竜虎相搏つ2

 ”……来ないね”

 結希奈のきれいな字がメモ帳の上に乗る。


 ”ここまでどうやって来ればいいか、探しながらだから仕方がないよ”

 あれから何十時間も経ったかのように思われるが、脳内で常時起動している時計アプリの表示によると、落ちてからまだ二時間くらいしか経過していないようだ。


 二人は音を出さないようにしつつ、岩の影のくぼみに身を寄せ合うように腰掛けていた。いざというときのために体力を温存しようという結希奈の提案だ。


 緊張は長くは続かない。くぅ、と慎一郎のお腹が鳴り、結希奈がくすりと笑った。そういえばランチタイムはすっかり過ぎてしまっている。

 ”ごめんね、落ちるときに荷物全部落としちゃって、食べ物も飲み物もないの”

 と書く結希奈に慎一郎は微笑みながら首を振った。


 正直言うと血を流したせいで体力がなく、何か口に入れておきたかったが、ないものは仕方がない。このまま徹を信じて待つほかにない。


 徹といえばあれから連絡はない。こちらからの状況を伝えられない以上、緊密な連絡は必要ないからなのか、それとも、徹たちの身に何かがあったのか……。

 確かめられもしないことを不安に思って頭がぐるぐるする。頭を振って不安を払拭しようとするが、不安は次から次へと湧いてくる。


 徹たちのことだけではない。今の自分たち、メリュジーヌの不在、トラがいつ自分たちの存在に気がつくか……。

 そんな不安が顔に出ていたのだろうか。結希奈は話題を変えるようにメモ帳に何かを書き始めた。


 ”ねえ、さっきのことなんだけど……”

 ”さっき?”

 ”さっき、助けてくれたとき、あたしのこと……”

 ”?”

 ”その、名前で呼んだでしょ? 結希奈って”


「は!?」


 声が出た。慌てて手で口を塞いだが、それで出てしまった声が消えるわけではない。


 そのまま身を潜める。しばらく待ったが、トラは相変わらず部屋の中で暴れているようで、音が移動している様子はない。


 二人は安堵の息をついた。


 緊張が解かれると、先ほどのメモの内容が気になる。

 もう一度見てみるが、”結希奈”の文字はそこに消えることなく書かれている。

 ”そんなこと言ったっけ……?”


 メモ帳での会話を続ける。会話の内容が気になったと言うこともあるが、目と鼻の先で強大なモンスターが暴れているという現状から少しでも目を逸らしたかったということもあるのかもしれない。


 ”うん。あたしを庇うときにね”

 慎一郎が背中にトラの攻撃を受けたときだ。あの時、トラが結希奈に攻撃しようとしていたのを見て、咄嗟に結希奈を庇った。その時に口にしていたのかもしれない。


 そう思って鉛筆を取り、メモに文字を走らせる。

 ”気を悪くしたなら謝るよ。とっさのことで覚えてないんだ。口を突いて出ちゃったんだと思う”


 そして、書き足した。

 ”ごめん”


 しかし、それを見た結希奈は驚いたようにメモを慎一郎からひったくって文章を書く。


 ”怒ってるわけじゃなくて”

 そして結希奈は「ううん……」と少し考えてから文字を加えた。


 ”あたしも、浅村のこと慎一郎って呼んでいいかな?”


(えぇっ!?)


 今度は声を出さずに済んだ。しかし、驚きは先ほど以上だ。

 慎一郎は結希奈からメモ帳を奪い取るようにして受け取って文字を綴る。


 ”どうして?”

