混迷への序曲2
暗闇の中を男と女が歩いている。
二人は光が一切差し込まない完全な闇の中を、まるでそこが光溢れる場所であるかのように何の躊躇もなくスタスタと歩いて行く。
男が早足でスタスタと歩き、女はそれに遅れまいと時折少し小走りになっている。
男女は暗闇の中をしばらく歩いた後、唐突に足を止めた。目的地の到着したのだ。
「そろそろ大丈夫なはずだ。術もうまく浸透しているし、魔力も十分溜まった」
男が枯れた声で言った。しかしそれは女に対して話したのではなく、ただ現状を確認するため声にしたに過ぎない。
「手はず通りにやれ。いいか、俺がいいと言うまで決してやめるんじゃねえぞ」
「…………はい」
男は女に対して指示を出した。それに対して女は感情のない声で答える。
何も考えず、ただ男の言葉に従うだけの返事。
それが男と女の関係性であった。
女――〈黒巫女〉は言われたままにその場に跪き、何かをぶつぶつと唱え始めた。
それは、知識のない者が聞けば神に祈りを捧げる祝詞のように聞こえたかもしれない。しかし、知識のある者が聞けば神を愚弄する言葉にしか聞こえなかっただろう。
だが、今はそのどちらもここにはいない。
いるのは暗闇の中で瞳をギラつかせている男と、光のない瞳で呪文を唱え続ける女だけだ。
〈黒巫女〉が呪文を続けると、やがて暗闇の中に複雑な魔法陣の紋様が浮かび上がってきた。しかしそれは決して光り輝いているのではない。暗闇の中にさらなる暗闇が現れ、結果的に周囲の暗闇が相対的に明るく見えるだけだ。
〈黒巫女〉の呪文詠唱は続く。
彼女の額からは汗が流れだし、息はどんどん荒くなっていく。
やがて身体に力が入らなくなったのか倒れ込んでしまったのか、それでも〈黒巫女〉は呪文を止めることはない。
男からやめるなと言われているからだ。今の彼女は男に対してどこまでも忠実で、たとえ死ねと言われたら喜んでその命をなげうつだろう。
「げほっ、げほっ……」
女が咳き込み、呪文が中断したがすぐに続ける。〈黒巫女〉は口から多量の血を吐き出したが、それを気にとめることなく呪文を続ける。額から流れ出しているのはいつしか汗ではなく血に変わっていた。
〈黒巫女〉は息も絶え絶えになっていた。口は動いているが、喉から声は発していない。すでに声を出すほどの体力も奪われてしまったのだ。
「…………もういい、やめろ」
男が命じて、女の口の動きは止まった。
「ちっ、まだ駄目か……。もっと強化しなきゃ駄目みたいだな。面倒くせぇ」
そして男は血を吐いて倒れた女をそこに残したまま立ち去ろうとした。途中立ち止まり、
「おい、お前がこぼしたモノ、ちゃんと掃除しておけよ。一応ここは“聖地”らしいからな。ケッ、馬鹿馬鹿しい」
とだけ言い残していった。その後男はそこに女がいることなど忘れたかのように一切気にすることなかった。
彼女の表情は一切変化がなかったが、途中、一度だけ口が動いた。
「…………る……ちゃ……」
一筋の涙が光る。
しばらくして女がもそもそと起き上がり、光のない瞳で命じられた通りそこを掃除し始めた。
もう、彼女の顔が感情で動くことはない。
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