猿も木から落ちる
猿も木から落ちる1
聖歴2026年9月23日(水)
慎一郎が目を開いたとき、世界は青白く染まっていた。
世界を青白く光らせている主体は彼の目の前で輝く複雑な紋様――魔法陣だ。その魔法陣は慎一郎の額に今にも当てられようとしている手のひらに浮かび上がっている。
「あら、目が覚めちゃった」
かわいらしい女の子の声がした。
その方向に意識を向けると、手のひらの後ろに顔が見えた。
卵形の輪郭に大きな瞳、短く切りそろえた髪。北高の標準の制服――ただし冬服だ。よく見ると左手には白い手袋が嵌められているのが見える――そして、額には手のひらと同じ魔法陣が浮かび上がっている。
「松坂……瑠璃……」
慎一郎は夢の中で度々登場した記憶にない少女の名を呼んだ。
それに対して少女はにやりと笑う。
「当たり。覚えてたんだ。ふふふ」
その表情はあの“伝説の樹”で見せたものと同じ魅惑的な笑顔だったが、あの悪夢を振り切った慎一郎は心動かされることはない。
「あの夢の中にずっと浸っていれば良かったのに。そうすれば苦痛を感じないまま、終わりにできたのにね」
少女――松坂瑠璃はぺろりと唇を舐めた。その表情は小さな子供がいたずらをするときのようにも、捕食者が獲物を前にしてみせる舌なめずりにも見える。
「あなたの身体、いただいちゃいまーす♡」
瑠璃が慎一郎の額を魔法陣の浮かんだ手のひらでつかむ。その瞬間、瑠璃の右手と額に浮かぶ魔法陣はさらに激しく輝き、そこから何か不愉快なものが慎一郎の中に入ってくるのを感じた。
「……………………!!」
手のひらから逃れるようにもがく慎一郎。しかしベッドの上に横たえられているだけのように思えたその身体はまるで全身を縄で縛られているかのようにぴくりとも動かない。
「うふふ。だぁめ♡」
青く輝く世界の中、瑠璃の甘い声だけが慎一郎の世界を満たす。
「魔法で身体の自由を奪ってるの。無駄なことはやめて、素直になりなさい」
「おれに何を……」
そう聞くと、瑠璃は慎一郎の顔を掴んでいた右手を離した。いつの間にか手のひらと額に浮かんでいた魔法陣も消えている。
「そっか。せっかく協力してくれるんだから、ちゃんと説明しないとね。いけない、いけない」
瑠璃はかわいらしく自分の額をコツンと叩き、舌を出す。
「これからね、あなたの脳にあたしの意識を移すの。この身体、結構長いこと使ってたから、そろそろ替え時かなって」
まるで服を着替えるかのようにさらりと言ってのける瑠璃。
(意識を移す……? メリュジーヌがおれの〈副脳〉に召喚されたみたいにか? いや違う。メリュジーヌは〈副脳〉に召喚されたがこいつはおれの脳に自分の意識を移すと言っていた。それはつまり……)
慎一郎の意識は上書きされて消滅することを意味するのではないだろうか。それはすなわち、慎一郎にとって死を意味する。
「体質なのかしらね? あなた、他人の精神に対してびっくりするくらい無防備なのよ。ならちょうどいいからいただいちゃおうかなって、数ヶ月前から少しずつあたしの精神に慣らしていたってワケ。夢、見たでしょ?」
(無防備……? そうか、メリュジーヌが〈副脳〉にいるからか)
そこではたと気がついた。夢の中でも盛んに呼びかけてくれたあの銀髪の少女、普段は食べてばかりでてんで役に立たないが、ここぞというときに頼りになるあの竜王はどこに? あの夢の中では姿を見かけたが……。
〈副脳〉のケースが見当たらない。おそらく、〈副脳〉と本体である慎一郎が離れすぎてしまったので接続が切れ、メリュジーヌの声が聞こえないのだろう。
つまり、自力でなんとかしなければならない。このままでは身体を乗っ取られる。命を奪われる!
さっきから必死に身体を動かそうとし続けて徐々にわかったことだが、目は自分の意思で開くことができた。話をすることもできた。息をすることもできる。どうやら、首より上は動かすことができそうだ。
もう少し動かせないかと試みてみる。首が動いた。これで、あたりの状況を見渡すことができそうだ。
しかし――
「あら? 魔法の効果が薄れてきちゃったみたいね。今かけ直すから待っててね~♪」
(しまった! 首を動かしたのが瑠璃にバレてしまった!)
瑠璃は慎一郎が横たわるベッドから離れていった。身体の動きを封じる場法をかけ直すのに必要な何かを取りに行ったのだろう。
(今のうちに……!)
すべての力を振り絞って身体を動かそうとしたが、動いたのはやはり首だけだった。しかしそのおかげで今まで天井しか見えなかったその部屋の状況が目に飛び込んできた。
狭い部屋だ。天井もそうだったが、一面が石でできている。慎一郎はその隅のベッドに横たわっている。
部屋の中には縦に置かれた棺のようなものや鎖が上に置かれた汚いベッド、何かを掴むような道具や巨大な鋏などが置かれている机などがある。
拷問部屋だ。
全体的に薄暗くてほこりっぽい部屋の中をさらに見渡してみる。
さび付いた全身鎧や壁に立てかけられた剣や斧。天井から吊り下げられたロープに用途不明の道具などがある。
そうしているうちに部屋の隅で何事かしていた瑠璃が戻ってきた。
「さあ、おとなしくしててね~」
瑠璃が慎一郎の額に触れると、それまでなんとか動かすことのできた首から力が抜けて、操り人形のように頭がベッドの上に落ちた。
いくら力を込めても全く首が動かせない。
再び、瑠璃の右手のひらと額にあの魔法陣が浮かび上がった。慎一郎は気づいていないが、彼の額にも同じものが浮かび上がっている。
「じゃ、終わりにしようね。メチャクチャ苦しいかもしれないけど、起きてくるあなたが悪いんだからね」
「いや、終わりはお前の方だよ、松坂瑠璃」
慎一郎は不敵に笑った。
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