混迷への序曲
混迷への序曲1
聖歴2026年8月29日(土)
「どうしたのかね、岡田君? 改まって
「改まっているのはそれだけ重要な話があるからだ。それくらい理解しているだろう? とぼけなくてもいい」
北高生徒会長、菊池一は何事かを書類に書き込んだ後、傍らにやってきた書記の生徒に「これを辻先生に」と渡した。書記の生徒は会計の生徒とともにそれを持って生徒会室を出た。
そこで初めて菊池は目の前に立つ女子生徒を見た。
小柄な体躯にふわふわの巻き毛。一見かわいらしい印象を受けるが、その他人を射すくめるような瞳を見た多くの人は怯むだろう。
晩夏ではあるがまだまだ暑い。にもかかわらずまるで軍服のような長裾の制服を汗ひとつかかずに着込み、左腕には黄色い腕章をつけている。そこには“風紀委員長”と書かれている。
岡田遙佳。北高風紀委員長。
北校封印直後は生徒の代表ということで菊池と共同歩調を取っており、彼を立てる立場にあった遙佳だが、その関係は日を重ねるごとに悪化していき、今ではほとんど対立状態にあると言ってもいい関係だ。
その原因は“規則”に対する考え方の違いにある。
生徒たちが少しでも円滑に生活できるように、現状に合わせて新しい校則を打ち立てていく生徒会長に対し、生徒会長に新しい校則を作る権限はないとする風紀委員長。
遙佳が菊池の作った新しい校則を“規約”と呼ぶのはこのためだ。
二人の間の溝は深く、歩み寄る気配はない。
その二人が今、生徒会長の大机を挟んで対峙している。見る者が見ればその間に火花が散っているように見える――ただし、遙佳から菊池への一方通行だが――だろうし、気の弱い者が見れば失神してしまうかもしれない。それほど苛烈だ。
しかし、今生徒会室にそのような者はいない。二人の対立はすでに日常的になっている。書記と会計は菊池に書類を託されたことをいいことに早々に生徒会室から逃げ出していった。
今ここにいるのは菊池、遙佳の他には副会長のイブリースだけだ。
そのイブリースは青白く整った顔を険しく歪ませ、遙佳を睨みつけている。しかし菊池の方を向いている遙佳はどこ吹く風で全く受けつけない。
「…………聞こうか?」
菊池は次の書類を脇に置き、机の上で軽く手を組んで遙佳に向き合った。
「生徒会長選挙の実施を求める」
笑みをたたえる菊池に対して何の表情も変えず、直立不動の体勢のまま遙佳は菊池に要求する。
「校則では生徒会役員は文化祭最終日の翌日から翌年の文化祭までとしている。今年の四月に決められた年間予定によれば文化祭は十月一日から四日までだ。そろそろ選挙の準備を――」
「生徒会選挙は実施しない」
遙佳の要求に対して菊池は遮るように言い切った。
「やはりそうか」
遙佳の表情は揺るがない。そうであろうと予想した上でここに来ているのだ。
「念のために聞く。貴様、自分で何を言ったのか理解しているか?」
「もちろん」
あまりにも呆気なく答える――遙佳にとってみればだが――菊池に遙佳は呆れかえる。
「定められた任期を守らず、誰の許可を得ないままその職に居座る――それは独裁者そのままである。わかっているのか?」
「もちろん――」
菊池は席を立ち上がり、背後の窓に向かう。そこから外の様子をうかがいながら、
「次回の部長会でこのことは議題に挙げる。今の北高の現状から、僕の提案は賛成多数で認められるだろう」
「教員の……最高指導責任者である辻教諭の許可は得ているのか?」
「辻先生は全て僕に任せるとおっしゃった。つまりはそういうことだ」
「それは与えられた権利の濫用だろう。貴様の独断で決めていい話ではない」
「もちろん、辻先生にはあらかじめ話しているよ。そして、許可を得た」
菊池は振り向き、遙佳の方を見る。
「なん……だと……?」
遙佳の表情が初めて歪んだ。遙佳は菊池の行動を独断専行だと思っていた。しかし、彼は遙佳の思うよりはるかに用意周到だった。
菊池を睨む。視線だけで人が殺せるなら死者が出たかもしれない。それほどの鋭い目つきだ。
「私は認めんぞ」
「構わないよ。日本は民主主義国家でこの北高も民主主義を基本に運営されている。そこでは多数の意見こそが尊重される」
「全校が揃うことのない状況での多数など……」
「それは君の主張する生徒会長選挙でも同様だと思うが?」
「…………っ!」
菊池の指摘に遙佳は歯噛みする。
「とにかく、選挙を行わないことに関しては納得ができん! 私は独自に生徒会長選挙を執り行わせてもらう!」
「それこそ職権濫用ではないのかね? 生徒会役員選挙の実施は生徒会の専権事項だ」
「暴走している生徒会長を止めるのは学内の治安を維持する風紀委員の役目である!」
そう宣言すると遙佳は生徒会室を出て行った。生徒会室の扉をぴしゃりと閉める音の大きさが今の彼女と菊池の関係を物語っているようだった。
「会長。いかが致しましょう? 私の方で処理しても」
遙佳が去った後、静けさを取り戻した生徒会室でただひとり二人の対峙を目の当たりにしていたイブリースが菊池に聞いた。
「……いや、その必要はない。すでに主要な部に対しての根回しは済んでいる。今更風紀委員会が単独で動いても生徒たちの支持は得られないだろう」
「あくまで民主的に、ということですか?」
「そうだ。全ては北校生たちの平穏な生活のために」
「平穏な生活……ですか」
「平穏な生活、だ」
昼下がりの夏の太陽が生徒会室に差し込み、生徒会長を照らす。
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