脱兎のごとく2

「……!」

 部員たちが息をのむ。


 目の前に立ちはだかるのは大きな、とても大きな白いトラ。


 大きさ自体はかつて旧コボルト村で対峙した“犬神様”よりふたまわりほど大きい程度だったが、威圧感はその比ではない。


 しかし、そこに気配は全く感じられない。

 いや、気配は感じる。下水に入ったときからずっと、全く変わらぬ大きさで。


『気をつけろ。こやつ、自分の気配の大きさを自在に操れるぞ』

 下水に入ったときから、今に至るまで、全く変わらぬ気配。慎一郎たちにここに興味を持たせて、しかもまだ遠くに居ると思わせて安心して中におびき寄せた。そこには確実に意志と知性が感じられる。


 完全に相手の手の内だ。


 しかし、慎一郎は――いや、その場の誰もが指一本動かせなかった。動かしたらやられる。本能的に理解していた。

 絶対的な強者を前にして、なにもできずにやられる――そこに居た人間、全員が覚悟していた。


 周囲の壁に付いている深い傷、そして“卯”の〈守護聖獣〉の命を奪ったのもこのトラなのだろうか……。


 トラは音もなく、全くの無防備に慎一郎たちに近寄り、そして値踏みするように一行の周りをぐるりと回る。


『何者じゃ。無礼であろう』

 一行の中で唯一、人間でない――そして唯一冷静であったメリュジーヌが静かに口を開いた。それは、慎一郎たちと接するものとは全く違う、冷たく、心の芯から冷えるような声だった。それは、万物の頂の上から見下ろす言葉だった。それは、〈竜王〉の言葉だった。


 トラはその声に一瞬ピクリと反応し、足を止めた。そして口を開く――


 ――これは失礼した。竜の係累の方とお見受けする。


「喋った――!?」

 慎一郎の――いや、その場の全員が驚愕した。モンスターが喋るなんて……!


 しかし、メリュジーヌだけは冷静だ。当然、言葉が通じるだろうと声をかけた。

 トラはおそらく彼自身がつけたであろう壁の大きな傷跡の前に立つ。気がつくと、先ほどまでの威圧感が消えていた。今は普通に身体を動かすことができる。


『わしらをここまでおびき寄せたのはそなたじゃ? そこなウサギを殺したのも』

 メリュジーヌの声はあくまで冷静だが、そこには返答次第によってはただで済まないという意思が込められている。


 ――そうであり、またそうではない。


 トラはじっと慎一郎を――正確には、慎一郎が抱えている〈副脳〉のケースを見つめている。メリュジーヌの本体がそこにあることをわかっているかのようだ。


『わしは謎かけのたぐいは好かぬ。聞いてやるから申せ』


 ――オレは“寅”の〈守護聖獣〉。“卯”の〈守護聖獣〉が人にその意思を託したと聞き、オレもそうしようと貴殿らにご足労いただいた。


『ウサギに? あのウサギは貴様が殺したのではないか?』


 ――それは、これから話すオレの“願い”にもかかわること。


 トラのその言葉に、メリュジーヌは表情を変えず、じっとトラを見る。そして――

『……聞こうではないか』


 ――ありがたい。

 トラが頭を下げた。先ほどよりも気配が小さくなった。気のせいか、身体も小さくなったかのように見える。


 ――われら十二の〈守護聖獣〉は、もともと四百年の昔にこの地で暴れた“鬼”を封じるために竜の係累に頼まれ集まってきた者たち。


 ――それ以来、大過なく役目をこなしていたが、異変が生きたのは今からちょうどのことだ。


「三ヶ月前……」

 慎一郎がつぶやいた。三ヶ月前とはちょうど慎一郎と徹、結希奈が壊れたほこらに地下迷宮への入り口を見つけた頃だ。


 ――そうだ、人の子よ。おまえたちがこの迷宮に足を踏み入れる直前のことだ。

 トラはそこで初めて慎一郎の目を見た。黄色く輝く瞳にすでに恐ろしさはなく、深い悲しみをたたえているかのようだった。


 ――何か――とてつもないほど大きな力によって結界の一部が破壊された。

 慎一郎は思い出す。あの破壊されたほこらを。

 あのほこらはたしか倒木によって壊されたはずだ。しかし、トラはことはわかっている。


 ――何が起きたかわからない。しかし、そこから何かが流れ込み、オレたちの心を少しずつ狂わせていった。弱いものから順に、やがて力ある〈守護聖獣〉も少しずつ狂っていった。


 狂ってコボルト達を襲ったという“犬神様”。あれもやはり〈守護聖獣〉だったのだろう。


『……なるほど。そして今、貴様も狂いかけていると?』

 先ほどの威圧感を思い出し、部員たちに緊張が走る。今このモンスターに襲いかかられて、生き残る術はあるのか?


