの蹴りが彼らが身を潜めている入り口を破壊した。
「ひっ……!」
女子達の息を呑むような声。
鉄格子はひしゃげてコカトリスの下敷きになり、石の壁はばらばらに吹き飛んでその破片が部員達の身体に降り注ぐ。
(慎一郎……まだか……!)
声には出せない徹の叫びは、しかし全員の共通した思いでもあった。
その時、待ちに待った相手が現れた。
「徹、戻ったぞ! 明かりを……!」
「光よ!」
慎一郎の叫び声と同時に通路の中に置かれた魔法陣の上に〈光球〉の魔法が発生した。先ほど慎一郎が飛び出したときに置いていったものである。
――コケェェェェェッ!
突然現れたまばゆい光にコカトリスは一瞬たじろぐが、すぐに彼の目の前に居る小さな生き物の存在を確認した。
自分以外に動く存在を許してはならない――
狂える〈守護聖獣〉はその小さな生き物を睨みつける。それだけでいい。コカトリスの視線は石化をもたらす。これまでそうやって自分以外を石にしてきた。これで再び何も動かない平穏な日々が――
コカトリスの思考はそこで停止した。
「もう大丈夫だ。出てきてもいいぞ」
慎一郎が呼びかけると、破壊された牢から仲間達が次々に出てきた。
「どうやら、うまくいったみたいだな」
徹に肩を借りた斉彬が牢のすぐ前に鎮座している巨大なニワトリの石像を見上げて言った。
彼の足の石化はすでに止まっている。時間が経てば石化してしまった部分も元に戻るだろう。
『咄嗟の機転にしては、うまくいったようじゃの』
慎一郎の持つ両手で抱えるくらいの大きな鏡を見てメリュジーヌが感想を漏らした。
瑠璃の部屋に鏡台があることを思いだした慎一郎は、それを利用してコカトリスに自分自身を見せてコカトリス自身を石化させたのだ。
「あー、松坂さん?」
「瑠璃でいいわよ、ダーリン」
「ダーリンはちょっと……。じゃなくって、鏡、壊しちゃった。ごめん」
慎一郎は鏡を撮りに行くときに破壊してしまった鏡を瑠璃に見せて頭を下げる。
「いいわよ、それくらい。こっちこそ、ありがとう。あたしのミスをフォローしてくれて」
先ほどまでの険しい表情はそこにはなく、瑠璃は柔らかい笑顔で微笑んだ。
「それより、これどうするの?」
結希奈が巨大な石像の足をコン、と叩いた。
「斉彬さんの石化が解けるなら、こいつ自身の石化も解けるんじゃ?」
『うむ、じゃからな。シンイチロウ』
「わかった。みんな、少し離れてて」
慎一郎は牢の中に置いてきた〈エクスカリバーⅡ〉を構えると、一見、無造作にも見えるように何度か振った。
キン、と慎一郎が〈エクスカリバーⅡ〉を鞘に戻す音が通路に響くと、それを合図としたかのようにニワトリの石像にいくつもの線が現れ、そこを境に石像が崩れていく。
「ほう……」
斉彬が感心したような声を上げる。石像はそのまま原形を留めぬままばらばらに崩れ去った。
ほんの数ヶ月前にはまぐれで竹を斬るのがやっとだった慎一郎の腕前は、今や石像を難なく両断するほどにまで高まっていた。
「じゃあ、帰ろうか」
慎一郎がそう言うと、こよりが「あ」と声を上げた。皆が一斉にこよりに注目する。
「外崎さんに連絡するの忘れてた。きっとまだ部室で待ってるはずよ」
そう言われて視界の隅に常駐している時計を見た。午前二時。
部室に帰ったとき、姫子に泣いて怒られたことを、この件の最後の出来事として記さないわけにはいかないだろう。
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