 その字は震えていた。文字では”どうして”だったが、声に出して話したなら「ど、どどどどどどうして?」くらいだったかもしれない。


 ”浅村って高橋さん、細川さんでなんかよそよそしいって前から思ってたんだよね”


 そんなことを思っていたのか……。

 慎一郎は鉛筆を取って文字を綴った。よそよそしさを感じさせないように、簡潔に。


 ”いいよ”


 結希奈の顔に笑顔が広がった。こんな地下深くで身を隠しているのに、太陽のように明るくて暖かいと思った。


 しかし、次の瞬間、慎一郎の表情は凍り付く。

 ”じゃあ、あたしのこともさっきみたいに結希奈って呼んでね”


(え……!)


 今度も何とか声は出さずに済んだ。




 更に一時間ほどが経った。徹たちが来る気配もなく、トラは相変わらず部屋の反対側で暴れている。


 時折、この部屋に巡回に来るモンスターがいる。それらのモンスターとトラは戦っているようだが、トラに適うモンスターがいるわけでもなく、すべて倒されるか、良くて半死半生で逃げ出すのが精一杯であった。

 今も岩の向こうでモンスター同士が争っている。


 ――グワァァァッ!

 ――きゅるるるるるる!


 トラのモンスターと、かなり小柄と思われるモンスター――おそらく複数――が戦っている。先ほどから両者の鳴き声と、そして攻撃が地下迷宮の床や壁に当たる音が響いてくる。


 腹の底から響くようなその音がするたびに結希奈は身をすくませる。無理もない。目と鼻の先と言っていい距離で凶悪なモンスター同士が戦っているのだから。


 しかし、二人には息をひそめて嵐が過ぎ去るのを待つ以外にできることはない。両者が相打ちになってくれるか、そうでなくても勝ったほうが満身創痍になってくれることを願うばかりだ。


 しかし、その願いは早々に打ち砕かれる。


 ――ぎゃぅぅぅぅぅっ……!

 甲高い悲鳴と何かがたたきつけられる音。


 それで均衡が破れたのだろう。甲高い悲鳴が立て続けに起こる。

 小柄なモンスターがいたぶられ、壁にたたきつけられる音が聞こえる。そのうちの一匹がこちらに向かって飛ばされてきた。


(ひっ……!)

 結希奈が息をのんだ。慎一郎たちが隠れている岩のそばまで転がってきたそれは頭に角を一本生やした、小さなクマのモンスターだった。


 まるで放り投げられたぬいぐるみのように飛んできたそれは、ぐったりして全く動かない。よく見ると首があり得ない方向に曲がっているのがわかった。


 ――グゥワワワワワワワ……!


 まるで勝利を誇示するかのように虎が吠える。

 しかし、それは新たな戦いの号砲でしかなかった。


 ――グォォォォォォォ……!


 別の方向とともにズシン、ズシンという思い足音が接近してくる。そしてすぐに重い、肉同士が激しくぶつかる音。


 ――ガゥアァァァァ!

 ――ガウォォォォォォ……!


 おそらく巨大なモンスター同士が戦っている音だろう。バタン、バタンと巨体がたたきつけられる音がする。

 状況がわからないのは危険だ。これほどのモンスターたちの戦いに巻き込まれてしまったらただでは済まない。

 そう思って岩陰から身を乗り出して外の様子を確かめる。


 その瞬間だった。


「――!! 危ない!」

 慎一郎は瞬時の判断で結希奈に飛びかかり、結希奈とともに岩陰から飛び退いた。

 それはトラの前に身をさらす自殺行為だ。一瞬前ならば。


 慎一郎が飛び退いた直後、巨大な肉塊が今まで身を隠していた岩を押しつぶすように降ってきた。


「…………」

 驚きの表情で潰された岩と潰したモンスターたちを見つめる結希奈。

「あ、ありがと……」

 結希奈がそんな間抜けな言葉を言ってしまったのは、未だ状況が飲み込めていないからだろう。


 つい一瞬前まで彼女たちが身を潜めていた岩のあった場所には黒い巨大なモンスターと、その首筋に食らいつくモンスター。


 ――ガウウウウウウウウ!!