 ――然り。そこに横たわる“卯”の〈守護聖獣〉は聖獣の中でも知恵者として知られていた。故に今まで狂うことなく結界を護っていられたが、オレが殺した。


「殺した……」

 結希奈の声は震えている。しかし、聞かなければならない。これは彼女の先祖の話でもあり、彼女自身に降りかかる話でもある。


 ――おまえはあの人間の係累だな。おまえにも聞く権利がある。おまえにもかかわることだ。

 結希奈は無言で頷いた。トラは満足そうに話を続ける。


 ――オレの心の奥底から黒い、破壊衝動のようなものが湧き上がってくるのだ。今はかろうじてそれを抑えられているが、その均衡は危うい。


 ――数日前、オレは破壊衝動との戦いに敗れ、その結果、“卯”を殺した。


 ――“卯”は死の間際、眷属たちを人に託し、また同時にその命の最後の灯を使い、〈守護聖獣〉の力でもってわたしの黒い衝動を封じた。


 その結果がここに横たわる“卯”の〈守護聖獣〉であり、周囲に無数に残る傷跡――慎一郎は理解した。


『それで? 貴様はわしに――いや、わしらに何を求める? 何を思い、わしらをここに呼び寄せた?』

 メリュジーヌの問いにトラは逡巡を見せる。その姿は王に陳情する民草のようにも見えた。


 ――“権限”を譲り受けてもらいたい。そのためにオレを……殺してほしい……。


「えっ!?」

 声を漏らしたのは結希奈だが、その場の皆が驚いただろう。

 ただひとり、メリュジーヌを除いて。


 メリュジーヌは表情を変えることなくトラに告げた。

『無理じゃ』


 ――何故!? 貴殿は竜の係累――しかもあの“辰”の〈守護聖獣〉とは比較にならないほど高位の存在。ならば……!

 すがるようなトラ。しかしメリュジーヌの声は冷めている。


『見てわからぬか。今のわしは肉体を持たぬ存在。ここにいる仲間たちの力を借りてようやくここに来れる程度の存在に過ぎん』


 ――!!


 まるで、今初めて気がついたかと言わんばかりの驚愕の表情。

『強者が陥りがちな過ちよの。存在ばかりに目を取られ、目に映るものを軽視する』


 ――な、ならば“辰”の〈守護聖獣〉に……! このオレと並び立つあやつならば狂ったオレを殺せるかもしれぬ。どうか、“辰”の〈守護聖獣〉に話を……!


 つい先ほどまでそびえ立つ山のように強大に思えたトラのモンスターが、今では子猫のように見える。やがて来る未来におびえ、目の前の小さな、〈念話〉が作り出す実体を持たない少女メリュジーヌにすがっている。


『トラごときがわが竜の眷属と同格というのは業腹じゃが……いいだろう。その話、伝えておこう』


「いいのかメリュジーヌ? “辰”の〈守護聖獣〉なんて、どこにいるかもわからないのに……」

 慎一郎が小声で耳打ちする。しかしメリュジーヌは涼しい顔で答えた。


『シンイチロウよ、わしが誰か忘れたか? 〈竜王〉に呼びつけられてやって来ない竜などおらぬ』

 そうだ。この竜の頂に立つ〈竜王〉はそれほどの強大な力を持つのだった。


『というわけじゃ。貴様はその衝動とやらに負けぬよう、どこか隅でおとなしく……。ちいっ……!!』

 メリュジーヌが舌打ちをすると同時にトラの気配が膨れ上がっていく。トラを見ると、苦しそうに身体を震わせ、何かに耐えているようだ。


 ――ぐ……ぐぐぐっ……。破壊衝動が……抑えきれない……。このままでは……。に、逃げろ……


『いかん、全員逃げろ! 今すぐ!』

 メルジーヌの叫びに全員が即座に反応した。その場から全力で駆け出す。


 しかし、その猶予は全くと言っていいほど存在しなかった。

 トラの気配が更に大きくなり、はじけたかと思うと、それは衝撃となって襲いかかってきた。


 ――ガォォォォォォ……っ……!!


 気配が見えない衝撃となって子供達に襲いかかった。彼らはなすすべもなく吹き飛ばされる。


 慎一郎たちはすかさず立ち上がり、体勢を立て直そうとした。これまで数ヶ月にわたってモンスターたちと戦ってきた彼らの機敏な動きは賞賛に値する。

 しかし、トラの動きはそんな彼らの動きをはるかに上回っていた。


「…………!!」

 慎一郎の眼前に立ちはだかる巨大な白い影。彼の胴体よりも太い前足が振り上げられる。

 恐怖に震える身体を叱咤して流れる気配から咄嗟にトラの攻撃を読む。――すでに彼の目ではトラの動きを捉えることはできない。


「ぐっ……!」

 彼の剣よりも鋭い虎の爪を間一髪で躱すことができたのは幸運と言うほかになかっただろう。しかしトラの切り裂いた空気が刃となって慎一郎の夏服のブラウスと、その中の彼の身体を切った。慎一郎は己の赤い血しぶきを見た。


 ――次は避けられない……!


