大迷宮時代
大迷宮時代1
聖歴2026年7月22日(水)
七月も後半になり、暑い日が続いている。梅雨も明けたようで、ここ数日、晴れた日が続いているから、作物への水やりはこまめにしなければならない。
「ふぅ。よいしょっと」
長袖のジャージ姿に麦わら帽、首にタオルを掛けた女子生徒が畑の傍らに立つ木の根元に敷いたシートの上に腰掛ける。肩の上で切りそろえた髪に丸い顔が柔和な印象を与える少女。園芸部部長の
園芸部は当初、校庭を畑に切り拓いて作物を育てていたが、生産量の増加と他の部が作物の栽培を始めたこともあって徐々にその領域を広げていた。
工程のほぼ全てを畑にしてしまった今では校庭の外も少しずつ畑として活用している。
碧が今いる畑は新しくできたばかりのもので、校庭の脇、プールの近くに作られている。
草むしりが終わり、今は先ほど召喚した雲の精霊に水やりを任せているのでひと休みだ。
碧は今日、一日をここで過ごすつもりだ。この夏の暑い日に長袖のジャージを着込んでいるのも日焼け対策のためだ。
少ない部員で多くの畑を管理するため、本来部員が――特に部長がここまでひとつの畑につきっきりになることはない。
それでも碧がここにつきっきりでいることには理由がある。
碧は持ち込んだ水筒のお茶をコップに注ぎ、ひと息ついた。冷たいお茶が身体を冷やしてくれて気持ちがいい。
じっと畑を見る。草取りも終わった畑には葉が青々と生い茂り、精霊が撒いている水を反射してキラキラと輝いている。
葉の根元には赤い根が覗き見える。そう、ここはニンジン畑。ここのニンジン栽培が軌道に乗ればニンジンの生産量が一気に増える。
だから、この“事件”はなんとしてでも解決しなければならない。
園芸部に起こっている“事件”――それは、三日前に起こった。
三日前、この畑は初めての収穫を迎えていた。この畑の担当であった二年生が朝草むしりと水やりのための精霊の召喚を済ませ、別の担当の畑へと向かった。
そして夕方、収穫のために数人の部員達――碧もその中にいた――が畑に赴いたところ、なかったのだ。ニンジンが。ただの一本も残っていなかった。
前代未聞の作物盗難騒ぎに園芸部は騒然とした。作物は北高生の生命線である。これを盗まれては校内の生徒達の胃袋を直撃しかねない。封印直後の五月に食物不足のためあわやと言ったところまで追い詰められた暴動騒ぎの再来ともなりかねない。
仕方なく新しくニンジンを植え、連日見張りを立てることにした。
それから三日――北高の作物は三日で収獲が可能となる――。今日の夕方にはニンジンが収穫可能となる。“犯人”が再び犯行を繰り返すならば、今日動くのではないか。
後輩が持ってきたお弁当を一緒に食べて、その後輩が空の弁当箱を持って部室に戻ってから更に少し時間が経った。一日でも一番暑い時間帯だ。つつ、と頬を垂れる汗を首に巻いたタオルで拭く。
あまり年頃の女の子らしくない格好だという自覚はあるが、幼い頃から植物を育てるのが大好きだった碧にとって今のこの生活はとても充実しているといえた。
――外に出た後に待ち構えている受験勉強のことさえ考えなければ……。
「やっぱり少し部活動の時間減らして受験勉強しなきゃいけないかなぁ……」
交流のある三年生たちの間には自主的に部活動の時間を減らして受験勉強に取り組んでいる生徒も多い。進学校でもある北高はカリキュラム自体は二年生でほとんど終わり、三年生は受験対策に費やされる。本来ならばとっくに部長の座を二年生に譲り渡して引退していなければならない時期なのだ。
考えたくないことを考えながら、おやつとして持ってきた野菜スティックをかじる。双子の妹の翠が作ってくれたドレッシングにつけた野菜スティックは絶品だ。何本でも食べられる。
そして何気なく畑の方を見た。相変わらずニンジンの葉は元気よく繁り、異常はない。
「ん……?」
いや、今何か、畑の中で動いたように見えた。
碧は持っていた野菜スティックを容器の中にしまい。腰を上げる。
「……!」
見間違えではない。今確かに……。
と、その瞬間、そこに生えていたニンジンが消えた。
碧はつい先ほどまでニンジンが生えていた場所を見ると、ニンジンの太さくらいの穴がぽっかりと空いていて、そこにはニンジンのかけらも見当たらない。
そうしている間に消えたニンジンのとなりに植えられていたニンジンが一本、また一本と次々消えていく。
いや、消えているのではない。まるで下から引っこ抜かれているかのように地の底へと落ちていくのだ。
「ま、待ちなさいっ!」
次の一本が引っこ抜かれるとき、碧はこれ以上盗られてなるものかとニンジンに飛びかかり、力任せにニンジンを引っ張ろうとした。
「ん、んんんんん……!」
しかし、地の底からニンジンを盗もうとしている何者かの力は想像以上に強かった。碧は下半身に力を入れて引っ張り返そうとしたが、その努力は徒労に終わった。地面そのものが崩れる音と自身が落下する感覚を覚えたからだ。
「えぇ!? わ、わわわっ……!!」
数分後、碧と地面の中の何者かが戦っていたプール近くのニンジン畑に静寂が訪れた。木の根元には先ほどまで碧が手に持っていた野菜スティックと彼女の〈副脳〉が取り残されている。遠くから聞こえてくる蝉の鳴き声だけがあたりの地面に染み渡っていた。
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