 トラのモンスターと戦っていたのは先ほどのとは異なり、巨大なクマのモンスター。小さなクマのモンスターと同じように頭に角を生やしている。

 もしかすると小さなクマの親だったのかもしれない。


 しかし、その大きなクマのモンスターは今、トラのモンスターに首を食い破られている。

 トラのモンスターはトドメとばかりに首を激しく振って、クマの首を食いちぎろうとしている。それは捕食者が獲物の息の根を止める動きだ。


 クマの赤い目は怒りに燃えていたが、やがてその光は消えていき、命の炎を消していった。


 ――ガウ、ガウ、ガウ!


 弱肉強食とはこのことだ。勝者であるトラは敗者であるクマのはらわたを食い破り、その肉体を食している。


 慎一郎は結希奈を抱きしめて、その光景が見えないようにした。しかし、結希奈はその腕を押しとどめ、自分の瞳でしっかりとその光景を見る。

 彼女はこの竜海の地の巫女だ。そこで起こったことはすべて受け止める。その決意を感じ取った。


(立てる?)

 小声で結希奈に聞いた。結希奈はこくりと頷くと、立ち上げって音を立てないよう、細心の注意を払ってその場から離れる。


 そのまま食事に夢中になっていてくれ……。そう願いながら少しずつ部屋の出口へと向かう。


 しかし、破壊の衝動に取り付かれた魔物にその願いは通じなかった。


 慎一郎たちが一歩を踏み出した瞬間、トラは怒りに満ちた黄色い瞳を二人に向けた。


 トラはゆるりと身体を起こすと、軽くジャンプした。


 軽くジャンプしたかのように思われたその行動だったが、そこには明確に殺意が込められていたのを慎一郎は感じ取った。

 慎一郎は咄嗟の判断で結希奈を後ろに突き飛ばした。

「きゃっ!」

 それは、少しでもトラから結希奈を離してやりたい、そういう想いから出た行動だった。


 ――ガルルルルルルル……


 体勢を低くして唸るトラの前に立ちはだかる慎一郎。

 武器はない。ここに落ちたときになくしてしまったようだ。戦士失格だと嗤う。


 身を低くして、じっとトラを睨む。ありったけの気合いを集めてトラに対してぶつける。ここで気後れしたら一瞬でやられる。そういう確信があった。


 もしかすると、慎一郎の気合いなどトラには全く効いていないのかもしれない。

 それでもと精一杯の強がりで目の前の白いトラに立ち向かう。

 不思議と恐怖は感じなかった。ただ、次に来るであろう攻撃をどうやっていなすか、それだけを考えていた。


 トラが身を低くして力を込める。次の瞬間、目にも止まらぬ速さでトラは慎一郎に飛びかかった。

 しかし、慎一郎は冷静にトラの動きを見定めていた。頭からかじりつこうとするトラの口を紙一重で回避する。


「……!!」

 だが、そこまでだった。そのままの流れで慎一郎の腰よりも太い前足が振り払われる。その直撃は慎一郎にとって致命的な一撃となる。


 ――が、その致命的な一瞬は訪れなかった。慎一郎をなぎ払ったであろう爪は彼の頬に触れた時点で止まり、頬から血の一滴がつつ、と流れ落ちただけだった。


 夢ではない。その証拠と言わんばかりに少し遅れてトラの前足によって巻き押さされた暴力的な風が慎一郎の頬を打った。




 コツ、コツ……。


 足音が聞こえた。部屋の外へと繋がる出口のある方から。

 トラはそちらの方に気を取られている。


 間違いない、致命的な一撃を止めたのはの存在だ。

 やってくるのは長身の人物。白い上着に赤い袴――結希奈と同じ服装の女性。


たつみさん……!?」

 結希奈の驚愕の声。


「お助けに参りました。浅村さん。そして――」

 その瞳はまっすぐトラを見つめている。

「結希奈さん」

 何の気負いもなく竜海神社の巫女――巽はトラの前に立った。

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