「浅村!」

 その時、慎一郎の出血を見て結希奈が駆け寄ってきた。慎一郎を回復するつもりなのだろう。


「高橋さん、来ちゃダメだ!」

 慎一郎が制するが遅かった。トラはゆるりとその視線を結希奈の方へ向けた。そして身体に力を込め、結希奈に飛びかかった。


「きゃっ……!」

っ!」

 慎一郎が咄嗟に結希奈を庇って飛び出した。自分自身の身体を盾にしてトラの攻撃を逸らすことができれば。そう考えての行動だった。


「うぐっ……!」

 慎一郎の背に衝撃が走る。同時に身体が熱く、痺れるような感覚。結希奈に抱きつくように倒れ込んだ。


 意識がもうろうとする。が、トラの追撃はなかった。


 慎一郎の背後では何かに押さえつけられたかのようにトラは這った状態で全身を地面につけていた。


 いや、実際押さえつけられているのだ。トラの後ろには徹が必死の形相で呪文を唱え続けている。強大な力で対象の動きを止めたりダメージを与えたりする〈重力グラビトン〉の魔法だ。

 徹の〈重力〉の威力は相当なもののようだ。その証拠に押さえつけられたトラの周囲の地面はその重さによってひびが割れ、一部が陥没している。

 必死で魔力を供給し続ける徹の額に次々と大粒の汗が流れ落ちていく。




 トラの動きが止まったことで結希奈はその場から離れようとした。しかし、彼女の上には慎一郎が覆い被さるように倒れており、そのままでは動くことができない。


「浅村、浅村。ねえどいてよ」

「うっ……うぅ……」

 しかし、慎一郎はうめくばかりで動こうとはしない。


「ねえ、どうしたのよ。今のうちにここから離れ……えっ!?」

 結希奈が慎一郎の身体を動かそうと背中に手を伸ばしたところ、ぬるっとした感触が伝わった。


 自分の手を見ると、そこにはべったりと血が付いていた。最初の一撃に加え、先ほど結希奈を庇ったときにトラの攻撃が慎一郎の背を切り裂いたのだ。

 慎一郎の額からは粘っこい汗が流れ落ち、その表情は苦悶に満ちている。


「このままじゃ……。竜海の森を守る竜よ……」

 結希奈が祝詞を捧げると慎一郎の身体が淡い緑色に輝く。しばらくすると慎一郎の表情が幾分和らいだように思えた。


 このまま回復を続ければ……。

 結希奈の祈りは続く。




「くそっ。なんて力だ……! これでどうだ!」

 徹が魔法に込める魔力のレベルを引き上げた。〈重力〉の魔法は更に強化され、トラへの下向きの力が強まっていく。徹の額から汗が流れる。その強化は彼の限界レベルにまで達していた。


 しかし、トラの膂力はそれ以上のようだ。トラの四肢の筋肉は大きく膨れ上がり、わずかずつではあるが重力に逆らい、身体を起こし始めていた。


 ズン……!


 その時、鈍い音ともにトラの周囲の地面が盛り上がった。全部で五箇所。

 最初は古山のように盛り上がったそれは成長しパイプのように円筒形になり、やがてトラの身体を掴むように囲んでいく。そのまま土の筒はトラの身体を掴み、強大な力で地面に押しつけていく。


 ――ガァァァァァッ……!!


 トラがもがく。トラの身体を包み込んでいる土の指はぎりぎりとトラを締め上げる。


 こよりのゴーレムだった。地下迷宮の一部を使ってより強大なゴーレムの一部分を作り出す錬金の技は、以前ウシのモンスターと戦ったときにも使った手法だ。

 指だけのゴーレムは〈重力〉の魔法と協力してトラを地面に押さえつけて動きを封じ続けている。


 狂ったトラの筋肉は更に膨れ上がるが、そのパワーをもってしても魔術の拘束を打ち破ることはできない。


「いいぞ! そのまま潰しちまえ!」

 斉彬の歓声が響く。が、それは長くは続かなかった。


 こよりのゴーレムの指が生えている部分を中心に、あたりの地面に広がるひびが大きくなっていく。あまりに強力な下向きの力に、迷宮が耐えられなくなっているのだ。


 その異変にいち早く気づいた斉彬が叫ぶ。

「ヤバい、崩れるぞ! ここから離れ――」


 しかし、その警告が飛ぶよりも早く地面の裂け目が広がり、モンスターの自重と重力とゴーレムの指の圧力に耐えられなくなった地面が崩壊する。


 一瞬の浮遊感のあと、襲いかかる落下感。

 結希奈はそのまま、避けた迷宮の奥底へと落とされていった。

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