竜虎相搏つ

竜虎相搏つ1

                       聖歴2026年7月26日(日)


 もうろうとしていた意識は落下の衝撃によって断ち切られた。

 全身を強く打った痛みはまだ残っているが、先ほどトラから受けた背中のダメージはほとんど残っていない。結希奈が回復してくれたのだろう。


 慎一郎は落下の衝撃から素早く立ち直ると、当たりを慎重に見渡した。


 暗い。しかし崩落した天井から差し込むわずかな光――崩落前に使っていた〈光球〉の魔法がまだ残っているのだろう――のおかげで何とか辺りを見渡すことができる。


 慎一郎が落ちてきたのは教室三つ分くらいの大きさのある空間の隅だった。辺りには大小の崩落した岩がごろごろ転がっている。あれに当たらなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。


 ガン、ガンッ――!


 先ほどから部屋全体を揺らす衝撃と振動が伝わってくる。

 暗い空間に浮かび上がるのは自らを淡く光らせる白い巨体。一緒に崩落したあの白いトラのモンスターが部屋の反対側で暴れているのが見えた。


 ――ガウッ、ガゥゥゥゥッ!!


 トラが前足を振り下ろすたびに人の大きさほどもある岩のかたまりが粉々になり、固い岩壁に深々と爪痕が残る。

 思わず後ずさった。トラの瞳からは先ほどまでの理知的な輝きは消え失せ、破壊の衝動に飲まれているようだ。おそらく、目の前にあるものが何であれ、破壊しなければならない欲求に駆られているのだろう。


 これが“堕ちた”ということなのか――


 その時、肩を叩かれた。思わず身体全体がビクッと震えた。

 結希奈だった。彼女の巫女服は落下の影響でずいぶん薄汚れていたが、外傷はなく、服も破れてはいないようだ。巫女服の時にはいつもつけているウィッグは取れてしまったのか、いつものショートカットだ。


(こっちこっち)

 と、声を出さずに、慎一郎を手招きして誘導する。


 結希奈は音を立てないよう、静かに慎一郎を近くに落ちていた岩の影に連れて行った。

 そこは少しくぼんでおり、身を隠すのには最適だ。二人は身を押し込むように身を隠す。


「高橋さん、これはいった……むぎゅ!」

 結希奈が慎一郎の口を慌てて塞いだ。


(静かに……!)

 結希奈は口元に人差し指を当てて、その旨慎一郎に伝える。


 部屋の奥にいるトラは物音に一瞬こちらを見たが、やがて何も見つけられなかったのか、それとも何かを探すことに飽きたのか、再び吠えながらあたりの岩を破壊し始めた。


 そんな状況であるにもかかわらず、トラの感覚は鋭敏なようで、こちらが少しでも音を立てるとすぐに反応する。二人は岩陰で少しも身動きできない状態だった。


(ありがとう)

 と、言おうとして、慎一郎はポケットの中に入っているメモ帳の存在に気がついた。普段から迷宮探索の時には気づいたことなどを書き記しているメモ帳だ。


 暗くても使えるように、魔力を込めると淡く光るメモ帳に、鉛筆で”ありがとう”と書いた。


 しかし結希奈は何のことについて礼を言っているかわからない様子だったので、改めて『怪我を治してくれてありがとう』と書いた。

 すると結希奈は笑顔で首を振って、慎一郎の鉛筆を手に取り、”こちらこそ、助けてくれてありがとう”と書いてくれた。思わず笑みがこぼれた。


 そして結希奈は、”あいつがここからいなくなるまでここに隠れていよう”と書いたので、大きく頷いた。

 慎一郎の体力はごっそり奪われてしまったが、傷は概ね塞がっている。しばらくここで身を隠している分には問題ないだろう。




 五分ほど経ったが、トラは相変わらず地下迷宮を攻撃することに夢中で、部屋から出て行く気配はない。

 そんな折、結希奈が何かに気がついたらしく、先ほどのメモ帳に何かを書き始めた。


 ”ねえ、ジーヌは?”

 そういえば目を覚ましてからメリュジーヌの声を聞いていない。いや……。


 ――〈副脳〉がない……!


 メリュジーヌの精神は慎一郎の〈副脳〉の中にあり、本体である慎一郎と魔術的に接続され、視覚や聴覚を共有している。今慎一郎からは彼の〈副脳〉――メリュジーヌの本体――を認識することができない。

 それは、彼の〈副脳〉の接続が切れてしまったということだ。魔術接続は十数メートルほどの有効範囲を持つはずだが、それ以上離れてしまったことになる。


 一体いつ……?


