伝説の樹の下で5

 “伝説の樹”とは、校舎裏にある小高い丘の上に一本だけ立っている木だ。

 ゲームだか映画だかの影響を受けてその下で告白すると恋愛が成就するらしいと、その手の話題に鈍いおれでも知っているくらい有名な噂だ。


 まだまだ強烈な秋の日差しにじんわりと汗ばんだところに少しだけ涼しくなった風がその汗を拭ってくれて気持ちがいい。


 無言のまま丘を登っていくとふと奇妙な感覚に囚われる。

 校舎の裏は一面の木々が広がっているのではなかったか?

 こんな丘も、丘の頂上に一本だけ生えた“伝説の樹”などもなかったのではないか?


 またあの違和感なのではないかと頭を振ってその奇妙な感覚を振り払う。現に丘は校舎裏に存在するし、目の前に“伝説の樹”は生えているではないか。


 そうしている間に丘の頂上近くまでたどり着いた。そこには確かに“伝説の樹”が堂々とそびえ立っている。

 なぜこの木が存在しないなどと思ったのだろうか……。先ほど囚われた奇妙な違和感はすでに頭の中から消えていた。


 あたらめて“伝説の樹”を仰ぎ見る。校内に生えている木の中ではそれほど大きいわけでもないが、丘の頂上に一本だけ立っているためか、神々しさを感じる。確かに、ここで告白するとうまくいくと考える人はいるかもしれない。


 その証拠に生徒会の森先輩に聞いた話によると、毎年卒業式になるとこの場所は駆け込みで告白する男女でごった返しになるらしいが、さすがに今日この時間には誰も居ない。


「徹? まだ来てないのか?」

 あたりを見渡しながら隠れているかもしれない徹に声をかけた。


「なんだよ、気づいてたのか」

 そう言いながら徹が出てくるのを期待したが、想像した声は聞こえず、その代わりに木の向こうから小柄な影が現れたのが見えた。


「…………瑠璃?」

 大きな瞳に卵形の顔つき。短く切りそろえた髪が夕方の涼しい風に揺れている。そこに現れたのはクラスメイトの――“仲良し三人組”と他のクラスメイトから言われている松坂瑠璃だった。

 再びおれの心臓が大きく跳ね上がる。徹のイタズラじゃなかった……?


「あの手紙、瑠璃……なのか?」

 瑠璃は“伝説の樹”からこちらへ一歩、また一歩と歩み寄ってくる。そのたびにおれの心臓は大きく跳ね上がる。


「うん。そうだよ」

 小柄な瑠璃はこちらを上目遣いで見ながらそう答えた。形の良い唇が薄くつり上がる。


「あ、あんな手紙を置かなくても、教室で直接言えば……」

 今まで瑠璃をそういう対象として見たことはない。しかし、あんな手紙を受け取って、“伝説の樹”の下に出てきたという状況に意識するなという方が無理な話だ。


 顔が赤くなるのが自分でもわかる。目の前で立ち止まった瑠璃が気づかないはずがない。

 瑠璃は目の前、それこそ抱きしめられるくらい近くまでやってきた。


 瑠璃は頭一つ分以上もおれより小さい。そんな小さな瑠璃がおれの顔を見ようとすると、どうしても上目遣いになる。

 それが破壊的なまでにかわいい。


 抱きしめたら折れてしまいそうなほど華奢な身体。

 おれは抱きしめたくなる衝動と必死に戦っていた。


「ねえ、浅村君――」

 形のいい唇がおれの名を呼んだ。それだけで頭が痺れ、何も考えられなくなる。


「どうだった?」

「な、何が……?」

「普通に学校に通って、授業を受けて、仲のいい男友達や女友達としゃべって、時には騒ぎを起こして怒られたり笑ったり、そしてかわいい女の子に告白される――」

 瑠璃がにやりと笑う。蠱惑的な表情がおれの理性を根こそぎ奪っていくようだ。


「そういう、普通の学校生活……良くない?」

「ああ、いいと思う」

「これからもずっと、こういう生活を送っていきたくない?」

「送っていきたいな」


 もはや、自分でも何を言っているのかわからない。ただ、瑠璃の言うとおりに頷いていればいい。そんな安心感だけがあった。


「なら――」

 おれの腰のあたりに圧力がかかった。優しくて、柔らかい圧力。

 瑠璃がおれを抱きしめたのだ。


「私を抱きしめて。ひとつに、なろ。そうすればずっとこの生活を……平和で楽しい日々を送られるよ。送ろう?」

 瑠璃の声は甘い麻薬となっておれの脳を満たしていく。言われるがままおれは手を伸ばし、瑠璃を抱きしめ――


 その時、こちらにやってくる人影が見えた。


 “伝説の樹”が生えている丘を目指してゆっくりと登ってくるひとつの影。北高の制服を着ている女子生徒だ。

 彼女はこちらをまっすぐと見つめながら歩いてくる。その表情は極めて険しい。何に怒っているのかはわからないが、何かに怒っていることだけはわかった。


 瑠璃を抱きしめようとした手が止まった。その銀髪の女子生徒に見すくめられた途端、まるで金縛りに遭ったように――いや、逆だ。頭のもやが晴れて、自分の力でものが考えられるようになり、自らの意思で瑠璃を抱きしめようとしている手を止めた。


「…………? どうしたの?」

 瑠璃がかわいらしい顔で首をかしげ、上目遣いでおれの顔をのぞき込んでくる。


 しかしもう惑わされない。心臓の鼓動も、顔のほてりも消えた。はっきりと自分の行動は自分のものだと責任を持って断言できる。

 おれはおれの身体を抱きしめる瑠璃の肩を持った。


「浅村……君……?」

 あどけない表情でこちらを見つめてくる瑠璃。

 しかし、もう騙されない。


 おれは瑠璃の身体をそっと離し、そして言う。決別の言葉を。

「悪い。おれはお前とは一緒に行けない。おれの普通の学校生活は、おれ自身の手で取り戻す」


 瑠璃の肩から手を離して、右手を伸ばす。その向こうから歩いてきた銀髪の少女――メリュジーヌに。


『帰るぞ。元の世界に』

 次の瞬間、世界が暗転した。

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