 慎一郎の夏服のブラウスは先ほどのトラの攻撃で背中側がばっくり裂けている。それで生じた傷と出血は結希奈の治療によって概ね回復したが、おそらく、その時に〈副脳〉ケースの肩掛け紐が切れ、崩落の際に置き去りにしてしまったのだろう。


 その途端、足元の地面が崩れ落ちるような衝撃を覚えた。普段からうるさくて、人に限界を超えて食べさせる厄介な同居人だったが、迷宮探索では数多くの適切なアドバイスを授けてくれた先達だ。頼りにしていなかったといえば嘘になる。


 まるで、自分を支える芯のような物がなくなったかのようだった。

 目の前が真っ暗になる。喉がカラカラになる。足が震える。


 しかしその時、身を寄せ合う結希奈の体温に気がついた。小刻みに震えているのは気のせいではないだろう。

 自分よりも頭一つくらい背の低い少女。細身で、強く抱き締めたら折れてしまいそうな儚さがある。


 この子を、守らなければならない。強くそう思った。


 ここから脱出するにはどうすればいい……?

 岩陰から身を乗り出し、そっと辺りを見渡す。


 部屋の出入り口はトラが暴れている付近の一箇所だ。トラを倒すというリスクの高い選択肢は排除した。


(どうにかトラをあそこから引き離して、なおかつ見つからないように逃げ出す……)


 そんな都合のいい方法があるのか?


 そう考えているとき、突然大きな音が鳴った。思わず声が出そうになったが、なんとか声を出さずに済んだ。


 音は〈念話〉の着信だった。辺りを見回してみるが、すぐ隣で身を潜めている結希奈を含め、誰も着信には気づいていない。〈念話〉の着信は本人にしか聞こえないから当然のことだが。

 送信は栗山徹。慎一郎はこめかみに手を当てて、〈念話〉の接続をした。


『慎一郎! 無事だったか!?』

 徹の弾んだ声が聞こえた。どうやら、彼も無事なようだ。


『もしもし? 慎一郎? 聞こえるか?』

 〈念話〉は、着信の音声は魔法の力によって受信者の脳内に送られるが、送信側は声に出して話をしなければならない。

 こちらからは声を出せない。少しでも声を出したらトラに気づかれてしまう、そんな恐怖心が慎一郎を縛っていた。


『もしもし? もしもし?』

 徹が呼びかけてくる。その声は慎一郎以外には聞こえない。

『もしもし、慎一郎? 聞いてるのか?』


(くそっ、どうすればいい?)


 今すぐ徹と話をして何とかしたいという誘惑に駆られる。しかし慎一郎はその誘惑を意思の力で強引にねじ伏せることに成功した。


 そうしている間に、どうやら徹の方が状況を察してくれたようだ。

『わかった。声が出せない状況なんだな。じゃあ、こっちの状況を一方的に話すぞ』

 そう言って徹は話を続けた。


『どうやら、落ちたのはお前と結希奈だけみたいだ。俺と斉彬さん、こよりさんは無事だ。それから、ジーヌも』

 メリュジーヌの名を聞いてほっとした。


『ジーヌはお前との接続が切られて何も見えないみたいだが、元気だ。というか、うるさくて……』


 メリュジーヌの五感は慎一郎の肉体に依存している。メリュジーヌの〈副脳〉は慎一郎と離れてしまい、その接続が切られている状況だ。彼女は今、一切の感覚がない暗闇の世界に居るだろうに徹の反応を見るに相変わらずのようだ。よかった、と胸をなで下ろす。


『わかったよ。ちゃんと伝えてるって』

 と、誰か別の人物と話しているような様子。


『悪いな。ジーヌとも〈念話〉で繋げてるんだ。いいか、よく聞け。お前が今、どういう状況かわからないが、必ず助けに行く。お前はそこから動くな。じっとしてろ』

 その他二、三の注意事項を一方的に話して徹からの〈念話〉は切れた。


 結希奈にそのことを伝えようとしたが、結希奈も誰かからの――おそらくこよりだろう――〈念話〉を受け取って状況を把握したらしい。笑顔でこくりと頷いた。心臓が跳ねる思いがした。

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